第5話 パニックの朝
あの信じられないような修学旅行から一夜が明けた。
南半球の強い日差しが差し込む自室のベッドで、御手宮タケルは目を覚ました。寝汗でシャツが張り付いている。上半身を起こし、タケルはじっと自分の右手を見つめた。
ぎゅっと拳を握り、ゆっくりと開く。
手のひらには、まだ確かな感触が残っていた。無機質で冷たい不可視の壁である「ゼロ・シェル」をすり抜けた直後に触れた、北半球の女の子の生温かくて華奢な手の感触。そして、タケルを取り囲んだ無数の女子生徒たちから漂ってきた、甘いパウダーの香り。
「……夢じゃ、なかったんだよな」
タケルはぽつりと呟き、重い足取りで一階のダイニングルームへと向かった。
階段を下りると、いつもはむさ苦しい男所帯の活気に満ちているはずの食卓が、異様な緊張感に包まれていた。
テーブルの中央にはすでにARプロジェクターが起動しており、北半球に住む母の玲子と、妹の芽衣の姿が立体的に浮かび上がっている。南側の席には、父の英明と祖父の隼人が腕を組んで険しい顔つきで座っていた。
タケルが顔を出した瞬間、四人の視線が一斉に突き刺さる。
『タケル! あなた、昨日一体何をしでかしたの!?』
いつもは穏やかな玲子が、血相を変えてAR越しに身を乗り出してきた。
「おはよう……いや、何をしたって言われても」
「お前、世界中のニュースが今どうなってるか分かってんのか!」
英明が頭を抱えながら、壁の巨大ビジョンを指差した。画面には、昨日の修学旅行でタケルの右腕が壁にめり込み、そのまま北半球へと全身がすり抜けていく映像が、狂ったようなループで再生され続けている。画面のテロップには『歴史的瞬間! 南の少年がゼロ・シェルを突破!』『生身の男の出現に世界中が大パニック!』といった大仰な文字が躍っていた。
「……あー、やっぱり撮られてたか」
「『やっぱり』じゃないぞタケル。お前はどうやってあの壁を越えたんだ。事変から五十年、軍事攻撃でも傷一つつけられなかったあの壁をだぞ」
事変前の世界を知る歴史の語り部である祖父の隼人までもが、真剣な眼差しで問い詰めてくる。
「本当に、俺にも分からないんだ。ただ、向こうの女の子とハイタッチしようとして、手を押し当てたら……パチンって音がして、気がついたら腕が通り抜けてた」
『そんな……じゃあ、本当にタケル自身の力で……』
玲子が口元を抑え、信じられないといった様子で息を呑む。
その時、ずっと黙って俯いていた妹の芽衣が、おずおずと顔を上げた。いつもなら「バカ兄貴!」と憎まれ口を叩く感情豊かな彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
『……痛く、なかったの?』
「え?」
『だって、壁には致死システムがあるかもしれないって、ずっと言われてたじゃない……。すり抜けた時、火傷したり、どこかおかしくなったりしてないの?』
震える声でタケルを気遣う芽衣の姿に、タケルは思わず目を丸くした。いつも自分の気分で話す芽衣だが、今回ばかりは純粋な恐怖と心配が勝っているらしかった。
「大丈夫だよ、芽衣。なんともない。ただ……ちょっと女の子たちの積極性が強くて少し驚いたくらい」
タケルが努めて明るく笑って見せると、芽衣はホッと胸を撫で下ろし、それから少しだけ頬を膨らませた。
『……もうっ。心配して損した』
家族が少しだけ安堵の空気に包まれたものの、テレビの向こう側から聞こえてくる世界的な狂騒は、一向に収まる気配がなかった。南半球では「俺たちのタケルが歴史を変えた!」と男たちが狂喜乱舞し、北半球のニュース番組では「一刻も早く彼を保護すべきだ」という有識者たちの激しい議論が交わされていた。
+++
同じ頃、北半球の静かで清潔な高級マンションの一室。
AIチューターや自動調理器が完璧に管理する「ノイズのない生活」を送る葉寺優愛は、リビングの巨大なモニターの前で立ち尽くしていた。
モニターには、緊急特番のニュースが映し出されている。
『映像の少年は、南半球旧インドネシア地区に住む十七歳、御手宮タケルさんと判明しました――』
「タケル……さん……?」
優愛の手から、朝食の入ったグラスが滑り落ちそうになった。
学校の授業をきっかけに文通を始め、紙とペンを使ってずっと想いを交わしてきた大切な人。文字のやり取りの中で、南の活気や、石炭の匂い、手作りの肉料理の脂っこい話を教えてくれた、生命力にあふれる少年。
その彼が今、画面の中で、信じられないような偉業を成し遂げていた。




