第25話 祖母の料理
「お兄ちゃん、遅い! 何時間検査されてたのよ!」
「ごめんごめん、色々あって死にそうだったんだよ……」
研究施設のロビーで待ちくたびれていた妹の芽衣と合流したタケルは、重い足取りで政府の専用車に乗り込んだ。
向かう先は、北半球の洗練された高層マンション群から少し離れた郊外。タケルの祖母である、御手宮詩乃が住む家だ。
高度に自動化された北半球の都市部とは異なり、詩乃の家は昔ながらの平屋の小さな一軒家だった。庭には青々とした作物が育つ広い畑があり、家の裏手からは「コッコッコ」という鶏の鳴き声が聞こえてくる。人工的なバイオプラントの匂いではなく、南半球に近い、本物の土と命の匂いがする場所だった。
「おばあちゃーん、来たわよ!」
芽衣が木の引き戸を開けると、土間から奥の居間へと続く廊下に、背筋が凛と伸びた美しい白髪の老婦人が立っていた。タケルの祖母、詩乃だ。
「芽衣、いらっしゃい。……そして」
詩乃の視線が、芽衣の後ろに立つ百八十センチのタケルの姿を捉えた。
「ばあちゃん。俺、タケルだよ。日本に来たんだ」
十六年間、ARの光の粒子越しでしか会うことのできなかった孫。
詩乃は震える両手で口元を覆い、大きな瞳からポロポロと涙をこぼした。そして、ゆっくりとタケルに近づき、その分厚い胸に顔を埋めるようにして抱きついた。
「ああ……タケル、タケル……っ。本当に、そこにいるのね……」
「ばあちゃん……」
タケルも、少し不器用な手つきで、祖母の華奢な背中にそっと腕を回した。画面越しでは絶対に伝わらなかった、家族の確かな重みと体温がそこにあった。
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「さあ、たくさんお食べ。北のバイオ培養食ばかりじゃ、南で育った男の子には物足りないでしょう」
居間のちゃぶ台に並べられたのは、北半球の効率的で清潔なバイオ培養食ではなく、詩乃が自分の手で育て、調理した本物の料理だった。
畑で採れたばかりの瑞々しいトマトやきゅうりのサラダ。そして、庭で養鶏している鶏から採れた新鮮な卵を使った黄金色の卵焼き。さらに、冷蔵庫で大切に保存されていた自家製の鶏肉を使った、香ばしい匂いを放つ鶏の照り焼きだ。
「いただきます!」
タケルは箸を手に取り、鶏の照り焼きを大きな口で頬張った。
噛み締めた瞬間、濃厚な肉汁と甘辛いタレの旨味が口いっぱいに弾けた。
「……うまっ!!」
タケルは目を丸くし、次々と料理を胃袋に流し込んでいく。
「これだよ、この味! 泥臭くて、油と旨味があって、本物の命の味がする! 最近、綺麗すぎるゼリーみたいな飯ばっかりだったから、マジで最高だよ!」
「ふふっ、お兄ちゃん食べすぎ! 私のお肉も半分食べていいよ!」
芽衣も笑いながら卵焼きを頬張る。
「おばあちゃんのご飯、すっごく美味しい! 私、将来はこういう『南の旨味』を再現できるバイオ培養食のフレーバー開発者になりたいな」
久しぶりの高カロリーでワイルドな手料理に感動し、涙を浮かべながら食べるタケルの姿を、詩乃は目を細めて優しく見守っていた。
食後。縁側に座り、温かいお茶を飲みながら、詩乃はぽつりぽつりと昔話を始めた。
「タケル。おじいさんから、事変の時の話は聞いているわね?」
「うん。じいちゃんが、事変直後の凄惨な事をしたりして、過酷な経験を乗り越えてきたって」
詩乃は静かに頷き、湯呑みを見つめた。
「あの『赤道事変』が起きた五十年前。私と隼人さんは、ちょうど三十歳だったの。世界が突然分断されて、緯度0度の赤道直上に、目に見えない不可視の壁『ゼロ・シェル』が現れた日……」
詩乃の声が、少しだけ震えた。
「私たちは、仕事の都合でたまたま北と南に離れていたの。事変が起きて、通信は繋がっても、物理的な行き来ができなくなった。目の前で、原因不明のまま男性たちが次々と倒れて絶命していく地獄のような光景を、私はただ唖然と見ていることしかできなかった」
タケルと芽衣は、息を呑んで黙り込んだ。
南の祖父・隼人からは「過酷だった」という事実として聞いていたが、祖母の口から語られる当時の感情は、あまりにも生々しく、そして痛切だった。
「私たちは、手を伸ばせば届く距離にいたのに、決して触れることができなくなった。どれだけ泣き叫んで壁を叩いても、弾き返されるだけ……。あの時の絶望と、お互いの体温を失った喪失感は、五十年間、一日たりとも忘れたことはないわ」
詩乃の瞳から、静かに涙が伝い落ちた。
五十年間、愛する夫と離れ離れになっても想い続ける、芯の強い女性の涙だった。
タケルは自分の大きな右手を見つめた。
見えない壁をすり抜け、北の女の子とハイタッチをした右手。今日、祖母を抱きしめることができた両腕。
自分の特異体質は、ただ世界をパニックに陥れるためのものではない。五十年間、不条理な壁によって引き裂かれた人々の心を、そして物理的な距離を繋ぎ直すための「希望」なのだと、タケルは確信した。
「ばあちゃん」
タケルは詩乃の小さな手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「じいちゃんから、伝言を預かってるんだ」
「隼人さんから……?」
「うん。『詩乃のことを見てきてやってくれ。そして、いつか必ず俺もそっちへ行く』って、じいちゃんが言ってたよ」
その言葉を聞いた瞬間、詩乃はハッと息を呑み、そして、五十年前の少女のように、顔をくしゃくしゃにして泣き笑いした。
「……ええ。ええ、待っているわ。あの人が長い長い出張を終え、この家へ帰ってくる日を」
夕暮れが迫る北半球の空。
タケルは、いつか必ず祖父をこの北の大地へ呼び寄せ、家族全員で生身の食卓を囲むことを、強く心に願うのだった。




