第28話 観察者はみんなの気持ちが見えるくせに、自分が少し出遅れていることにはちゃんと気づいている
白鳥つばさは、自分が“遅れている”と自覚した瞬間から、少しだけ落ち着かなくなった。
別に、競争だと思っているわけではない。
誰かと誰かが同じ人を好きになって、先に言った方が勝ち、みたいな単純な話ではないことくらい分かっている。
分かっているのに、やっぱり“出遅れている”という感覚は、胸のどこかにちゃんと引っかかる。
朝比奈ことりは、影山涼太へ向ける静かな特別感をもう隠しきれていない。
藤宮みずきは、冗談と本音を混ぜながら、それでも確実に前へ進んでいる。
黒瀬レナは不器用なままでも、拗ねたり、本音をこぼしたりと、距離を縮めること自体は止めていない。
その三人を、つばさはずっと見てきた。
見てきたからこそ分かる。
みんな、観察しているだけではない。
ちゃんと“自分の時間”を影山先輩と積み重ねている。
対して自分はどうか。
図書室で話す。
噂を補正する。
返却本を届ける。
観察対象が壊れないように少し守る。
それはもう観察者の距離ではないのに、それでもどこかで“観察だから”を言い訳にしている。
「……だめですね」
昼休み前の図書室で、つばさは本の背表紙をなぞりながら小さくつぶやいた。
司書の先生はいない。
窓の外では、昼休み前特有のざわつきが少しずつ増えている。
静かな場所は好きだ。
でも最近は、静かだからこそ自分の中の声がはっきり聞こえてしまう。
影山先輩と、もっと普通に話したい。
“ついで”でも“観察”でもなく。
何か理由を挟まずに。
そう思ってしまっている時点で、もうだいぶ後戻りはできない。
「白鳥さん」
不意に声がして、つばさは顔を上げた。
司書の先生だった。
いつの間に戻っていたのだろう。
「はい」
「今日、放課後少しだけ手が足りないかもしれなくて。返却棚の整理、誰か手伝ってくれそうな人いる?」
つばさは一瞬だけ止まった。
これはつまり、理由になる。
図書室の仕事。
誰かに手伝ってもらう。
不自然ではない。
しかも、影山先輩はこういう“ちょっとした頼まれごと”を断りきれないタイプだと、つばさはよく知っている。
「……います」
思っていたよりすぐに声が出た。
「じゃあ頼める?」
「はい」
言ったあとで、自分でも少しだけ笑いそうになる。
やっぱり、自分も十分にずるい。
◆
五時間目が終わったあと、つばさは二年の教室へ向かった。
今はもう、ここへ来るのもそこまで珍しいことではなくなっている。
返却本。
司書の伝言。
図書委員の確認。
理由はいくらでも作れる。
だからこそ、今日は少しだけ本当の理由を混ぜても、不自然ではない気がした。
教室の前で一度だけ息を整え、扉のところから声をかける。
「影山先輩」
影山が顔を上げる。
「あ、白鳥」
「少しだけいいですか」
「何」
つばさは教室の中へ半歩だけ入り、できるだけいつも通りの顔で言った。
「図書室の返却棚整理、少しだけ手が足りなくて」
「へえ」
「もし時間があれば、手伝ってもらえませんか」
それは仕事のお願いとして成立している。
成立しているはずなのに、胸の奥は少しだけ落ち着かなかった。
影山は特に深く考える様子もなく言う。
「別にいいけど」
そのあっさりした返事に、つばさは一瞬だけ拍子抜けする。
「いいんですか」
「手伝うだけだろ」
「はい」
「じゃあ行く」
そういうところだ。
相手が勇気を出していることに、たぶん半分くらいしか気づいていない。
でも、その半分気づいていない感じが逆に自然で、だからこそこちらも呼吸しやすい。
「ありがとうございます」
「おう」
そこで、教室の中からいくつか視線を感じた。
藤宮みずきはまだ部活前なのか、自分の席で頬杖をついたままこちらを見ている。
朝比奈ことりはノートを閉じかけた手をほんの少しだけ止めた。
黒瀬レナは露骨に面倒そうな顔をしているが、きちんと見ている。
その視線の意味を、つばさは分かってしまう。
また一歩、近づいた。
みんなそう思っている。
「じゃあ、先に行ってます」
つばさは軽く会釈して教室を出た。
廊下を歩きながら、少しだけ胸がうるさい。
でも、悪くなかった。
◆
放課後の図書室は、昼間よりも少しだけやわらかい。
差し込む光が傾いて、本棚の影が長くなる。
返却棚には読み終わった本が少し積まれていて、それを分類して元の棚へ戻すのが今日の作業だった。
「何すればいい」
影山が聞く。
つばさは返却棚の端を指さした。
「ジャンルごとに分けてもらえれば、そのあと私が棚へ戻します」
「逆じゃないのか」
「先輩、本棚の分類あんまり詳しくないですよね」
「それはそう」
「なので効率重視です」
「なるほど」
素直だ。
影山はすぐに棚の前へ立ち、本を手に取っていく。
文庫、新書、実用書、雑誌。
表紙と背表紙を見て、わりと丁寧に分けている。
「……慣れてます?」
つばさが聞くと、影山は首を振った。
「いや、でも分類するだけなら分かる」
「きれいですね」
「そうか?」
「はい。雑に積み直すタイプじゃないので」
「褒められてるのか」
「褒めています」
そう言うと、影山は少しだけ困ったように笑った。
その顔を見るだけで、つばさの中の“観察者”がいちいち反応する。
どういう顔をした時に少し照れるのか。
どういう時に本気で困るのか。
そういうことが、最近は前よりずっと見えやすくなっている。
「先輩」
「ん?」
「最近、忙しそうですね」
「急にどうした」
「朝比奈先輩、藤宮先輩、黒瀬先輩、あと相談の人たち」
影山が本を持ったまま少しだけ止まる。
「……まあ、否定はしない」
「大変ですか」
「大変」
即答だった。
つばさは少しだけ笑う。
「でも、嫌そうな顔のわりにはちゃんと付き合ってますよね」
「おまえもみんなもそこよく言うよな」
「事実なので」
「便利だな、その返し」
「最近覚えました」
誰からかまでは言わない。
でもことり先輩とレナ先輩の影響が少し入っている気はする。
影山は分類しながらぽつりと言った。
「おまえも最近、観察だけじゃなくなってきてるだろ」
不意打ちだった。
つばさは思わず手を止める。
「……何のことですか」
「図書室の噂の補正とか、前より普通にフォローしてる」
「観察対象が壊れると困るので」
反射的にそう返す。
でも今日は、自分でもその言い訳が少し薄くなっているのを分かっていた。
影山は少しだけ目を細めた。
「それ、便利な言葉だな」
「先輩こそ“別に”多いですよ」
「おあいこか」
「たぶん」
少し沈黙が落ちる。
本を棚へ戻す音。
遠くで誰かがページをめくる音。
図書室は静かで、その静けさが逆に言葉を押し出してくる。
つばさは、今日ここへ呼んだ本当の理由を思い出していた。
もっと普通に話したい。
観察じゃなくて。
そう思ったのだ。
今なら言えるだろうか。
いや、今を逃すとたぶんまた言えなくなる。
「先輩」
つばさは本を持ったまま、静かに呼んだ。
「ん?」
「今度は」
影山がこちらを見る。
「今度は、観察じゃなくて、普通に先輩と話したいです」
言えた。
言ったあとで、胸の奥が一気に熱くなる。
自分でも驚くくらい、言葉がまっすぐだった。
遠回しでもなく、仕事の名目でもなく、ほとんど本音そのまま。
影山はほんの一瞬だけ止まった。
その沈黙が長く感じる。
失敗したかもしれない。
観察者のくせに、一気に当事者へ踏み込みすぎたかもしれない。
だが影山は、少しだけ目を瞬かせたあと、静かに言った。
「それなら、別にいつでもいいけど」
あっさりしている。
あっさりしているのに、つばさには十分すぎるくらい強い。
「……いつでも?」
「話すだけならな」
「そういうことを、そんなに簡単に言わないでください」
思わずそう返していた。
影山が少しだけ困った顔をする。
「何で」
「今の、だいぶ効くので」
言ってから、さらに恥ずかしくなる。
つばさは慌てて視線を本棚へ逃がした。
背表紙の文字がやけにくっきり見える。
こんなに静かな場所で、自分の心臓だけがうるさいのは不公平だ。
「……白鳥」
影山が少しだけ言いにくそうに口を開く。
「はい」
「そういうの、最近増えたな」
「何がですか」
「おまえがちょっと本音寄りになるの」
つばさは完全に固まった。
見抜かれている。
朝比奈先輩に“それだけですか”と言われた時もそうだったが、やっぱり影山自身もまったく鈍いわけではない。
自分に向けられる変化には、ちゃんと気づいている。
「……困ります?」
小さく聞く。
影山は少しだけ考えてから、首を横に振った。
「いや。困るっていうか、どう返せばいいか分からなくなる」
その答えが、妙に影山らしくて、つばさは少しだけ肩の力を抜いた。
「それなら、たぶんおあいこです」
「何が」
「私も、最近先輩にどう返せばいいか分からない時が増えたので」
影山が一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
つばさもつられて笑う。
図書室の静けさの中で、その笑いだけが少しだけ近く聞こえた。
◆
返却棚の整理が終わる頃には、夕方の光はかなり赤くなっていた。
「助かった」
影山が最後の本を棚へ戻しながら言う。
「いえ。手伝ってもらったのは本当なので」
「それだけじゃなさそうだけど」
その指摘に、つばさはほんの少しだけ目を細める。
「観察力、上がってませんか」
「おまえらのせい」
「それはすみません」
「ほんとにな」
二人で並んで図書室を出る。
廊下の窓の外には、校庭の向こうの空が見えた。
風が少しだけ涼しい。
「先輩」
「ん?」
「今日のこと、観察記録には入れません」
「なんで」
「個人的すぎるので」
影山が少しだけ笑う。
「そういうのもあるのか」
「あります」
そのまま階段のところまで来たところで、つばさは足を止めた。
「じゃあ、ここで」
「おう」
「……あの」
「何」
もう一度だけ、言いたくなる。
今日のことは、自分にとって少し大きかった。
たぶん、ちゃんと区切りをつけておきたかった。
「やっぱり私、少し出遅れてるなって自覚してます」
影山がきょとんとする。
「何に」
「そこから説明させるんですか?」
「いや、何となくは分かるけど」
分かるんだ。
そこは分かるのか。
つばさは少しだけ苦笑した。
「でも、今日一歩くらいは進めたので、それでよしとします」
「白鳥」
「はい」
「たぶん、おまえはおまえのペースでいいんじゃないか」
その言い方が、またずるい。
励ましすぎず、でもちゃんと届くように言う。
だからいつも、つばさは一言多く返したくなってしまう。
「……それ、他の先輩たちにも言ってますか」
「言ってない」
「じゃあ少しだけ、ありがたく受け取ります」
それだけ言って、つばさは階段を下り始めた。
背中が少しだけ熱い。
でも不快ではない。
観察者は、みんなの気持ちが見えるくせに、自分が少し出遅れていることにはちゃんと気づいている。
そして、気づいてしまった以上、もう完全に外側のままではいられない。
それは少し困る。
でも、少しうれしくもある。
階段を下りながら、つばさは小さくつぶやいた。
「……観察じゃなくて、よかったです」
その声は誰にも届かない。
でも今は、それで十分だった。




