第41話 抗体の発見
数十分後。特級遺伝子研究所の奥にある、理沙の広々とした執務室。
支給されたバイオ繊維の服をようやく身にまとい、ソファに深く腰を沈めたタケルは、十七歳の少年の尊厳を完全にすり減らされ、灰のように真っ白に燃え尽きていた。
「……俺、もう日本から南半球に帰りたい……」
うわ言のように呟くタケルの前に、白衣の裾を翻して理沙が戻ってきた。
しかし、タケルはその姿を見て、思わず息を呑んだ。
先ほどまで目を血走らせてオイルを塗りたくっていた変態的なオーラは、欠片も残っていなかったのだ。彼女の表情は極めて冷徹で、知的なメガネの奥の瞳には、人類の真理を追究するトップエリート、「テクノクラート」としての鋭い光が宿っていた。
「タケル君、聞いてちょうだい」
理沙は執務室の壁一面を占める透明な電子ホワイトボードの前に立つと、専用の電子ペンを手に取り、猛烈な速度で複雑な化学式と遺伝子配列の構造図を書き殴り始めた。
カツカツカツッ! というペンの音が響く。それは、タケルには到底理解できない超高度な分子生物学の数式だった。先ほどのポンコツでセクシーな女性と同一人物とは思えない、圧倒的な「天才」としての顔。そのあまりのギャップに、タケルは背筋を正さざるを得なかった。
「先日解析した、あなたの『パッチワーク細胞』。十六年前に一歳を過ぎて壁を越え、死の淵から蘇生したことで生まれたその細胞群を、さらに深くシミュレーションしてみたわ」
理沙はペンを止め、振り返った。
「結論から言うわ。あなたの体内には、壁の致死システムを無効化する『抗体のようなもの』が完全に形成されていることが特定されたわ 」
「……抗体?」
タケルは身を乗り出した。
「ええ。ゼロ・シェルは、人間の特定の染色体と年齢を識別して致死の電磁波を放つ。でも、あなたの細胞はその電磁波の波長を記憶し、中和する特殊なタンパク質を生み出しているの」
理沙はタケルの目を真っ直ぐに見つめ、信じられないような事実を告げた。
「この抗体の構造をベースにして新薬を合成すれば……壁の致死システムを、誰でも無効化できる。つまり、全人類がゼロ・シェルを安全にすり抜けられる可能性が浮上したのよ」
「全人類が……壁を越えられる……!?」
タケルは弾かれたように立ち上がった。
頭の中に浮かんだのは、南半球の過酷な環境で生きる家族の顔だった。
五十年間、愛する祖母と離れ離れになっても想い続けている祖父の隼人。不器用ながらも深い愛情でタケルを育ててくれた父の英明。そして、北半球の女性たちに会うことを夢見ながら、日々泥だらけになって働く一億人の男たち。
「じいちゃんや親父を……南の男たちを、北半球に呼べるかもしれないってことですか!?」
「ええ、理論上は可能よ。あなたが北半球に来てくれたおかげで、五十年間分断されていた世界が、ついに一つに繋がるかもしれないの」
理沙の言葉に、タケルは両手で顔を覆い、感極まって熱い息を吐き出した。
自分の特異体質が、ただ世界をパニックに陥れるためのものではなく、本当に世界を救う希望の光だったのだ。その壮大な事実に、タケルの胸はかつてないほどの感動で満たされた。
「……理沙さん、本当に、本当にありがとうございます! 俺の身体で新薬ができるなら、いくらでも協力します!」
タケルが涙ぐみながら深く頭を下げると、理沙は「ふふ、医者として当然のことをしたまでよ」と、女神のように優しく微笑んだ。
だが、感動の涙を拭ったタケルの脳裏に、ふと、極めて冷静で素朴な疑問がよぎった。
「……あれ? ちょっと待ってください、理沙さん」
「何かしら、タケル君。人類の夜明けに感極まってしまった?」
「いや、そうじゃなくて……。俺の細胞から抗体が特定されて、新薬が作れるって話ですよね?」
「ええ、その通りよ」
「じゃあ……さっき俺を全裸にして、オイルまみれにして、股間まで手で塗りたくって限界まで膨張させたまま3Dスキャンしたのって……最初の身体検査(新薬の開発)に、絶対必要だったんですか?」
ピタリ、と。
執務室の空気が凍りついた。
理沙の女神のような微笑みが、みるみるうちに引きつっていく。彼女の視線が、タケルの目から露骨に逸れ、宙を泳ぎ始めた。
「あー……ええと、それはね? い、医学の基礎データとして? 極限状態における人体の立体構造の把握は、非常に、その、必要不可欠なアプローチでありまして……!」
「図星じゃないか! 絶対あんたの私欲だろ!」
タケルが鬼の形相で詰め寄ると、理沙は「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、「け、研究の続きがあるから失礼するわっ!」と白衣を翻し、猛ダッシュで執務室から逃げ出してしまった。
「あの変態エリート女医め……っ! 俺の感動を返せ!」
タケルは誰もいなくなった執務室で、ドッと肩を落としてため息をついた。五十年間分断されていたとはいえ、人間というのは根本的に何も変わっていないのかもしれない。
タケルが呆れ返りながらソファに座り直した、その時だった。
ピンポンパンポーン、と。
執務室の壁に設置された巨大なモニターが、突然けたたましい電子音と共に、緊急のニュース速報画面へと切り替わった。
『全地球ネットワーク・特別報道番組をお伝えします』
画面に映し出されたのは、巨大な発射台と、そこにそびえ立つ白銀のロケットの姿だった。
『明日、正午。ついに「全地球規模:五十周年記念・有人宇宙飛行プロジェクト」が決行されます! 赤道事変から五十年、我々人類はついに、分断された大地を越え、再び宇宙へと挑戦するのです!』
モニターには、北半球の広場で歓喜の涙を流す女性たちと、南半球の酒場で肩を組み合い雄叫びを上げる男たちの映像が交互に映し出されていた。
壁の向こうへは行けなくても、空の向こうへなら行ける。人類の希望と復興の象徴。
「すげえ……有人ロケットの打ち上げ……」
タケルはモニターを見上げ、その壮大な光景に息を呑んだ。
世界中が、明日への希望に熱狂し、一つに繋がろうとしている。
抗体の発見と、ロケットの打ち上げ。人類の輝かしい未来は、すぐそこまで来ているように見えた。




