第48話 前夜の花火
すっかり日が落ちた頃、タケルは重い足取りで自宅のマンションへと帰ってきた。
リビングのドアを開けると、部屋は薄暗く、ソファに小さな影がポツンと座っていた。妹の芽衣だった。
「ただいま、芽衣。母さんは?」
「……お母さん、急なシステムメンテで仕事だって」
芽衣の声は、いつもよりずっと低く、元気がなかった。十五歳の彼女は、感情豊かでブラコン気質とツンデレが爆発する性格だが、今日はその威勢の良さが完全に鳴りを潜めている。
「そうか。飯、まだなら俺が何か作るぞ。南風のジャンクなやつ」
タケルが努めて明るく声をかけ、キッチンへ向かおうとした瞬間だった。
ドンッ、と。
背中から、芽衣が力いっぱい抱きついてきた。
「芽衣……?」
「お兄ちゃんの、バカ……っ」
タケルの広い背中に顔を押し当てたまま、芽衣の小さな肩が震えていた。彼女の目から溢れた涙が、タケルの服に染み込んでいく。
「新薬ができたら……お兄ちゃん、お父さんやおじいちゃんがいる南に帰っちゃうんでしょ……? また、AR越しの光の粒に戻っちゃうんでしょ……?」
芽衣の絞り出すような声に、タケルはハッと息を呑んだ。
「私、嫌だよ。せっかく本物のお兄ちゃんに会えたのに。一緒にご飯食べて、一緒に笑って、お兄ちゃんの匂いも体温も知っちゃったのに……っ! もう、画面越しの家族になんて戻れないよ……っ!」
芽衣はタケルの背中にしがみつく腕の力を、さらに強くした。
「もう『妹』だからとか、『家族』だからとか、そんな言い訳でそばにいるのは嫌! 世界がどうなろうと、お兄ちゃん……ううん、タケルっていう一人の男の人が大好きなの! だから……どこにも行かないでよぉ……っ」
コロコロと表情が変わる愛らしい顔立ちを涙でぐしゃぐしゃにしながら、一人の女の子としてぶつけてきた、痛いほどに純粋な告白。タケルはゆっくりと振り返り、泣きじゃくる妹の小さな身体を、その分厚い腕でそっと、しかし力強く抱きしめ返した。
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夜も更けた頃。タケルは一人、マンションを抜け出して近くの公園へと足を運んでいた。
立て続けに受けた、乙女たちからの真剣な告白。彼女たちがどれほどタケルを想い、そして彼が去ってしまうことを恐れているのか。その重みに、タケルの心は大きく揺さぶられていた。
「タケルさん」
公園の街灯の下、待ち合わせをしていた少女が立っていた。
同い年の少女であり、紙とペンを使って文通を続けてきた、葉寺優愛だった。清楚で透明感のある佇まいの彼女は、両手で一通の封筒を大切そうに胸に抱いている。
「夜遅くに呼び出してごめん。でも、どうしても今日のうちに会いたくて」
優愛は少しだけ震える声で言い、タケルの前に歩み寄った。
「ニュース、見ました。タケルさん、本当にすごいですね」
優愛は微笑もうとしたが、その笑顔はどこか泣きそうに歪んでいた。純粋で一途な想いを秘めている彼女だが、タケルが他の女性の目に触れることにヤキモチを焼く情熱的な一面も持っている。そして今、彼女の心を支配しているのは、タケルを永遠に失ってしまうかもしれないという恐怖だった。
「……私、ずっとタケルさんとの文通が心の支えでした。手紙から漂うエキゾチックな、鼻腔をくすぐる野生のスパイスの匂いや、手作りの肉料理の脂っこい話……北の清潔な暮らしにはない、タケルさんの強い生命力に夢中になったんです」
優愛は胸に抱いていた封筒をそっと開け、一枚の便箋を取り出した。それは、彼女が今日、タケルのために書いてきた手紙だった。
しかし、優愛はその手紙をタケルに渡さず、自らの声で読み上げ始めた。
「『新薬が完成して、壁がなくなったら……タケルさんは、どこへだって行けるようになります。南の活気ある街へ帰ることもできる。……でも、私の世界の中心には、いつもタケルさんがいます。タケルさんがいなくなったら、私の世界は真っ暗になってしまう』」
手紙を読み終えた優愛は、便箋を握りしめたまま、ポロポロと涙をこぼした。
「タケルさん……私、怖いです。壁がなくなって、あなたが目的を達成して南に帰ってしまったら……」
優愛は一歩踏み出し、タケルの大きな右手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「私が一番、タケルさんのことが好きです。この想いだけは、絶対に誰にも負けません。世界がどうなろうと……あなたが好きです。だから、お願い……私から離れていかないで……っ」
それは、優愛の魂からの叫びだった。アナログな通信から始まった絆が、物理的な距離を超え、今、最も確かな熱となってタケルの心臓を直接打ち鳴らした。
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優愛の涙濡れた頬を、タケルの大きくゴツゴツとした指先が優しく拭った。
「……泣かないでくれ、優愛」
タケルは真っ直ぐな瞳で優愛を見つめ返し、そして、今日彼に想いをぶつけてくれたすべての乙女たちを思い浮かべた。
理沙の大人としての情熱。キララの真っ直ぐな愛情。芽衣の家族という枠を超えた想い。そして、優愛の誰よりも深く一途な愛。
彼女たちは皆、タケルが目的を達成し、どこかへ消えてしまうことを恐れていた。
タケルは南半球の過酷な環境で育った、タフで真っ直ぐなオスだ。ここで逃げるような真似は、絶対にしない。
「俺は、南の資源と北の医薬品を交換するドローン整備士になって、世界を繋ぐのが夢だった。でも……北半球に来て、みんなと出会って、触れ合って……俺が繋ぎたかったのは、ただの物資のルートじゃなかったんだって気づいた」
タケルは優愛の両肩をしっかりと掴み、力強く宣言した。
「俺は、世界がどう変わっても、俺の芯は変わらない。俺が守りたいのは……」
タケルが決定的な言葉を口にしようとした、まさにその瞬間だった。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――……ドンッ!!
夜空に、鼓膜を震わせるような破裂音が響き渡り、巨大な光の華が咲き乱れた。
極彩色に輝く大輪の花火が、次々と北半球の空を染め上げていく。それは、政府が新薬の完成を記念して打ち上げた、前夜祭の合図だった。
「あ……花火……」
優愛が夜空を見上げ、タケルもその圧倒的な光のシャワーに目を奪われた。
分断されていた五十年の歴史が、ついに終わりを告げる。
タケルとヒロインたちの想いが交錯する中、世界が一つに繋がる運命の夜明けが、すぐそこまで迫っていた。




