第4話 壁抜け
「パチン!」
掌と掌が衝突する、甲高く大きな音が辺りに響き渡った。
タケルの右手は抵抗感がなく、そこにあるとされる壁を一切感じさせなかった。
代わりに手のひらを包み込んだのは、生温かくて、ひどく柔らかくて、かすかに脈打つような、確かな生命の熱だった。
「……え?」
タケルは間抜けな声を漏らした。
すり抜けたのだ。タケルの右手が、見えない壁を通り抜け、目の前の女子生徒の小さな手と、しっかり張り合わせていた。
女子生徒は信じられないものを見るように、自分の手とタケルの顔を交互に見比べ、そして悲鳴とも歓声ともつかない短い息を呑んだ。
静寂は、ほんの一瞬だった。
「ヒィィィィィィィィッ!? て、手が! 男子の手が、壁を越えたあああっ!?」
事態に気づいた引率の教師が、顔面を蒼白にして絶叫した。
それを合図に、周囲の空気が爆発した。
「おい嘘だろ!? タケルの右腕が、壁にめり込んでるぞ!」
「めり込んでるっていうか、向こうの女の子の手と合わせて……触ってる! マジで触ってるぞ!」
南の友人たちが、目を血走らせて大興奮の嵐を巻き起こす。
タケルは混乱の極みにいた。手から伝わってくる、初めて触れる女の子の体温。それは南半球の暑苦しい熱気とは全く違う、優しくて甘い熱だった。
「タ、タケル君……? でいい?」
手を握られたままの女子生徒が、震える声でタケルの名前を呼んだ。タケルのネームプレートを見たのだろう。彼女の瞳は恐怖ではなく、未知の奇跡に対する強烈な熱に浮かされていた。
「あ、ああ……ご、ごめん! 俺、どうしてこんな……」
慌てて手を引き抜いたタケル。
ふと、タケルは思った。手だけじゃない。もしかして、体ごと行けるのではないか?
タケルは無意識に生唾を飲み込み、恐る恐る、右足を北側へと踏み込んでみた。
抵抗は、やはり無い。
左足を引き寄せる。肩が抜け、胴体が抜け、そして――。
タケルは、完全に北半球の大地へと侵入していた。
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「キャアアアアアアアアアアアッ!!!」
タケルが北半球に降り立った瞬間、その場にいた数百人の女子生徒たちが一斉に悲鳴と歓声を上げ、パニック状態に陥った。
「生身の男の人! 本物の男の人が、壁を越えてきた!」
「嘘でしょ、信じられない! すごい筋肉! すっごい男の人の匂いがする!」
五十年ぶりの、北半球における生身の若い男性の出現。しかも、野性味あふれる南の環境で育ち、高カロリーな食事で鍛え上げられた百八十センチの長身だ。十七歳のタケルの存在は、画面越しのアイドルしか知らない十六億人の女性たちにとって、あまりにも刺激的すぎた。
「あ、あの! 私とも握手してください!」
「私とも! お願い、ちょっとだけ腕に触らせて! キャー!」
タケルは瞬く間に、目を輝かせた女子生徒たちに取り囲まれた。向こうの女子から次々と握手を求められ、無数のスマートフォンや端末が向けられ、タケルの姿が動画や写真として大量に撮影されていく。
「ちょ、ちょっと待って! 押すなよ、俺も状況がよく分かってなくて……うわっ!」
タケルのたくましい腕や広い背中に、女子生徒たちの柔らかい手が次々と触れていく。石鹸のような甘い香りと、女の子特有の高い体温が全方位から押し寄せてくる。
南半球のむさ苦しい男たちに囲まれて生きてきたタケルにとって、それは完全に許容量を超える体験だった。日焼けした顔の奥からカッと熱が込み上げ、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。
「タケル! お前、マジで何やってんだよ! どうやった! ずるいぞ!」
壁の向こう側から、取り残された友人たちが壁に顔を押し付けながら羨望と嫉妬の入り混じった声を張り上げている。
「ずるいって言われても! 俺だって……」
困惑しながらも、タケルの顔には自然と緩みが生まれていた。
自分を取り囲む女の子たちのキラキラした瞳。次々と押し寄せるとてつもなくいい匂いと、柔らかい感触。
未知の状況に対する戸惑いや恐怖は確かにあったが、生まれて初めて女の子の集団にちやほやされている今の状況は、正直言って、全く悪い気がしなかったのだ。
「あー……これは一体? でも、悪くないかも……」
タケルは照れくさそうに頭を掻きながら、群がる女子生徒たちの中で、ただただ圧倒され続けていた。
この瞬間、一人の少年の右手が、五十年間の世界の常識を打ち砕き、男女比一対十六億の壮大な大騒動の幕を開けたのだった。




