第38話 展望台
やがて、恋人たちの聖地に夕暮れが訪れた。
西の空が燃えるようなオレンジ色に染まり、高度に自動化された北半球の美しい街並みが、夕日に照らされてキラキラと輝き始めている。
タケルと優愛は、街を一望できる展望台のガラス張りの手すりに並んで寄りかかっていた。周囲には誰もいない。警護官たちも、気を利かせたのか(あるいは興奮しすぎて倒れたのか)、遠くの物陰に気配を潜めているようだった。
「……今日、すごく楽しかったです」
優愛が夕暮れの空を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ああ。俺も、優愛と一緒に歩けて最高の一日だった」
タケルも手すりに肘をつき、隣に立つ優愛の横顔を見下ろした。百八十センチのタケルと、百五十八センチの優愛。並んで立つと、その身長差と体格差が、生身の男女であるという事実をより一層際立たせていた。
「私、ずっとタケルさんからの手紙を読むのが、毎日の何よりの楽しみでした」
優愛は自分の胸元に両手を当て、大切に言葉を紡ぐ。
「少し雑だけど、力強くて真っ直ぐな文字。手紙から微かに漂ってくる、南半球の石炭と機械油の匂い。北の清潔な暮らしにはない、タケル君の『生命力』に、ずっと恋い焦がれていました」
優愛はゆっくりとタケルの方へ向き直った。夕日に照らされた彼女の透明な瞳が、熱を帯びて潤んでいる。
「でも、今日こうして一緒に手をつないで歩いて……ぶつかって、笑い合って。手紙の何百倍も、何千倍も、本物のタケルさんのことがもっと好きになりました」
それは、ごまかしのきかない、完全な告白だった。
タケルは心臓が早鐘のように打ち鳴らされるのを感じた。南半球の男だらけの環境で育ち、恋愛の駆け引きなど何も知らない十七歳の少年。けれど、彼の中にある真っ直ぐな想いは、優愛と全く同じだった。
「俺も……優愛の文字から伝わる優しさに、ずっと惹かれてた。こうして実際に会って、優愛の温かさに触れて……俺の隣には、ずっと君にいてほしいって、本気で思ってる」
タケルが真剣な眼差しでそう告げると、優愛の顔は夕日よりも赤く染まり、その瞳から嬉し涙がポロリとこぼれ落ちた。
五十年間、世界中の誰もが諦めていた、男女の直接の触れ合い。それを今、二人は自分たちの手で確かなものにしようとしている。
「……タケルさん」
優愛はタケルの正面に立ち、小さな両手で、タケルの大きな右手をそっと包み込んだ。
「手紙じゃ、絶対にできないこと……していいですか?」
優愛はそう言うと、一歩前に踏み出し、タケルの広い胸の中にそっと飛び込んだ。
「えっ……」
驚くタケルの背中に、優愛の小さな両腕が回される。夕風が吹き抜け、彼女の髪から洗い立てのリネンのような、甘い石鹸の香りがふわりと漂った。
「……タケルさん。すごく、たくましくて……でも、すっごく温かいです」
優愛の震えるような声が胸元から聞こえ、タケルは一瞬戸惑ったが、すぐに彼女の華奢な背中に大きな両腕を回した。
南の男たちと泥まみれでぶつかり合ってきたタケルの腕の中に、優愛の身体はすっぽりと収まってしまう。少し力を入れただけでポキリと折れてしまいそうなほど細い肩。そして、高度に管理された北の無菌社会で大切に育てられた少女特有の、マシュマロのような信じられないほどの柔らかさ。
「優愛……お前、本当に小っちゃいな。それに、すげえいい匂いがする……」
タケルが壊さないように優しく、けれど確実に自分の熱を伝えるように抱きしめ返すと、優愛はタケルの分厚い大胸筋にさらに顔を押し当て、服の裾をギュッと握りしめた。
「えへへ……タケルさんこそ、南の太陽みたいな、すごく安心する匂いがします。……それに、ドクンドクンって、心臓の音、とっても力強い」
「そりゃ、こんなに密着してたら嫌でも早くなるだろ……。心臓、爆発しそうだよ」
タケルの不器用な照れ隠しに、優愛の小さな肩がクスリと揺れた。
「私もです。タケルさんの熱が直接伝わってきて……頭の奥が、ふわふわして……」
「……俺も、ずっとこうしたいって思ってた。手紙を読んでる時も、今日一日隣を歩いてる時も」
「タケルさん……っ」
優愛はそっと顔を上げ、潤んだ透明な瞳でタケルを見つめた。至近距離で交差する視線と、お互いの熱い吐息が混ざり合う。
「俺の手紙、少し乱暴で読みにくかっただろ。……こうして直接触れても、やっぱり力加減が上手くできない。痛くないか?」
「全然。手紙の最後には、いつもタケルさんの優しい『結び』の言葉がありました。……だから今は、言葉じゃなくて、その腕でもっと、きつく結んでください」
「……こんなにきつく結んだら、もう二度と解けなくなるぞ」
百八十センチのタケルのたくましい身体と、百五十八センチの優愛の小さな身体。
二人の影が、夕日の中で完全に一つに重なり合う。
「……っ」
ARの疑似体験でも、小説の中のファンタジーでもない。
腕の中にすっぽりと収まる柔らかさと、服越しに直接伝わってくるお互いの早い心拍。
世界を隔てる不可視の壁を越え、アナログな文通から始まった二人の想いが、五十年の時を経て、この夕暮れの展望台で確かな熱として結実した瞬間だった。
一方、その歴史的かつロマンチックな初ハグを、高性能な双眼鏡で物陰からバッチリと監視していた二人の女性警護官は。
「ぎゃああああああああっ!! なっ、生身の、生身の男女の究極の密着ぅぅぅぅっ!!」
「尊い! 尊すぎる! でも羨ましすぎて憤死するー! 国家機密としてこの映像は私が一生保存しますぅぅっ!!」
致死量を超える強烈な胸キュンと刺激を過剰摂取した結果、二人は揃って鼻血を吹き出し、幸せそうな顔をしたまま展望台の床にパタリと気絶して倒れ伏すのだった。




