第36話 陽動作戦
「あーもうっ! なんでこんな日に限って、期末テストがあるのよぉっ!」
高度に自動化された北半球のマンションの一室。御手宮芽衣は、机に広げたタブレット端末を前に、ペンをギリギリと噛み締めながら絶叫していた。
今日は兄である御手宮タケルが、あの文通相手の葉寺優愛と二人きりでデートに出かける日だ。絶対に尾行して邪魔してやるつもりだったのに、どうしても外せない学校の進級テストが重なってしまい、泣く泣く自宅で留守番を強いられていたのである。
「優愛さん……お兄ちゃんに少しでも変なことしたら、絶対に許さないんだからね……っ!」
ブラコン気質全開の芽衣の怨念めいた声が、静かな部屋に虚しく響き渡っていた。
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足早に家を出たタケルと優愛は、北半球の華やかな市街地の一角に身を潜めていた。
「ごめん、優愛。今日だけは絶対に二人きりになりたかったんだけど……やっぱり警護が厳重だな」
タケルが壁の裏からそっと覗き込むと、十メートルほど離れた場所で、政府から派遣された二人の女性警護官が目を光らせている。彼女たちはタケルを一歩でも外に出せば、常に影のように張り付いてくるのだ。
「タケルさん……私、少しでもタケルさんと並んで歩けるなら、それで……」
優愛が控えめに微笑むが、その透明な瞳の奥には、せっかくのデートを邪魔されたくないという切実な想いが滲んでいた。
「よし、ちょっと待っててくれ。南半球仕込みの陽動作戦を見せてやる」
タケルは背負っていたバッグから、自作の小型無人輸送機、ドローンを取り出した。そして、自分が昨日着ていた、南のオスの汗と匂いがたっぷり染み込んだ上着をドローンに巻き付けた。
「頼むぞ、相棒」
タケルが端末を操作すると、ドローンは猛スピードで上空へ飛び立ち、警護官たちの頭上を掠めて反対方向へと飛んでいった。
「あっ! タケル様の魅惑的なオスの残り香が、あちらから!」
「大変! タケル様の御身に何かあったのね。追跡よ!」
匂いに釣られた警護官たちは、完全に冷静さを失い、ドローンを追って猛ダッシュで走り去っていった。
「今のうちだ、行こう!」
タケルは帽子とサングラス、マスクで顔を隠し、優愛の手を引いて全速力で駆け出した。
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二人が向かったのは、北半球の女性たちの間で大流行しているすれ違いロマンス小説『ウォール・ロマンス』の舞台(見えない壁を模したガラスの壁)となった、「恋人たちの聖地」だった。
美しく整備された並木道には、最新鋭のVRアトラクションや、完璧に味覚を再現する高級培養食レストランなど、テクノロジーの粋を集めた施設が立ち並んでいる。
すれ違う客のほとんどは、女性同士で腕を組んで歩くカップルばかりだった。
五十年間、男が存在しなかったこの世界において、彼女たちは「日常の安らぎ」として同性同士で生活パートナーとなることを選んだ人たちだ。
「男なんて、種の保存のためにデータで精子を選ぶだけの存在よ」
「そうね。私たちの方が、精神的な絆が深くて高尚だわ」
彼女たちはそんな会話を交わしながら、優雅に微笑み合っていた。変装して歩く長身のタケルと優愛が通りかかっても、最初は見向きもしない。
しかし、タケルが優愛をかばうように車道側へ回った、その瞬間だった。
フワリと、北半球の無菌室のような空気を切り裂いて、タケルの分厚い胸板から放たれる熱気と、微かに漂う野性的なオスのフェロモンが風に乗って広がった。
ピクリ、と。
すれ違った女性カップルたちの動きが、完全に停止した。
「えっ……なに、今の熱……っ」
「嘘……胸の奥が、熱くてうずく……っ♡」
彼女たちの無意識下にある「女」としての本能が、南のオスの圧倒的な生命力によって直接殴りつけられたのだ。高尚な精神的絆など一瞬で吹き飛び、女性カップルたちは次々と顔を真っ赤にして腰を抜かし、その場にへたり込んで悶絶し始めた。
「あぁっ……さっきの背の高い人、もっと匂いを……っ♡」
「だめ、足に力が入らないわぁ……っ」
タケルの歩いた後ろには、フェロモンに抗えずに倒れ伏す女性たちの道ができあがっていた。
しかし、無頓着なタケルは、背後の惨状に気づくも、「なんだか今日は転ぶ人が多いな。優愛も気をつけてな」と呑気に笑いながら先へと進んでいった。




