第23話 近寄りがたい女子ほど、夏前の夕方に本音をこぼしやすいらしい
黒瀬レナは、自分がこんなふうに帰り道の空気を意識する人間だとは思っていなかった。
昔から放課後は嫌いではない。
授業が終わって、教室のざわつきが少しずつほどけていく時間。
部活へ向かうやつ、寄り道の約束をするやつ、急いで駅へ向かうやつ。そういう流れの中に自分も紛れて、誰とも深く関わらず帰っていく。そういう距離感がちょうどよかった。
なのに最近は、その“帰るだけ”の時間が少しだけ面倒になっている。
理由は分かっていた。
影山涼太だ。
「……ほんと、何なんだろ」
六時間目の終わり、机へ肘をついたままレナは小さく呟いた。
窓の外には初夏の光が残っている。
教室の中では、みずきがまた誰かと騒いでいて、朝比奈ことりはいつものように整った動きで帰り支度をしている。白鳥つばさは今日は図書室にいるのだろう、見当たらない。
その全部が、少し前までの自分なら“他人の風景”で済んでいた。
今は違う。
とくに影山がその風景の中にいると、妙に目に入る。
誰かの相談に短く答えたり、忘れ物を拾って机の上へ戻したり、女子から声をかけられると少しだけ困った顔をして、それでも雑には扱わなかったり。
そういう一つ一つが、レナにはやけに引っかかる。
そして、いちばん面倒なのは、その“引っかかり”が嫌いではないことだった。
あの雨の日。
立ち往生した自分へ、余計なことを聞かずに袋とタオルを差し出した。
さらに別の日、帰りたくない家の空気から少しだけ逃がしてくれた。
静かな部屋。温い麦茶。変に気を遣わせない距離。
あそこを思い出すと、胸の奥のどこかが少しだけゆるむ。
それが悔しい。
「黒瀬」
低い声で名前を呼ばれ、レナは顔を上げた。
影山が立っていた。
「帰るか」
たったそれだけ。
なのに、レナは一瞬だけ返事に詰まった。
まるで今日も当然のように一緒に帰る前提で話してくるところが、ほんとうにずるい。
「……何であんたが決めるの」
「決めてない。聞いただけ」
「同じようなもんでしょ」
「そうか?」
そういうところだ。
レナは鞄を持ちながら立ち上がった。
「今日は別に、付き合わなくていい」
「付き合うって何だよ」
「言い方の問題」
「じゃあ帰り道が途中まで一緒なだけ」
「それも微妙にずるい」
影山は少しだけ困った顔をした。
その顔を見ると、もう少し言ってやりたくなる。
「……何」
「いや、今日の黒瀬、最初から機嫌悪いなって」
「悪いけど」
「だろうな」
そこで否定しないのがまた腹立つ。
でも、その腹立たしさの裏にあるものを、自分はもう少しずつ理解し始めていた。
影山が相手だと、自分は不機嫌を隠すのが少しだけ下手になる。
たぶん、“隠してもどうせ見抜かれる”とどこかで思っているからだ。
それもまた悔しい。
◆
校門を出て、駅とは逆方向の細い道へ入る。
レナの家は駅と反対だ。影山の家も、途中までは同じ方向だった。
だからこうして並んで歩くこと自体は不自然ではない。
不自然ではないのだが、レナの中ではもう“ただの偶然”では済まなくなっている。
風が少しぬるい。
夕方の匂いが、ほんの少しだけ夏に近い。
「今日、何かあった?」
影山が聞く。
「何で」
「なんとなく」
その“なんとなく”が嫌いだ。
きっと本当は、レナの機嫌の悪さも、疲れも、少しは顔に出ているのだろう。
でもそれを“見てます”とは言わず、“なんとなく”で済ませるところが、たぶんこの人のやさしさなのだ。
「別に」
いつもの返しをする。
影山は少しだけ笑った。
「最近その“別に”の精度落ちてるぞ」
「うるさい」
「昔の黒瀬ならもっと刺さる感じで言ってた」
「観察しないで」
「勝手に入るだけ」
「それが観察って言うの」
並んで歩きながら、レナは小さく息を吐いた。
今日は家に特別な“客”が来る日ではない。
でも機嫌が悪い理由は、ちゃんとあった。
母親と朝少し揉めたのだ。
進路のこと。
女の子なんだから、もう少し愛想よくしなさいとか、人と合わせなさいとか、そういう、聞き飽きた言葉の延長線みたいなやつ。
悪意があるわけじゃないのは分かっている。
でも、分かっていても疲れるものは疲れる。
「……親とちょっと」
ぼそりと言う。
「ん」
影山はそれ以上急かさなかった。
「朝からうるさくて」
「うん」
「別に大げさな話じゃない」
「だろうな」
「何それ」
「大げさな話なら、おまえはその言い方しない」
レナは少しだけ口をつぐむ。
やっぱりこの人は、見ている。
人の言い方とか、黙り方とか、そういうところを妙にちゃんと見ている。
「……面倒だっただけ」
少し遅れて、そう付け足す。
「女の子なんだから、とか。もっと感じよくしろとか。そういうの」
影山は少し黙ってから、低く言った。
「面倒だな」
「でしょ」
「うん」
ただそれだけ。
励ましもしないし、“お母さんも心配してるんじゃないか”みたいな正論も言わない。
代わりに、本当に面倒だと思っている声音だけが返ってくる。
それで十分だった。
たぶん自分は、こういうところに弱い。
正しさより先に、しんどさをしんどいものとして受け取ってくれる人に。
「……あんたさ」
「ん?」
「よくそんな普通に返せるよね」
「何が」
「こういう話」
「普通じゃない返し方あるか?」
「あるでしょ。もっと説教っぽくなるとか」
「した方がいい?」
「最悪」
「じゃあしない」
その会話の流れが心地よくて、レナは少しだけ悔しくなった。
気を張らなくていい。
でも踏み込みすぎない。
そういう距離が、最近の自分にはちょうどよすぎる。
◆
駅前とは逆方向の、静かな住宅街の小さな公園。
レナは自然にそこへ足を向けていた。
以前、一度だけ二人で座ったベンチがある場所だ。
立ち止まってから、自分でも気づく。
なんでここに来たんだろう。
答えは分かっていた。
ここだと少し静かだからだ。
そして静かな場所にいると、逆に余計なことを考えるからこそ、誰かが隣にいた方が楽なのだ。
「座るのか」
影山が聞く。
「……ちょっとだけ」
ベンチへ腰を下ろす。
影山も、少し距離を空けて座った。
風が木の葉を揺らしている。
遠くの道路の音が小さく聞こえる。
夕方の光はやわらかくて、教室や廊下とは違う静けさがあった。
レナは前を見たまま、小さく言う。
「家みたいにうるさい場所じゃないと、余計なこと考える」
前に一度、同じようなことを言った。
その時は誤魔化した。
でも今日は、少しだけ先へ進んでしまいそうだった。
「何を」
影山が聞く。
やっぱり聞く。
でも詰めるような聞き方ではない。
レナが答えなければ、それ以上は来ないことも分かっている。
だから困る。
「……いろいろ」
「雑だな」
「細かく言いたくない」
「じゃあいい」
影山はすぐに引いた。
その引き方がまたちょうどいい。
少しだけ、レナは息を吐く。
「でも、考えるの」
「うん」
「最近、自分でもちょっと変だなって思う」
影山は何も言わずに待っていた。
その待ち方が、続きを言わせる。
「前はさ、学校のやつとこんなふうに帰ったり、話したり、別にしなくてよかったのに」
「今は違う?」
レナは少しだけ眉を寄せた。
「……違う」
「へえ」
「そこ、へえなんだ」
「意外だったから」
「何が」
「黒瀬が自分からそういうこと言うの」
レナは目を細める。
「言わせてるのはあんた」
「俺?」
「そう」
本当にそうだと思う。
影山が変に普通だから、自分の方だけが少しずつ崩れていく。
気づけば、今日はしんどいとか、家が面倒だとか、静かな方が余計なこと考えるとか、前なら絶対に口にしなかったことまで言っている。
それが、最近ずっと面倒だった。
「……あんたのせいで」
小さく言う。
「最近ちょっと面倒」
前にも言った言葉だった。
でも今日は、その意味が少しだけ違う。
前は、自分でもよく分からないまま口にして逃げた。
今は、少しだけ意味が見えている。
「何が」
影山はまた聞く。
やめろ。
そこを聞くな。
レナは俯いて、膝の上で指を組んだ。
「……こういうの」
「こういうの?」
「考えること増える感じ」
言葉にすると、余計に恥ずかしい。
でも止まれなかった。
「前まで、放課後なんて帰るだけだったのに。今は今日あんたいるかな、とか、何か言われたらどう返そうとか、そういうのちょっと考える」
言ってしまった。
言ったあとで、本気で顔が熱くなる。
影山はすぐには何も言わなかった。
横で少しだけ動く気配がする。
でも、変に慰めるわけでもなく、すぐに茶化すわけでもない。
それが余計に、心臓に悪い。
「……黒瀬」
「何」
「それ、俺もたまにある」
予想外の返事だった。
レナは顔を上げる。
「は?」
「いや」
影山は少しだけ困った顔で言う。
「最近、おまえらといると平穏じゃないなって思うこと多いし」
「おまえらってまとめるな」
「じゃあ黒瀬も含む」
「余計だめ」
でも、その返事に少しだけ救われてしまう。
自分だけが落ち着かなくなっているわけではないのかもしれない、と。
「……そういう意味じゃなくて」
レナは少しだけむきになって言う。
「私はもっと、こう……」
言葉が詰まる。
なんて言えばいいのか分からない。
信頼、と言ってしまうと少し足りない。
好き、と言うにはまだ怖い。
でも、ただ“面倒”だけではもう済まない。
影山は少し待って、それから静かに言った。
「無理に言わなくていい」
その言葉に、レナはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
助かった、と思う。
同時に、またそこで止められることに少しだけ物足りなさも感じる。
それがいちばん面倒だった。
「……ずるい」
思わずこぼす。
「何が」
「そういうとこ」
「何もしてないけど」
「だから」
レナは顔を背けた。
「普通にしてるの、ずるい」
影山はそこで少しだけ黙り、それから本当に小さく笑った。
「それ、この前も言ってたな」
「覚えてるんだ」
「覚えるだろ」
「……最悪」
でも今の“最悪”は、少しだけやわらかい。
完全に嫌ではない。
むしろ、こうして言えること自体が少しうれしいのかもしれない。
◆
帰り際、レナは立ち上がった。
「もう帰る」
「うん」
「今日はありがと」
「何が」
「……座ってたこと」
その言い方に、影山が少しだけ目を細める。
「座ってただけだけど」
「それがいい時もあるでしょ」
「まあな」
レナは鞄を持ち直した。
もう少しだけ言いたいことがある気がした。
でも今はまだうまく言葉にならない。
ただ一つだけ、確かなのは。
影山涼太のことを考える時間が、前より増えている。
しかもそのこと自体を、前ほど嫌だと思えなくなっている。
「じゃあ」
「ああ」
歩き出しかけて、レナはふと思い出したように振り返った。
「……今度、また家うるさい日あったら」
「うん」
「その時は、先に言うかも」
それだけ言って、今度こそ足を止めずに歩き出す。
影山が後ろで何か返した気がしたが、ちゃんと聞かなかった。
聞いたらたぶん、また余計なことを考える。
でも、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。
近寄りがたい女子ほど、夏前の夕方に本音をこぼしやすいらしい。
もしそれが本当なら、いちばん困っているのはたぶん自分自身だ。
それでも、少しだけ心地いいと思ってしまうのだから、もうかなり手遅れなのかもしれなかった。




