第35話 陥落の食卓
「よし、完成だ! 南半球特製、ワイルド・ガーリック・ステーキだ!」
タケルが額の汗を拭いながら、どんとテーブルの中央に大皿を置いた。そこに乗っていたのは、北の洗練されたバイオ培養食とは対極にある、巨大で無骨な肉の塊だった。表面はカリッと焦げ目がつき、中からはナイフを入れる前から肉汁が溢れ出している。そして、粗挽きスパイスと強烈なガーリックの香りが、部屋の空気を完全に支配していた。
「す、すごい迫力……。これが、南の男の人が食べているお肉……」
優愛がゴクリと生唾を飲み込む。
「見た目はちょっと野蛮だけど……匂いだけで、なんだかお腹の奥が熱くなってくるわ……」
芽衣もフォークを握りしめ、顔を紅潮させていた。
「冷めないうちに食ってみろよ。味は保証するからさ」
タケルの言葉に促され、二人は恐る恐る、切り分けられた肉片を口に運んだ。高度に自動化された北半球で、計算された薄味のクリーンなゼリーやペーストばかりを食べてきた彼女たちの舌が、初めて「本物の命の味」に触れた瞬間だった。
「……っ!!」
噛み締めた途端、二人の動きがピタリと停止した。濃厚な肉汁の旨味、脳を直接殴りつけるようなガーリックのパンチ、そして高カロリーな脂の暴力が、彼女たちの味覚を――いや、北の社会で抑圧されてきた「本能」を、ダイレクトに直撃したのだ。
「あぁっ……♡」
最初に崩れ落ちたのは優愛だった。彼女は両手で頬を押さえ、トロンと潤んだ瞳で天を仰いだ。
「だめ……こんなに強くて、乱暴な味……初めて……っ。脳が、溶けちゃう……♡」
「あっ……んんっ……♡」
芽衣もまた、全身をビクンと震わせ、椅子からずり落ちそうになった。
「お兄ちゃんの……お肉、すっごく熱くて……っ、身体の奥まで、脂が染み込んでくるぅ……っ♡」
未知の旨味とカロリーの暴力に耐えきれず、二人の少女は顔を真っ赤に染め上げ、荒い息を吐きながら身悶えし始めた。まるで、食欲とは別の快感に支配されてしまったかのような、あられもない声とリアクションである。
「お、おい!? 二人ともどうしたんだよ! ただの肉だろ!?」
タケルは完全にパニックになり、悶絶する二人を前にオロオロと立ち尽くした。南の男のワイルドな手料理は、北の温室育ちの少女たちには、あまりにも刺激が強すぎる劇薬だったのだ。
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「……あら、なんだか随分と騒がしいわね」
玄関のドアが開く音と共に、仕事から帰宅した母の御手宮玲子がリビングへと足を踏み入れた。
「あ、母さん、おかえり! いや、これには深い事情が……」
タケルが慌てて振り返ると、玲子の穏やかな目元が、ピクッと引きつっていた。彼女の視線の先には、腰を抜かして荒い息を吐いている娘の芽衣と息子の文通相手である優愛。そして、部屋中に充満する暴力的な肉の匂い。極めつけは――油跳ねとスパイスの粉末でドロドロに汚れた、北半球の最新鋭AIキッチンだった。
「タケル……?」
玲子の声は、静かだった。しかし、その底には絶対零度の怒りが込められていた。高度自動化システムの維持管理者として、インフラの清潔さを何よりも重んじるエリートの母が、自宅のキッチンの惨状を許せるはずがなかった。
「ひっ……!」
タケルの百八十センチの巨体が、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がる。
「このキッチンの汚れ……誰が片付けるのかしら? 最新のバイオコーティングが油でギトギトじゃないの」
「お、俺です! 全部俺が掃除します! ピカピカに磨き上げます!」
タケルは直立不動になり、軍隊のような声で敬礼した。
「ふふ、よろしい」
玲子は冷ややかな笑みを浮かべると、テーブルの上の惨状に目を向けた。
「まったく、南の粗暴な食べ物を持ち込んで……女の子たちをこんなにして。どれだけ体に悪いものを作ったのよ」
玲子は呆れたようにため息をつくと、タケルが玲子のために取り分けておいた、まだ温かい肉の一切れをフォークで刺し、口へ運んだ。大人の女性の余裕を見せつけるかのように。
モグッ。玲子の顎が動き、肉の脂が舌の上に広がった。その瞬間。
「……っ!!」
玲子の目が見開き、手に持っていたフォークがカラン、と音を立てて床に落ちた。「か、母さん?」
「な、なにこれ……っ! 信じられないくらい……美味しい……っ♡」
三十八歳の大人の女性である玲子すらも、その一撃に耐えることはできなかった。息子が自分のために作ってくれたという肉料理。玲子の理性を完全に吹き飛ばしたのだ。玲子は膝から崩れ落ち、頬を真っ赤に染めて両手で顔を覆った。
「あぁん……っ、タケルの作ったお肉、最高よぉ……っ♡ お肌が脂でテカテカになってもいいわ……もっと、もっと頂戴……っ♡」
「母さんまでどうしちゃったんだよおおおおっ!?」
タケルは頭を抱え、絶叫した。北半球の女性たちの本能は、南の高カロリーの前にあまりにも脆すぎた。
「タケル……」
息を荒くした玲子が、潤んだ瞳でタケルを見上げ、這うようにしてすがりついてきた。
「キッチンの清掃は、きっちりやりなさい。……で、罰として」
玲子は艶やかな唇をペロリと舐め、命令を下した。
「今度の休日も、この南の特別料理を作りなさい。……お母さんの分も、大盛りでね♡」
南半球のオスの手料理は、北半球の女性たちの胃袋と本能を完全に狂わせてしまった。油まみれのキッチンの掃除という重労働を背負わされながらも、タケルは家族(と、ヤキモチ焼きの可愛い少女)の笑顔を見て、ほんの少しだけ南の風を感じて笑うのだった。




