第20話 夏服が始まるだけで距離感がおかしくなるのは青春の仕様ですか
衣替えの朝というのは、たぶんそれだけで人を少しだけ落ち着かなくさせる。
影山涼太は、家を出る前からすでにそれを実感していた。
鏡の前で制服の襟元を整えながら、なんとも言えない違和感がある。
冬服でも合服でもない、夏服特有の軽さ。首まわりが少しだけ開いていて、腕のあたりもすっきりしている。布の量が減るだけで、人は妙に頼りなく見えるのだと初めて知った。
「……いや、別に俺が頼りないわけじゃないか」
小さく独り言をこぼし、鞄を持つ。
問題は、自分ではなく周りだ。
今日から夏服。
つまり、教室へ行けば女子たちの雰囲気も少し変わる。
そんなこと、別に大した話ではない。
毎年あることだ。
なのに、なぜ今年に限ってこんなに意識してしまうのか。
理由は分かっている。
ここ最近、自分の周りにいる女子たちを、“ただのクラスメイト”として見られなくなっているからだ。
朝比奈ことり。
藤宮みずき。
黒瀬レナ。
白鳥つばさ。
それぞれとの距離が、春の始まりとは少しずつ変わってしまった。
変わってしまったからこそ、今日の夏服がやけに面倒なイベントに見える。
「……朝から面倒だな」
台所に戻って、弁当箱のふたを閉める。
鮭、卵焼き、ブロッコリー、ミニトマト。
いつも通りの中身。
自分の生活は何も変わらない。
それなのに学校の方だけが、季節の切り替わりに合わせて空気を変えてくるのが納得いかなかった。
◆
教室の扉を開けた瞬間、影山涼太は静かに後悔した。
「……あー」
思わず声にならない声が漏れる。
分かってはいた。
だが、分かっているのと、実際に目に入るのとでは話が違う。
朝比奈ことりが、もう来ていた。
夏服姿のことりは、これまでより少しだけ軽く見えた。
いつもの落ち着いた雰囲気はそのままなのに、袖が短くなって、首元がすっきりしただけで、妙にやわらかい印象になる。
今までよりほんの少しだけ、近づきやすいような、でも逆に目のやり場に困るような、そんな感じだ。
ことりはいつものようにノートを開いていたが、涼太が入ってきたのに気づいて顔を上げる。
「おはようございます」
その声まで、なぜかいつもより近く聞こえた。
「……おはよう」
返しながら、自分の声が少しだけ遅れたのが分かる。
まずい。
これはよくない。
平常心、平常心だ。
だが、席へ向かう途中で別の方向からもっと強い一撃が来た。
「おはよ、影山!」
藤宮みずきだった。
みずきの夏服は、ことりとはまた違う意味で破壊力があった。
もともと元気系の印象が強いせいか、夏服になると全体の軽さがそのまま本人の明るさを倍にしている。
近い。
空気が近い。
しかも本人にはそういう自覚があまりないらしいのが、一番困る。
「……おはよう」
「何その間」
「何でもない」
「絶対何かあるでしょ」
ある。
かなりある。
でも言えるわけがない。
その時、後ろの席から低い声がした。
「朝から固まってる」
黒瀬レナだった。
レナの夏服は、二人とはまったく別方向だった。
軽くなった制服のせいで、逆に大人っぽさが増している。
もともと表情が落ち着いて見える分、夏服のすっきりした印象がそのまま“距離のあるきれいさ”みたいなものを強くしていた。
なんで揃いも揃ってこうなのか。
「固まってない」
涼太が言うと、レナは少しだけ目を細めた。
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ目そらすな」
そう言われて、ほんの少しだけ視線が泳いだのを、自分でも自覚した。
最悪だ。
みずきがそれを見逃すはずもない。
「うわ、やっぱ何かある!」
「何もない」
「朝比奈も今日ちょっと雰囲気違うし、黒瀬もなんかいつもより大人っぽいし」
「おまえ自分のことは?」
「私はいつもかわいいから変化なし!」
「自分で言うな」
思わず返したら、みずきが一瞬止まる。
「……え、今の地味に褒めた?」
「違う」
「いや今のは褒めてる流れだったでしょ!」
「違う!」
そのやり取りの横で、ことりが小さく吹き出した。
レナは呆れたようにため息をつく。
だが、その空気のおかげで少しだけ呼吸が戻る。
そうだ。
夏服になったからといって、いきなり世界が変わるわけではない。
相変わらず面倒で、相変わらず騒がしくて、相変わらず落ち着かないだけだ。
……いや、それはそれで十分困るのだが。
◆
一時間目が始まっても、涼太は少し落ち着かなかった。
理由は単純だ。
前の席でことりがノートを取るたび、袖口から見える腕が視界の端に入る。
斜め後ろではみずきが先生の話に合わせてころころ表情を変え、いちいち目立つ。
レナは窓際で静かに授業を受けているが、その横顔が夏の光を受けると妙に印象が変わる。
どうしろというのだ。
これまでだって同じ教室で過ごしていた。
なのに、布が少し減っただけで距離感まで狂うのはおかしい。
「影山」
突然、教師に名前を呼ばれてはっとする。
「その問題」
「……あ、はい」
危なかった。
完全に別のことを考えていた。
なんとか答えると、教室のどこかから小さく笑いが漏れた。
たぶんみずきだ。
授業後、案の定その本人がすぐに来た。
「ねえ影山」
「何だよ」
「今日ずっと目そらしてない?」
「してない」
「してるって」
「気のせいだ」
「朝比奈の方見たあとにすぐ窓の方見てた」
「細かく観察するな」
「黒瀬の方は一回見たあと完全に見なくなったし」
「おまえ本当にやめろ」
みずきはにやにやしている。
完全に面白がっていた。
そこへ、ことりが少しだけ困ったように近づいてきた。
「藤宮さん、そのくらいで」
「えー、でも絶対そうだよね?」
ことりは一瞬だけ涼太の方を見る。
それから、小さく首をかしげた。
「……そうなんですか?」
その聞き方がずるい。
みずきみたいに面白半分ではない。
でもちゃんと気にしている声だ。
「違う」
反射でそう返す。
だがその速度が速すぎて、逆に怪しい。
ことりが少しだけ目を細めた。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、夏服おかしいですか」
その問いに、涼太は一瞬だけ止まった。
違う。
おかしいのではない。
でもその説明が難しい。
ことりは続ける。
「朝から少しだけ、視線を避けられている気がして」
「それは」
否定したい。
でも事実として、少し避けていた自覚はある。
何と言えばいいのか分からず黙り込むと、ことりの顔にかすかに不安が浮かんだ。
まずい。
「変じゃない」
慌てて言う。
「え?」
「変じゃない。ただ……」
ただ、何だ。
言葉を探す。
みずきが横で息を潜めている。
レナまで遠くからこちらを見ているのが分かる。
最悪の状況だ。
「……少し雰囲気が違うだけ」
やっとそれだけ絞り出した。
ことりが目を丸くする。
「雰囲気」
「うん。いつもと、少しだけ」
「それって、変という意味ではなく?」
「違う」
ことりは数秒だけ黙っていたが、そのあと、ほんの少しだけ安心したように息をついた。
「……なら、よかったです」
みずきが横で「うわ」と小さく言った。
やめろ。
その“うわ”を共有するな。
「何だよ」
「いや、影山が今かなりがんばって言葉選んでたなーって」
「うるさい」
「でも朝比奈、顔やばいよ」
「え」
ことりが慌てて自分の頬に手を当てる。
少し赤い。
涼太はその光景を見て、また目のやり場に困った。
ほんとに、今日は最初から最後まで調子が狂う。
◆
昼休み。
教室にはもう完全に“夏服初日のそわそわ感”みたいなものが広がっていた。
「やっぱ涼しいね」
「でも教室冷房まだ弱くない?」
「ネクタイないだけでだいぶ違う」
そんな会話があちこちで聞こえる。
涼太は弁当箱を広げながら、なるべく誰も見ないようにした。
正確には、変に意識しすぎないようにした。
だが、それがまた難しい。
ことりは向かい側で弁当を開いている。
みずきはその隣で相変わらずよくしゃべる。
レナは少し離れた窓際だが、今日はいつもより存在感が強い。
そして、昼休みの途中でつばさが図書室から本を届けに来た時、涼太はさらに頭を抱えた。
「……白鳥まで夏仕様か」
思わず本音が漏れる。
「何ですか、それ」
つばさが静かに首をかしげる。
一年の夏服は、やはり少しだけ“後輩っぽさ”が強く出る。
つばさの場合、それが普段の落ち着いた観察者っぽさと妙にちぐはぐで、余計に意識させられた。
「いや、何でもない」
「今のは絶対何かありますよね」
つばさの目が細くなる。
終わった。
「影山、今日ほんとに分かりやすい」
みずきが笑う。
「だな」
レナまで短く言った。
ことりは少しだけ考えるような顔をして、それから静かに結論を出す。
「……たぶん、女子慣れしていないだけだと思います」
その一言で、教室の空気が一瞬だけ止まった。
みずきが吹き出す。
レナが珍しく口元を隠す。
つばさは「なるほど」とうなずいた。
涼太は本気で頭を抱えた。
「朝比奈」
「はい」
「それを今言うか」
「でも合っていますよね」
「合ってるけど!」
自分で言ってしまってから、余計に恥ずかしくなる。
みずきが笑いながら机を軽く叩いた。
「うわー、認めた!」
「うるさい!」
「いやでも納得。だから今日そんなに目が泳いでるんだ」
つばさが静かに補足する。
「先輩、今のところ全員に平等に動揺してる感じです」
「それ分析として最低だろ」
「でも正確です」
レナが少しだけ肩をすくめた。
「変に誰かだけ避けてるよりはまし」
その言い方に、ことりがわずかに反応する。
たぶん、午前中の件を少し思い出したのだろう。
涼太はそこへ気づいて、小さく息をついた。
「だから避けてないって」
「はい、分かっています」
ことりがやわらかく答える。
「ただ、今日は少しだけ分かりやすすぎます」
「朝比奈まで同じこと言うのか」
「事実なので」
もう反論できなかった。
四人が四人とも、妙に楽しそうで、でもどこか本気でこちらの反応を見ている。
そうやって一斉に見られると、ますます落ち着かない。
「……夏服って怖いな」
思わずこぼすと、みずきがまた吹き出した。
「何それ」
「本音だよ」
「そんなに?」
「そんなにだ」
ことりが少しだけ顔を赤くして笑う。
レナも視線を逸らしながら、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
つばさは静かに言った。
「記録しておきます。先輩、夏服初日で完全に挙動不審」
「やめろ」
「客観的事実です」
本当にやめてほしい。
◆
放課後になる頃には、涼太も少しだけ慣れてきていた。
いや、慣れたというより、諦めたに近い。
今日は一日、自分が女子慣れしていないことを嫌というほど自覚させられた。
それでも授業は終わるし、部活は始まるし、帰り支度の時間も来る。
世界はわりと普通に回るのだ。
「影山」
帰り際、みずきがまた声をかけてきた。
「何」
「今日ずっと面白かった」
「嬉しくない」
「でも、ちょっとかわいかった」
「帰れ」
「ひどい」
そう笑いながら去っていく。
ことりはその少しあとで、鞄を持ちながら涼太のそばへ来た。
「今日は、ありがとうございました」
「何が」
「午前中の、夏服の話です」
「ああ……」
あれを改めて礼を言われるのも妙に恥ずかしい。
ことりは視線を少し落として言う。
「ちゃんと聞けて、よかったです」
「何を」
「変じゃない、って」
その返しがあまりにもまっすぐで、涼太は一瞬だけ目をそらす。
「……本当にそう思ったから言っただけ」
「はい」
ことりは小さく笑った。
「でも、少しだけうれしかったです」
その笑顔にまた調子が狂いそうになって、涼太は本気で今日は終わりにしてほしいと思った。
そこへ、後ろからレナの声が飛ぶ。
「ほんと分かりやすい」
「黒瀬」
「今日は見てる方が面白かった」
「おまえまでそうなるのか」
「たまには」
つばさも教室の入口から顔をのぞかせる。
「先輩」
「何」
「今日のデータで、一つ分かったことがあります」
「聞きたくない」
「夏服は人間関係の距離感を一時的に狂わせます」
「おまえそれ最初から分かってただろ」
「確認できました」
もう駄目だ。
今日は誰に何を言われても勝てる気がしない。
涼太は鞄を持ち上げ、深く息をついた。
「……帰る」
「逃げた」
みずきが笑う。
「逃げますよね」
ことりが少し困ったように笑う。
「賢明」
レナが短く言う。
「また明日、夏仕様の続きですね」
つばさが静かに締める。
「やめろ」
最後にそれだけ言って、涼太は教室を出た。
廊下の窓から差し込む夕方の光はやわらかく、風は少しだけぬるい。
季節が変わるだけで、どうしてこんなに距離感まで変わるのか。
夏服が始まるだけで距離感がおかしくなるのは、たぶん青春の仕様なのだろう。
だとしたら本当に厄介だ。
でも、その厄介さを前より少しだけ嫌じゃないと思っている自分がいるのも、またさらに厄介だった。




