第17話 編入初日
「もう、お兄ちゃんったら! なんでネクタイ一本まともに結べないのよ!」
高度に自動化された静かな朝の空気を切り裂くように、御手宮芽衣の甲高い声がリビングに響き渡った。
北半球の洗練されたマンションの一室。巨大な鏡の前に立つ御手宮タケルは、首にぶら下げた細長い布切れを前に、完全にフリーズしていた。
「仕方ないだろ。南半球じゃ毎日Tシャツか作業着しか着てなかったんだから、こんな首を絞めるような布の結び方なんて習ってないんだ」
「言い訳しないの! 今日からお兄ちゃんも北の学校に通うんだから、ちゃんとした身なりをしないと私が恥ずかしいでしょ!」
タケルは抗体研究の合間を縫って、母である玲子のはからいで今日から北半球の中高一貫校へ編入することになっていた。
玲子が嬉々として用意してくれた北半球仕様のブレザーの学生服。しかし、南の過酷な太陽と高カロリーなジャンクフードで鍛え上げられたタケルのタフで筋肉質な身体には、洗練されたスマートなブレザーはひどく窮屈だった。分厚い大胸筋と広い肩幅のせいで生地はパツパツに張り詰め、少しでも腕を大きく動かせば背中の縫い目が弾け飛んでしまいそうだ。
「ああもう、貸して! 私がやってあげるから!」
見かねた芽衣がため息をつきながらタケルの前に立ち、スッと背伸びをした。
タケルの首元に芽衣の小さな手が伸びる。十五歳の少女の柔らかい指先が、タケルの首筋に微かに触れた。
その瞬間、芽衣の動きがピタリと止まった。
ゼロ距離。見上げれば、健康的に日焼けしたリアルな兄の精悍な顔つきがある。首元からは、北半球の無菌室のような空気には絶対に存在しない、野生の穀物を集めたワイルドな雑穀の名残と、燃えるようなオスの熱量が混じった匂いが漂ってきた。
「……っ」
芽衣の顔が、耳の先まで一気に朱に染まった。画面越しのARでは絶対に感じることのなかった、生身の男の圧倒的な引力。
鼓動が早鐘のように打ち鳴らされるのを必死に隠しながら、芽衣は震える手でどうにかネクタイを結び終えた。
「ほ、ほら! できたわ! さっさと行きましょ、遅刻しちゃうから!」
「お、おう。サンキュな」
真っ赤な顔で逃げるように玄関へ向かう妹の背中を見送りながら、タケルは窮屈な首元を指で少しだけ緩め、深く息を吐き出した。
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北半球の通学路は、普段であれば無音の清掃ドローンが飛び交うだけの静かで清潔な空間だ。
しかし今日に限っては、まるで暴動寸前のスラム街のような異様な熱気に包まれていた。
「キャアアアアッ! タケル君よ! 本物の男の人よーっ!」
「こっち向いてー! あああ、筋肉がブレザー越しでも分かるわっ!」
タケルが一歩足を踏み出すたびに、沿道を埋め尽くした何百、何千という女性たちが地鳴りのような悲鳴を上げる。五十年間、男という存在が途絶えていた北半球の社会において、歩く特級遺伝子であるタケルの通学風景は、世界最高峰のアイドルライブをも凌ぐ熱狂を生み出していた。
「ちょっと! 押さないでよ! 私のお兄ちゃんに気安く近づかないで!」
芽衣が小さな身体をいっぱいに広げ、押し寄せる女性たちを必死にガードしながら進む。しかし、狂乱した大人の女性たちの波を十五歳の少女が抑えきれるはずもなく、タケルはあちこちから伸びてくる手によって腕や背中を撫で回され、逆に芽衣を守りながら進む。もみくちゃにされながらどうにか学校の正門へとたどり着いた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
「お兄ちゃん、守ってくれてありがとう。ただ、ここからは私の通う学校なんだから、私にまかせて!」
芽衣に背中を叩かれ、タケルは校舎へと足を踏み入れた。
案内された教室のドアを開けると、そこは水を打ったように静まり返っていた。
北半球の教育は、AIチューターによる個別最適化教育が基本である。生徒たちは全員が最新のバイオ繊維で作られたシワ一つない制服に身を包み、それぞれの端末に向かって無音で課題をこなしている。私語など一切ない、極めて洗練されたノイズレスな空間だ。
教室の黒板に相当する巨大モニターに、AIチューターの無機質なホログラムが浮かび上がった。
『皆さん、本日から特別カリキュラムとして、南半球より御手宮タケルさんが編入します。彼の生態データは我々の社会にとって非常に有益な……』
「あー、御手宮タケルです。よろしく」
タケルが教壇の横に立ち、軽く頭を下げた。
通学路の熱気でひどく汗をかいていたタケルは、ブレザーの襟元を掴んでバタバタと仰ぎ、乱れた髪を無造作にかき上げた。
その瞬間だった。
タケルの身体から放たれた、むせ返るような『オスのフェロモン』と汗の匂いが、無菌状態だった教室の空気に一気に広がったのだ。
ピクッ、と。
最前列に座っていた清楚な雰囲気の女子生徒が、鼻をヒクつかせて顔を上げた。
彼女の瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。
「……いい匂い。なんだか、お腹の奥が熱くなって……」
その呟きを皮切りに、完璧に統率されていた教室の秩序が音を立てて崩壊した。
ガタッ! と椅子を蹴倒して立ち上がった女子生徒たちが、ゾンビの群れのようにタケルへと群がり始めたのだ。
「あああっ、生身の男の人の匂い! 脳がとろけそう!」
「タケル君、その汗を拭かせて! ハンカチごと家宝にするから!」
「ちょっとだけでいいんで、筋肉触らせて!」
三十人の女子高生たちが理性を完全に吹き飛ばし、タケルを取り囲んで至近距離で匂いを嗅ぎ、制服の裾を引っ張り合う大パニックに陥った。
「ちょ、お前ら落ち着けって! 匂い嗅ぐな! 制服が破れる!」
悲鳴を上げるタケルの声は、発情しきった女子高生たちの黄色い歓声に完全に掻き消されていた。




