第42話 宇宙への檻
北半球の極東アジア地区。御手宮タケルの編入した中高一貫校では、この日、すべての授業が一時中断されていた。
教室の黒板に相当する巨大なモニターには、全世界の十七億人が同時に視聴しているであろう歴史的なライブ配信映像が映し出されている。
『全地球規模:五十周年記念・有人宇宙飛行プロジェクト』
赤道事変から五十年。分断された人類が、北の高度な技術と南の資源を結集して作り上げた、希望の象徴である。
発射台が設置されているのは、南半球の旧オーストラリア地区に広がる広大な赤土の荒野だった。そして、ロケットに搭乗するのは、南半球の過酷な環境を生き抜いてきた屈強な男性パイロットである。
『さあ、いよいよカウントダウンが始まります! 搭乗するのは、南半球が誇るベテランパイロット、ジャック飛行士です!』
モニターに、ヘルメットを被ったパイロットの顔が大写しになる。深く刻まれたシワと、野性的な髭を蓄えた歴戦の男の顔つき。
それを見た教室の女子生徒たちは、タケルという生身の特級遺伝子に慣れつつあったとはいえ、やはり画面越しの「大人の男」の渋さに黄色い悲鳴を上げた。
「キャアアッ! 大人の男の人、すっごくワイルドでかっこいい!」
「タケル君みたいな若い筋肉もいいけど、ああいう渋い魅力も素敵ね……っ」
温室育ちの北半球の少女たちにとって、この宇宙への挑戦は、単なる科学実験ではなく「北と南が合同で行う、史上最大のエンターテインメント(お祭り)」として完全に消費されていた。
「みんな、呑気なもんだな……」
タケルは自分の席に座り、腕を組みながらモニターを見上げていた。南半球の男だらけの環境で育ってきた彼にとって、画面の向こうのむさ苦しいオッサンの顔など見慣れたものでしかない。
『スリー、ツー、ワン……リフトオフ!』
轟音と共に、白銀のロケットが発射台を離れ、旧オーストラリアの青空を切り裂いて一直線に上昇していく。
教室中から、そして世界中から、地鳴りのような歓声が湧き上がった。
カメラはロケットの機外と機内、そしてパイロットの心拍数や血圧を示すバイタルデータをリアルタイムで映し出し続けている。順調に高度を上げ、大気圏を突破し、空の色が青から漆黒の宇宙空間へと変わっていく。
『素晴らしい! 機体は想定通りの軌道に乗りました! 間もなく、事変前の人類が到達していた宇宙空間の深部へと――』
実況のアナウンサーが興奮気味に叫んだ、まさにその瞬間だった。
――ピーーーーーーーーーーーーーーッ。
教室のスピーカーから、無慈悲で甲高い電子音が鳴り響いた。
画面の端に表示されていた、パイロットの力強い鼓動を刻んでいた心拍数のグラフが、突如として完全にフラットな『ゼロ』を叩き出したのだ。
「え……?」
教室にいた女子生徒の一人が、抜けた声を漏らした。
ロケットの機体には、何の異常もない。爆発も、衝突も起きていない。機外カメラは、どこまでも美しい漆黒の宇宙と、青く輝く地球を静かに映し出している。
しかし、機内カメラに映るパイロットの姿は、あまりにも凄惨だった。
彼は、見えない『何か』に正面から激しく押し潰され、座席の背もたれとの間で物理的に圧死していたのである。
『な、何が起きた!? ジャック!? 応答しろ、ジャック!!』
通信席からの悲痛な叫び声が響く。だが、返事はない。
人間の身体以外の物質――ロケットの装甲や、カメラのレンズ、通信電波は、その見えない『何か』をすり抜けて進み続けている。
五十年前の赤道事変で現れた、人間だけが絶対に通り抜けられない不可視の壁『ゼロ・シェル』。
それが、赤道直上の平面の壁だけではなかったことが、この時、世界中の人々に突きつけられたのだ。
壁は、地球全体をすっぽりと覆う『球体の檻』だった。
一定の高度に張り巡らされた見えない天井。人間以外の物質は通過できるが、生身の人間だけは、そこから一歩も外へ出られない。
人類は、巨大な虫かごに閉じ込められた、テラリウムの昆虫と同じだったのだ。
+++
タケルのいる中高一貫校の教室は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「いやあああああああっ!!」
「死んじゃった! 人が、死んじゃったよぉっ!」
「空に……空に見えない天井があるの!? 私たち、一生この虫かごの中から出られないの!?」
高度に自動化され、痛みも死も遠ざけられた平和な北半球の社会で生きてきた少女たちにとって、それは完全に許容量を超える恐怖だった。
次々と過呼吸を起こし、床にへたり込んで泣き叫び、頭を抱えてうずくまる女子生徒たち。
(嘘だろ……俺たちは一生、この虫かごの中から……)
画面に映る凄惨な光景に、タケルの額から冷たい汗が流れ落ちた。健康なはずの足がガタガタと震え、呼吸が浅くなる。南半球の過酷な環境で育ったとはいえ、目の前で人が圧死し、逃げ場のない檻に閉じ込められていると突きつけられた恐怖は、十七歳の少年の心を簡単にへし折りそうになった。
だが、足元で泣き叫ぶ女子生徒たちの姿が視界に入った瞬間、タケルは奥歯を強く噛み締めた。
――ここで俺が折れたら、誰がこいつらを守るんだ。
脳裏に、事変直後の凄惨な死体処理を経験した祖父・隼人の教えが蘇る。
『人間、縦に行けなきゃ、横に歩けばいいだけだ。絶望してる暇があったら、息を吸って土を踏みしめろ』
タケルの中で、南の男としての『オスのタフさ』が完全に覚醒した。
ガタッ!!
タケルは勢いよく立ち上がると、教室中を震わせるような、腹の底から響く野太い大音声を張り上げた。
「落ち着けえええええええっ!!!」
空気を切り裂くような、生身の男の怒号。
ビクンッ、と。泣き叫んでいた三十人の女子生徒たちの動きが、雷に打たれたように一瞬だけ停止した。
「泣き喚くな! 今すぐ天井が落ちてきて俺たちが死ぬわけじゃない! 息を吸え! そして、ゆっくりと吐くんだ!」
タケルの百八十センチの巨体から放たれる、圧倒的な熱量と生命力。
それは、パニックに陥ったか弱い少女たちにとって、嵐の海に現れた巨大な灯台のような、絶対的な安心感だった。
「タケル、君……っ」
近くでへたり込んでいた女子生徒が、すがるようにタケルの制服の裾を掴んだ。タケルはためらうことなく、空いているもう片方の腕で、その女子生徒の肩も力強く抱き寄せた。
「大丈夫だ。俺がいる。俺たち南の男は、こんな壁なんかに屈したりしない」
タケルの腕に包み込まれた芽衣と女子生徒の耳に、ドクン、ドクンと、タケルの心臓の力強い鼓動が伝わってくる。
健康的に日焼けした肌の温もり。少し汗ばんだ、野性的なオスの匂い。
この世界で最も生命力に溢れた『生身の熱』に触れ、少女たちの荒い呼吸は、魔法にかけられたように少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「タケル君……私、怖くて……っ」
「俺に掴まってろ。絶対に守ってやるから」
次々とタケルの周囲に集まり、すがるように彼に触れようとする女子生徒たち。タケルは嫌な顔一つせず、その大きな手で彼女たちの震える背中をさすり、安心させるように力強く頷き続けた。
テラリウムの昆虫という絶望的な真実を突きつけられた少女たちにとって、タケルの存在そのものが、生きるための巨大なアンカーとなっていたのだ。




