第24話 観察者は恋を見抜けても、自分の分だけは案外うまく整理できない
白鳥つばさは、人の感情の動きを見るのがわりと得意だ。
誰が誰を気にしているか。
誰が何を言いかけて飲み込んだか。
誰が“どうでもいい顔”をしながら、本当は全然どうでもよくないのか。
そういうものは、言葉そのものより、視線とか間とか、声の落ちる位置とかに出る。
つばさは昔から、そういう細部を見る癖があった。
だからこそ、最近の教室の空気もかなり分かる。
朝比奈ことりは、影山涼太のことになると静かに感情が揺れる。
大きく騒ぐことはないけれど、彼が他の女子に対してやさしくしている場面では、ほんの少しだけ呼吸が変わる。視線が止まる。笑うタイミングがわずかに遅れる。
藤宮みずきはもっと分かりやすい。
勢いで距離を詰めて、冗談のふりで本音を投げて、自分で照れて、でもまた次の瞬間には笑ってごまかす。そのくり返しだ。
元気系女子の無敵さに見えて、実際にはかなりちゃんと意識している。
黒瀬レナはその逆で、意識しているからこそ無愛想になる。
影山に向ける言葉だけ、ときどきぶっきらぼうの質が変わる。
ただの拒絶ではなく、困っている人間が距離を測りかねている時の棘だ。
そして影山涼太自身も、たぶんもうそれぞれを“ただのクラスメイト”では見ていない。
鈍いようでいて、ちゃんと反応が違う。
朝比奈には丁寧に言葉を選び、みずきには呆れた顔をしながらも受け止め、レナには聞きすぎず放さなすぎずの距離を取る。
その全部が見えている。
見えているのに。
「……なんで自分のことだけ、こんなに分かりづらいんでしょうね」
放課後前の図書室で、小さくつぶやいた。
目の前には開いた文庫本。
けれど内容はあまり頭へ入ってこない。
理由は簡単だ。
最近、自分もまた、影山涼太のことを“面白い先輩”以上に見始めている気がするからだ。
それを認めるのは、少しだけ悔しい。
観察者は本来、距離を取るべきだ。
近づきすぎると、見えるものの輪郭が曖昧になる。
人の恋愛感情なんて特にそうだ。中に入れば入るほど、自分の見たいものまで混ざる。
だからつばさは、ずっと少し離れた場所から見ているつもりだった。
でも最近は、影山先輩の変な噂が広がりそうになると口を挟んでしまう。
困っていればフォローしたくなる。
話しかけられるとうれしい。
そういう、自分でも面倒な反応が増えている。
「だめですね、ほんとに」
もう一度つぶやく。
すると、カウンターの奥で司書の先生が本の束を持ち上げながら言った。
「白鳥さん、何か言った?」
「いえ、独り言です」
「珍しいね」
珍しいのだろう。
自分でもそう思う。
◆
昼休み、つばさは返却本を持って二年の教室へ向かった。
これは図書委員の仕事だ。
少なくとも、表向きはそうなっている。
もちろん、本当に届ける本はある。
でも正直に言えば、ついでに空気を見たい気持ちもある。
扉のところまで来ると、ちょうど教室の中が少しざわついていた。
「え、じゃあ今度の土曜ってほんとに?」
「何それ、藤宮どっか行くの?」
「べ、別に普通に買い物だけど!」
みずきの声だ。
なるほど、早速何かあったらしい。
つばさは少しだけ足を止めて中を見る。
藤宮みずきが顔を赤くしていて、その近くで影山先輩が本気で困った顔をしている。
朝比奈ことりは一見いつも通りだが、ノートを持つ指先に少しだけ力が入っている。
黒瀬レナは露骨に面倒そうな顔をしているものの、完全に無関心ではない。
分かりやすい。
「先輩」
つばさが声をかけると、何人かが振り向いた。
影山が「白鳥」と少しだけ救われたような顔をする。
みずきは「タイミング!」と騒ぎ、ことりは小さく会釈し、レナは「また来た」とでも言いたげに目を細めた。
「返却本です」
つばさは影山へ本を差し出す。
「助かる」
その一言が、妙に素直にうれしい。
困る。
「何かあったんですか」
つばさがさりげなく聞くと、みずきが自分で墓穴を掘りにいった。
「別に何もない! ただちょっと影山と土曜に買い物行くってだけ!」
ことりのまつげがわずかに揺れた。
レナが小さく鼻で笑う。
「ちょっと、ではないでしょ」
「黒瀬うるさい!」
「図星」
つばさは一瞬だけ、影山を見る。
影山は完全に“どうしてこうなった”という顔をしていた。
あの人は本当に、こういう時だけ妙に分かりやすい。
それを見て、つばさは少しだけ胸の奥がちくりとした。
ああ、と思う。
たぶんこういうところなのだ。
朝比奈も、みずきも、レナも。
みんなが少しずつ引っかかっているのは。
ちゃんと困る。
ちゃんと受け取る。
ちゃんと、相手ごとに反応が違う。
そういう人を前にしたら、誰だって“自分は少し特別なのかも”と思ってしまう。
そして自分も、いま少しだけ同じ側へ足を踏み入れかけている。
「白鳥さん?」
ことりが小さく呼ぶ。
つばさははっとして視線を戻した。
「はい」
「どうかしましたか」
「いえ。藤宮先輩、かなり分かりやすいなと思って」
素直にそう言うと、みずきが「白鳥ちゃんまで!」と騒ぐ。
教室に小さな笑いが起きる。
その空気に紛れるように、つばさは少しだけ呼吸を整えた。
危なかった。
今、自分の感情へ入り込みかけた。
そうなると、見えるものまでずれる。
でも、完全には戻れない。
◆
その日の放課後、つばさは図書室で作業をしながら、昼の場面を何度も思い出していた。
藤宮先輩のまっすぐさ。
朝比奈先輩の静かな揺れ。
黒瀬先輩の隠しきれない反応。
そして、その真ん中で困っている影山先輩。
ここまではよく分かる。
問題は、その光景を見ていた自分だ。
みずきが影山を土曜へ誘ったと聞いた瞬間、胸のあたりが少しだけ引っかかった。
朝比奈の指先に力が入ったのも見えた。
レナの目がわずかに細くなったのも見えた。
それと同時に、自分の中にも小さな違和感が走っていた。
あれは何だろう。
面白い、ではない。
観察対象に変化があったから興味を引かれた、でも少し足りない。
「……」
本を閉じる。
答えは、もうかなり近いところまで来ている気がした。
認めたくないだけだ。
つばさは人の恋愛感情ならわりと読める。
でも、自分の分だけは、観察の距離が近すぎてぼやける。
あるいは逆に、見えすぎてしまって認めにくいのかもしれない。
「白鳥さん」
司書の先生がカウンターの向こうから呼ぶ。
「この本、二年の影山くんに返却期限のメモ渡しておいてもらっていい?」
つばさは一瞬だけ目を見開いた。
タイミングがいいのか悪いのか。
「……はい」
紙片を受け取る。
たったそれだけなのに、少しだけ胸が騒ぐ。
図書室を出て、廊下を歩く。
夕方の校舎は、昼間より少し静かで、声も足音も遠くなる。
こういう時間帯の方が、人の本音は見えやすい。
二年の教室の前まで来ると、扉は半分開いていた。
中をのぞく。
人はだいぶ減っている。
影山先輩は自分の席で鞄を閉じていた。
朝比奈先輩はまだ教室にいて、何かノートをまとめている。
レナはいない。
みずきももう部活へ行ったのだろう。
「先輩」
つばさが声をかける。
影山が振り向いた。
「またいた」
「返却期限のメモです」
「ほんとに図書室の使いだな、おまえ」
「たまには本当にそうですよ」
つばさは紙片を渡す。
影山は受け取って、少しだけ笑った。
「ありがと」
その“ありがと”が、なぜか昼より近く感じた。
ことりが席から顔を上げる。
「あ、白鳥さん」
「こんにちは」
軽く会釈を返す。
その瞬間、つばさはふと気づいた。
朝比奈ことりは、こういう時の自分をちゃんと見ている。
観察者同士、とでも言うのか。
黙っていても、少しずつ分かることがある。
「……」
ことりの目はやわらかい。
でも、何か少しだけ知っているような色もある。
嫌な予感がした。
「白鳥さん」
ことりが静かに言う。
「はい」
「少しだけ、いいですか」
影山がきょとんとする。
「何だよその呼び方」
「なんでもありません」
ことりは穏やかに言って、つばさへ小さく視線を向けた。
廊下側へ少しだけ移動する。
つばさもついていく。
二人きり、ではない。
でも影山には聞こえないくらいの距離。
「どうかしましたか」
つばさが聞くと、ことりは少しだけ迷ってから言った。
「白鳥さんって、たぶん色々見えてますよね」
「……何の話でしょう」
「私たちのことです」
つばさは一瞬だけ黙った。
ごまかすことはできる。
でも、ことり相手にはたぶん無駄だ。
「それなりには」
「ですよね」
ことりは小さく笑った。
その笑みは、敵意のあるものではない。
むしろ、少しだけ安心しているように見えた。
「影山くんのことも、よく見ていますよね」
その一言で、つばさは久しぶりに返答へ詰まった。
朝比奈ことりは、やっぱり鋭い。
鋭いのに、それを振り回さないから余計にやりにくい。
「観察対象ですから」
いつもの言い訳を返す。
ことりは、そこでほんの少しだけ首をかしげた。
「それだけですか」
まっすぐだった。
逃げにくい問いだった。
つばさは数秒だけ沈黙して、それから小さく息をついた。
「……そうだと言えれば、楽なんですけど」
ことりの目が少しだけやわらかくなる。
「やっぱり」
その“やっぱり”が、なぜか責める感じではなくて、つばさは逆に肩の力が抜けた。
「分かりやすいですか」
「少しだけ」
「それは困りますね」
「私は、困らないです」
ことりの返答に、つばさは少しだけ目を丸くした。
予想していた反応と違った。
「いいんですか」
「いいか悪いかで言うなら、たぶん、よくはないのかもしれませんけど」
ことりは少しだけ言葉を選ぶ。
「でも、白鳥さんがちゃんと影山くんを見てくれてるのは、私は少し安心します」
それは思ってもみなかった言葉だった。
つばさはほんの一瞬、何も言えなくなる。
嫉妬されることはあっても、こんなふうに言われるとは思っていなかった。
「……朝比奈先輩、やっぱりちょっとずるいですね」
つばさが言うと、ことりは困ったように笑った。
「よく言われます」
「たぶん、自覚はあまりないですよね」
「そうかもしれません」
その会話の途中で、教室の方から影山の声がした。
「おい、二人して何の話してるんだ」
つばさとことりが同時に振り向く。
「秘密です」
つばさが先に答えると、影山は本気で困った顔をした。
「またそういう」
「先輩は秘密を拾う側ですから、たまには反対側も経験してください」
「意味分からない理屈だな」
その顔を見て、ことりが小さく笑う。
つばさも少しだけ笑ってしまう。
その瞬間、自分の中の感情が、前より少しだけはっきりした気がした。
この人が困っている顔を見るのは、たしかに面白い。
でもそれだけではない。
ちゃんと笑える困り方でいてほしいし、変な風に傷ついてほしくない。
近くで見ていたいし、たまには自分の言葉もちゃんと届いてほしい。
それはもう、観察対象への興味だけでは説明できない。
◆
帰り際、つばさは一人で図書室へ戻る廊下を歩いていた。
夕方の窓は赤く、校舎の影が長い。
自分の歩幅に合わせて、気持ちも少しずつ整理されていく。
観察者は恋を見抜ける。
少なくとも、自分はそう思っていた。
ことりがどれだけ影山を特別に見ているかも、みずきの冗談にどれだけ本気が混ざっているかも、レナがどこで言葉に詰まるかも、だいたい分かる。
なのに、自分のことだけは少し遅い。
いや、遅いというより、見えていたのに認めていなかっただけかもしれない。
「……観察対象としては、もう少し距離を取るべきなのに」
ぽつりとつぶやく。
でも、たぶん取れない。
今日、朝比奈ことりに言われてしまった。
それだけですか、と。
あれで認めざるを得なくなった。
自分はもう、外側から見ているだけではいられない。
少しずつ、ちゃんと当事者側へ寄ってしまっている。
それは困る。
少し悔しい。
でも、完全に嫌でもない。
それがいちばん厄介だった。
「……ほんと、やりにくいですね」
誰にともなく言う。
でもその声は、思っていたよりやわらかかった。
夕方の廊下を歩きながら、つばさは自分の中の答えをようやく受け入れかけていた。
もう少し距離を取るべきなのに。
たぶん、もう無理だ。
影山涼太という観察対象は、少し前から、とっくにそれ以上のものになり始めている。




