イメージ
「書く」のお題集を見て、私は困っていた。そのお題のイメージが湧かなかったから。
映画のような。匂いは時に毒、そして何かに気づかせる。学校は虚無を語らう。プレイボール。
何度見てもイメージが湧かない。否、湧けないのかもしれない。経験不足であるがゆえに。
しかし、活用方法は見つけた。こうやってエッセイにすれば良いのだ。現にこうやって書くことで、お題は消費されている。文字数と一緒に。お題に困ったらこうやっていけばいいのだ。逃げていると思われる。
しかし、向き直っていることでもある。無理に書こうとしても、何も書けないよりは、羅列してしまえばいいのだから。
今の自分には扱えなかったもの。やがて実力が身につけていれば、書けるかもしれない。未来のことは分からないがね。だからこそ、こうしてエッセイの中に含めている。書けるお題と書けないお題。それを見極めていく。人には向き不向きがあるように。
短所を補うか、それとも長所を伸ばしていくか。その違いでしかないのかもしれない。私は選んだのだよ。長所を伸ばすことに。選択肢を見出し、選ぶだけ。それだけなのだから。
闇雲にお題を選ぶんじゃない。お題を一つだけにして膨らましていくのか。それとも、複数のお題を繋ぎ合わせていくのか。腕の見せ所ではないだろうか。
取捨選択をしているのだよ。荷に勝るか、荷に負けるか。どちらかしかない。3択目は無いのだ。
できない。扱えない。書けない。そうなる前に問題を見直し、解決の一手を打つ。そうしなければ、本当に書けなくなってしまうから。そうなるべきではない。避けるべき事態となる。そうなっては書き手として手遅れになってしまうのではないだろうか。どんなときも書いていく。トラウマになってしまうことは絶対に避けるべきなのである。
個人的なことに首を突っ込んで解釈を垂れ流していくべきではない。失礼になってしまうのではないか。それは百害あって一利無し。自らを下げることにもなる。そうではないかね。
食事に例えるならば、好き嫌いと一緒なのかもしれない。好きなお題と嫌いなお題。
好きだから膨らませて書けるし、嫌いだから避けていく。食べれない野菜を残すのに近い。
ちなみに私はマヨネーズが嫌いだがね。食わず嫌いだから好んで食べたいとも思わない。
私にとって嫌いなお題はマヨネーズみたいなものだと言えよう。マヨネーズがかかったものは避ける。すでにかかっているものは仕方なく食べるがね。真っ先に食べて後顧の憂いを断つ。
そのようなものである。
誰だって苦手なものはあるだろう。完全無欠じゃあるまいし。食べて口に合わなければ、避けようと決めるのではないかね。選択肢の有無になってくるのだが。
私はこれからも書き続けるのだろう。お題を元にして。手書きというアナログな手法を用いて。
書き写しによってデジタル化させて。それから投稿していく。それが私の捜索スタイルなのだから。
キーボードに直接打って書きていくスタイルもあるのだろう。私はそれに合わなかった。だから遅筆になってしまった。手書きにしたら以前のやり方から爆速のように速く書けた。コロナ禍で分かったことだがね。
十人十色であり、人それぞれ執筆スタイルは変わってくるもの。それを受け入れるか否か。
まずは形から入ってみたりすればいい。それは他者が口出しするのではなく、本人が決めるものであるのだから。
つまりは、自分を知ることが大切。その一言に集約されるのだからーー。




