学び
学びというのは大事なこと。其れがどんなに小さくても。自分には関係ないことであっても。
続けていくことで、色々な発見がある。見つけることができる。知っているものを組み合わせて、新しいものが生まれてくる。その連鎖を楽しめるかどうかになる。
自分は何も知らない。無知であることを謙虚さと共に認めること。それが大事になってくる。
知ったかぶりをすべきではないのだ。恥をかく未来しか待っていないのだから。
科学者たちは謙虚である。全体のわずか1割しか、あるいは満たないことを知り、認めているのだ。
そうでない者たちは一欠片すら知り得ていない。ただ表面をなぞる程度に過ぎないのだ。
内面はどう働いているのか。誰が知っているというのか。憶測だけで決めつけるべきではない。
外れていたら恥をかくのみ。否定すればするほど、固執すればするほど、滑稽でしかないのではないか。愚かな踊りを披露する場ではないというのに。
ソクラテスは語ったではないか。「自分は何も知らないことを知っている」と。無知あるいは不知の自覚を。
学べば学んでいくほど、自分は何も知らないのだと思い知らされていく。そのことを認めているからこそ、知識の痛みを抱える宿命になるのかもしれない。
その痛みを受容することが大事なのである。受容できず語るだけなら、誰にでもできるだろう。中身が伴っているかは別にして。
知識を学び、使っていくことで知恵と成す。包丁で食材を切るのに例えられるだろう。
切り方についての知識を得て、実際に食材を切っていく。それと知恵は似ているのかもしれない。
どんな知識も使わなければ、宝の持ち腐れになってしまう。知識の死蔵をするべきでは無いのだ。
古き知識、古き知恵。それを使う温故知新になれば良い。全く別の分野であったとしても、試しに使ってみることで思わぬ結果へと至ることができるのだから。
試行錯誤になってもいい。工夫することによって、新しい発見というのは見つかるものであるがために。
知識を得、知恵と成し、試行錯誤を重ね、発見し、学びを得ていく。その循環に至るならば、良い判断ができるだろう。
知ったかぶりになるべきでない。知識を死蔵させるべきではない。誤解に基づいて、恥をかく未来をするべきではない。そうなれば学ぶことを欠いた因果応報が待っているのだから。
痛みと共に受容していく。それを認めていくことこそ、知識や知恵は実になっていく。人生とはその連続であるのだから。
賢しき者、智がある者は。それは痛みを受容した者にこそ、至ることができるものである。
フィクションやノンフィクションであるとしても、それは関係ない。作り出すためには、語りゆくためには、その知識について
学び、知恵としていくことは欠かすことができないものである。
そうでなければ、整合性を得ることができない。ボロが出てしまう。そして、恥となるのだ。
知識について、自分が何も知らないことを思い知らされながら、学んでいく。専門性の有無に関係なく。
学んだものを当てはめていくならば、実力へと成していくことができるだろう。それこそが、知恵ある謙虚さを併せ持つことができるのだからーー。




