第21話 優等生は夏になると少しだけ無防備で、それを見た男子はたぶん落ち着けない
夏服が始まって二日目の朝、影山涼太は前日よりさらに危機感を持って家を出た。
危機感、というと大げさかもしれない。
だが少なくとも、“昨日みたいに一日中わたわたしたくない”という切実な意思はあった。
夏服はもう見た。
ことりも、みずきも、レナも、つばさも、それぞれ昨日の時点で十分すぎるほど見た。
つまり今日は慣れているはずだ。
今日まで動揺していたら、それはもう完全に自分の問題である。
「……自分の問題なのは、たぶんそうなんだけどな」
駅までの道を歩きながら、涼太は小さく呟いた。
昨日はひどかった。
みずきには朝から面白がられ、レナには見抜かれ、つばさには“夏服初日で完全に挙動不審”と記録され、ことりには静かに「女子慣れしていないだけだと思います」と言われた。
事実だから反論しにくいのが最悪だった。
女子慣れしていない。
それはもう認める。
認めるが、だからといって毎回そんなふうに動揺したいわけではない。
むしろ今日はちゃんと平常心で、普通に、自然に、余計なことを考えず過ごしたい。
「よし」
教室の前で小さく気合いを入れる。
大丈夫。
今日は普通にやる。
そう思って扉を開けた瞬間、その決意はだいぶ危うくなった。
◆
朝比奈ことりが、窓際で本を読んでいた。
ただ、それだけならよかった。
ただ、それだけなら、昨日の続きとして“ああ、今日も夏服なんだな”で済んだ。
だが問題は、ことりが今朝に限っていつもより少しだけ髪をまとめていたことだった。
高い位置ではない。
後ろで軽く結んで、首まわりが少し見えるくらいの、ほんの控えめなまとめ方。
たぶん暑いからだろう。
本人に深い意味はないはずだ。
ないはずなのに、涼太の脳は一瞬で判断を放棄した。
「……」
扉を開けたまま二秒ほど止まる。
ことりがその気配に気づいて顔を上げた。
「おはようございます」
その言い方も、いつも通りだ。
落ち着いていて、丁寧で、何も変わらない。
変わっていないからこそ、こちらだけが変に意識しているのがはっきりしてしまう。
「……お、おはよう」
少しだけ返事が遅れた。
ことりがほんの少しだけ首をかしげる。
「どうしました?」
「何でもない」
即答したものの、何でもないわけがない。
しかもその即答が、何でもある人間の返し方だった。
ことりはそこで一瞬だけ何か考えるような顔をしたが、すぐには何も言わなかった。
それが逆にありがたいような、余計に落ち着かないような、微妙な気分になる。
席へ向かいながら、涼太は本気で思った。
今日は危ない。
昨日より危ない。
夏服二日目なのに、まったく慣れていないどころか、むしろ前日より破壊力が増しているのはどういうことだ。
◆
一時間目が始まってからも、涼太の調子は完全には戻らなかった。
ことりは前の方の席に座っている。
直接ずっと見えるわけではない。
なのに、ふとした瞬間に横顔が目に入る。
ノートを取る時、まとめた髪が少しだけ揺れる。
首元に落ちる影の感じが、昨日と違う。
夏服の軽さと、普段より少しだけ無防備に見える雰囲気が合わさって、妙に落ち着かない。
「影山」
突然名前を呼ばれ、涼太はびくっとした。
教師だった。
「聞いてたか」
「……はい」
「じゃあ次、読んでみろ」
危なかった。
聞いていなかったら確実に終わっていた。
なんとかごまかして読み上げる。
前の席の男子が少しだけ肩を揺らしていた。笑われている。
最悪だ。
休み時間になると、みずきがすぐに来た。
「影山」
「何だよ」
「朝から固まりすぎじゃない?」
「固まってない」
「固まってたって。教室入った時、三秒くらい止まってたし」
「盛るな」
「盛ってない」
みずきはにやにやしている。
そのにやにやが、今日は特に腹立たしい。
「で、原因は朝比奈でしょ」
「何で決めつける」
「だってあれは分かるもん」
「何がだよ」
「髪」
即答だった。
涼太が言葉に詰まる。
みずきはそれを見て、完全に確信した顔になる。
「ほら」
「おまえ、本当に余計なとこだけ鋭いな」
「えへん」
「褒めてない」
「でも当たりでしょ?」
そこへ、ちょうどことりが席を立った。
配布物を先生へ届けるらしい。
みずきはちらっとそちらを見て、またこちらへ顔を寄せる。
「朝比奈、絶対あれ無自覚だよね」
「……たぶんな」
「でも影山には効いてる」
「効いてない」
「今の否定、弱かったよ」
そこでさらに小さな声が後ろからした。
「相変わらず分かりやすい」
レナだ。
もう駄目だ。
今日は四方八方から逃げ場がない。
「黒瀬まで」
「事実だから」
「……今日のおまえら、敵だな」
「違うよー。観察者」
みずきが楽しそうに言う。
「いちばんたち悪いな、それ」
レナは椅子にもたれたまま、ことりの背中をちらりと見て、ぽつりと言った。
「まあ、今日の朝比奈はちょっと反則」
思わず、涼太はレナを見る。
レナはそれ以上何も言わず、視線を逸らした。
だが、今のはわりと本音だろう。
そう思ってしまう時点で、もう自分一人の問題ではない気もしてきた。
◆
昼休み。
ことりが自分から近づいてきたのは、その頃だった。
「影山くん」
「……ん?」
声をかけられて、涼太は少しだけ身構える。
ことりは弁当箱を持ったまま、控えめに首をかしげた。
「少しだけ、いいですか」
「いいけど」
みずきが向かい側から、ものすごく面白そうな顔でこちらを見ているのが分かる。
レナは露骨に関わりたくない顔をしている。
だからこそ、ことりは教室の後ろ、窓際の方へ少しだけ移動した。
二人きり、というほどではない。
でも、少しだけ会話しやすい距離になる。
「どうした」
ことりは一瞬だけ迷い、それから静かに聞いた。
「やっぱり、夏服……変ですか」
その問い方は、昨日より少しだけ弱かった。
たぶん本当に気にしているのだろう。
「変じゃない」
今日はすぐに答えられた。
それは本音だったからだ。
「本当に?」
「本当に」
「でも、朝から少しだけ」
「……挙動不審だった?」
ことりが少しだけ目を見開く。
涼太はそこで、軽く観念した。
「否定してもたぶん無理だろ」
ことりが小さく笑った。
「はい。少しだけ分かりやすかったです」
「やっぱりか」
「でも」
ことりはそこで少しだけ視線を落とす。
「嫌そうではなかったので」
その言葉に、涼太は息を止めた。
嫌そうではなかった。
それを、ちゃんと見ていたのか。
「……嫌じゃないよ」
自然と出た。
「ほんとに?」
「うん。変っていうか」
言葉を探す。
昨日よりは少しだけ落ち着いているつもりでも、やはりこういう時の語彙は足りない。
「……少し雰囲気が違って見えるだけ」
それは昨日と同じ表現だった。
だが、今日はもう少し先まで言えそうだった。
「髪まとめてるから、たぶん」
ことりが一瞬、止まる。
「あ」
「暑いからだろ?」
「はい」
「それで」
そこまで言って、少しだけ恥ずかしくなる。
でもここで止まる方が余計に不自然だ。
「……少し、いつもより近く見える」
ことりの頬が、ふわっと赤くなった。
まずい。
言いすぎたかもしれない。
だが、ことりは困った顔ではなかった。
少し驚いて、少しだけ照れて、そしてたぶん、ちゃんとうれしそうだった。
「近く、ですか」
「いや、その、距離じゃなくて」
「分かっています」
ことりが小さく笑う。
「でも、そう言われると少しだけうれしいです」
「……そうか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなくなる。
ことりはそんな涼太を見て、また静かに言った。
「私、昨日から少しだけ気になっていて」
「何が」
「影山くん、目をそらす時と、そうじゃない時の差が分かりやすいので」
「やめてくれ」
ほんとにやめてほしい。
ことりはくすっと笑った。
「でも、変じゃないなら安心しました」
「変じゃない」
「なら、明日もこの髪型で来ても大丈夫ですか」
不意打ちだった。
「え」
「だめですか」
「だめじゃないけど」
「じゃあ、そうします」
ことりは穏やかに言った。
その言い方があまりにも自然で、涼太は逆にどうしていいか分からなくなる。
それはつまり、自分の反応を見たうえで、明日もそうするということではないのか。
そんなの、かなり意識されているってことではないのか。
いや、考えすぎか。
でも考えるだろ、普通。
「……朝比奈」
「はい」
「それ、たぶん俺で遊んでるだろ」
思わず言うと、ことりは本気で少しだけ目を丸くした。
「そんなつもりはありません」
「今の一瞬、ちょっとだけ楽しそうだった」
「……少しだけ、かもしれません」
「あるのかよ」
ことりがまた笑う。
その笑顔は、前よりずっと柔らかい。
優等生の顔ではなく、ちゃんとこっちだけを見て笑っている顔だ。
そこへ、後ろからぱちぱちと手を叩く音がした。
「はいはい、おしまい」
みずきである。
いつから聞いていた。
「おまえ、どこからいた」
「“近く見える”あたりから」
「最悪だ」
「いやー、影山がんばったね」
「何をだよ」
「言葉選び」
レナも少し離れた席から言う。
「今日は昨日よりまし」
「比較されるのか」
「されるでしょ」
ことりは少しだけ気まずそうにしていたが、完全に嫌そうではなかった。
むしろ今は、ちゃんと安心した顔をしている。
それを見て、涼太は思う。
夏服って、ほんとに厄介だ。
ただ服が変わっただけなのに、見え方が変わる。
見え方が変わると、言葉の選び方も変わる。
今までなら流していた一言が、妙に近くなる。
◆
放課後。
ことりは帰り支度を終えても、すぐには教室を出なかった。
今朝からのことを、何度も思い出していた。
髪をまとめたのは本当に暑かったからだ。
けれど、影山くんがそれを見て少しだけ戸惑っていたのを感じた瞬間、少しだけうれしくなったのも事実だった。
それはきっと、いい意味で。
自分がただのクラスメイトじゃなく見えたのなら、少しだけうれしい。
そう思ってしまう自分を、もう否定できない。
そこへ、影山が教室を出ようとしているのが見えた。
「影山くん」
呼ぶと、彼は振り向いた。
「ん?」
「今日は、その……ありがとうございました」
「今日も、だな」
「はい」
ことりは小さく笑った。
「でも、本当に」
少しだけ間を置いてから続ける。
「影山くんって、分かりやすい時だけ、すごく分かりやすいですよね」
影山がぴたりと止まる。
「……それ、何回目だ」
「何回でも言えます」
「やめてくれ」
「でも、本当です」
ことりはそれだけ言って、少しだけいたずらっぽく笑った。
そういう顔を、最近の自分は前よりしやすくなった気がする。
影山涼太の前でだけ。
「じゃあ、また明日」
「……ああ」
「髪、どうするかは考えておきます」
「そこ匂わせるな」
思わず返ってきたその言葉に、ことりは今度こそ声を立てずに笑った。
やっぱり、前よりずっと近い。
まだ恋と断言するには少し早いのかもしれない。
でも、“異性として意識している距離”に足を踏み入れていることくらいは、もう十分に分かっていた。
教室を出る背中を見送りながら、ことりはそっと息を吐く。
「……ほんとに、分かりやすい時だけ分かりやすいんですから」
そう呟いた自分の声が、少しだけうれしそうだったことに、自分でも気づいていた。




