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男女比『1:16億』の北半球 ~50年ぶりの生身の男に、世界中が大パニック&大熱狂!~  作者: 団田図


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第8話 出発前夜

 鉄錆と汗の匂いが熱帯の湿気に混じる、南半球の自室。御手宮おてみやタケルは、ベッドの上に無造作に広げたボストンバッグに荷物を詰め込みながら、ふと手を止めた。

 机に向かい、引き出しからお気に入りの便箋を取り出す。タケルがペンを走らせる先は、北半球に住む文通相手の少女、葉寺はでら優愛ゆあだ。

『優愛へ。急な話で驚くかもしれないけど、俺、明日から北半球の日本へ行くことになったんだ。向こうの研究施設で、身体の検査を受けるために』

 タケルは、優愛から届いたばかりの手紙から微かに漂う石鹸のような甘い香りを思い出し、胸を高鳴らせた。

『北半球に行けば、もしかしたら、君に直接会えるかもしれない。ずっと手紙の文字だけでやり取りしてきた君に、本当の姿で会えるのを楽しみにしてる』

 インクが乾くのを待ち、丁寧に封筒へしまう。明日、あの壁を越えれば、彼女と同じ空気を吸うことができるのだ。


「タケル、入るぞ」

 ノックとともに部屋のドアが開き、父親の御手宮おてみや英明ひであきが顔を出した。四十二歳になる彼は、南半球の労働の中心である第一次産業の現場責任者として働く、責任感が強く真面目な男だ。

「荷造りは終わったか? ……いいかタケル、いよいよ明日出発だが、その前に俺から北で生き抜くための心得を授けてやる」

 英明は腕を組み、わざとらしく咳払いをした。

「まず第一に、北の女性たちは最新のバイオテクノロジーと完全な空調管理の中で生きてきた、ひどくか弱い存在だ。お前みたいな南のガサツな力でうっかり触れたら、ポキッと折れちまうかもしれない。力加減には細心の注意を払え。第二に、向こうの飯はバイオ培養食ばかりだ。腹を下さないようによく噛んで食え。第三に――」

「親父」

 タケルは苦笑しながら、もっともらしく語る父親の言葉を遮った。

「親父も、北半球なんて一度も行ったことないだろ。全部想像じゃないか」

 図星を突かれた英明は「うっ」と口ごもり、目尻のシワを寄せて少ししどろもどろになった。

「ば、バカ野郎。親として心配してるんだよ。お前は女に対する免疫が全くないんだからな」そう言いながら、英明は不器用な手つきでタケルの肩をポンと叩いた。その大きな手のひらからは、言葉以上の深い愛情がタケルにじんわりと伝わってきた。


 その時、開け放たれた窓の外から、むさ苦しい声が響き渡った。

「おーい、タケルー! いよいよ明日だな!」

 窓から下を見下ろすと、修学旅行で一緒に見えない壁の向こうの女子高生たちを見て大騒ぎした悪友たちが、通りから手を振っていた。

「お前だけ北半球に行くなんてズルいぞ! 俺たちの分まで、北の女の子をしっかり目に焼き付けてこいよ!」

「そうだそうだ! あと、ツイン・シェル・アリーナでライブやってる星波ほしなみキララの生サイン、絶対もらってこいよな!」

 十七歳の血気盛んな南半球の男子たちらしい、欲望むき出しの無茶ぶりだ。

 タケルは身を乗り出し、「無茶言うな! 俺は遊びに行くんじゃないんだぞ!」と笑いながら怒鳴り返した。彼らのバカバカしくも明るいエールが、タケルの肩の力を少しだけ抜いてくれた。


+++


 夜。荷造りを終えたタケルが縁側に出ると、八十一歳になる祖父の御手宮おてみや隼人はやとが、虫の音を聞きながら一人で夜空を見上げていた。深く刻まれたシワと、達観した鋭くも穏やかな眼差しを持つ彼は、激動の赤道事変エクアドル・イベントを生き抜いた数少ない日本人だ。

「じいちゃん。まだ起きてたのか」

 タケルが隣に腰を下ろすと、隼人はゆっくりとタケルの方を向いた。

「タケル。いよいよ明日、お前はあの壁を越えるんだな」

「ああ。なんだか、まだ現実感がないよ」

 隼人は静かに頷き、遠くの星を見るような目で語り始めた。事変前の、男女が直接触れ合えた世界を知る生き証人としての言葉だ。

「昔はな、男と女が同じ街に住み、肩を並べて歩き、直接触れ合うことができたんだ。お前たち若者にとっては伝説のような話だろうがな」

 タケルは黙って耳を傾ける。歴史の授業で知識としては知っていた。だが、事変直後の凄惨な事故処理や大量の死体処理という過酷な経験を乗り越えてきた祖父の口から直接語られると、その言葉の重みは全く違っていた。

「だが、あの頃の世界は決して美しいだけじゃなかった」

 隼人の声が、少しだけ低く、険しいものになる。

「人間は行き過ぎた環境破壊で自らの首を絞め、自分たちの利益のために人間同士で殺し合う戦争を繰り返していた。民主主義という名の札束で顔を殴り合うマネーゲームがはびこり、肌の色が違うだけで差別し合うような、愚かな時代でもあったんだ」

 タケルは息を呑んだ。教科書に書かれている無機質な『歴史』が、生々しい人間の愚かさと痛みを伴ってタケルの胸に突き刺さる。

「だからな、タケル。俺は時々思うんだ」

 隼人はふっと表情を和らげ、目に見えない北の空へと視線を向けた。

「神様が、これ以上人間が取り返しのつかない過ちを犯さないように、『待った』をかけるためにあの壁を作ったのかもしれないなって」

「待ったをかけるために……」

 タケルはその言葉を反芻はんすうした。人類を隔てた残酷なゼロ・シェル。しかし、それがもし、人類がクールダウンするための冷却期間だったとしたら。

(そして今、俺がその壁をすり抜けられるようになったことには、何か意味があるんだろうか……)

 教科書では決して学べない、祖父の生きた言葉と感情。タケルは北半球へ向かうという自分の運命の重さを、改めて深く心に刻み込んでいた。

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