第16話 培養食と夜
その日の夜。御手宮家のダイニングテーブルには、ARプロジェクターの光ではない、本物の料理が並べられていた。
北半球の洗練された技術で作られた、効率的で清潔なバイオ培養食である。色とりどりのペーストや、完璧な栄養素が計算されたゼリー状のおかずが、美しい食器に盛り付けられていた。
「さあ、冷めないうちに食べてね、タケル」
「いただきます」
タケルはスプーンを手に取り、恐る恐るバイオ培養食を口に運んだ。滑らかな舌触りと、計算し尽くされた上品な旨味が広がる。
(美味しい。確かに美味しいんだけど……なんだか、綺麗すぎる味だな)
タケルは内心で少しだけ首を傾げた。南半球で毎日食べていた、滴るような油と強烈なスパイスの効いた、ワイルドで高カロリーな手料理の脂っこさが、少しだけ恋しく感じられたのだ。
ふと顔を上げると、玲子と芽衣が、食事をするタケルの姿を食い入るように見つめていた。まるで珍しい動物の食事シーンでも観察するかのような、熱烈で愛おしそうな視線だ。
「……あの、母さん、芽衣。そんなに見つめられると、食べづらいんだけど」
タケルが居心地悪そうに身をよじると、玲子はクスリと優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね。でも、タケルがこうして目の前でご飯を食べているのが、なんだか奇跡みたいで。……それにしても、本当に立派な男の子に育って」
「そりゃ、もう十七歳だからな。あんまりジロジロ見られると、流石に恥ずかしいよ」
タケルが頬を掻くと、玲子は突如として、とんでもない爆弾発言を落とした。
「何を恥ずかしがることがあるの? お母さんは、タケルが1歳になるギリギリまで南へ送り出さずに子育てをしていたのよ。あなたのおしめを変えたり、直接授乳させてたんだから、恥ずかしがることなんて何一つないわ。今日も一緒にお風呂、入っちゃう?」
「ブホッ!?」
タケルは飲んでいたスープを盛大に吹き出しそうになり、顔を真っ赤にして激しくむせ返った。
いくら赤ん坊の頃とはいえ、年頃の男子高校生に向かって「授乳していた」などと面と向かって言われるのは、致死量を超える羞恥プレイである。
「か、母さん! 食事中に急になんてこと言うんだよ!」
「ふふっ、お兄ちゃん、顔真っ赤! 純情なんだ」
芽衣がタケルの反応を見て、コロコロと嬉しそうに笑う。
その時、ダイニングテーブルの中央にあるARプロジェクターが軽快な起動音を鳴らした。光の粒子が収束し、見慣れた二人の男の姿が浮かび上がる。
南半球に住む、父の英明と祖父の隼人だ。
『おお、繋がったか。……って、おい』
画面越しの英明は、同じテーブルに玲子、芽衣、そしてタケルの三人が物理的に並んで座っている光景を見て、目を丸くした。
『タケル、お前、ようやく母さんたちのところに着いたんだな……』
「親父、じいちゃん。ああ、無事に合流できたよ。今、初めて一緒に飯を食ってるところだ」
玲子と芽衣も、ARの画面に向かって「英明さん、お義父さん、こんばんは」「お父さん、お兄ちゃん本当に大きいよ!」と嬉しそうに手を振る。
その光景を見た英明は、少しだけ目尻を下げ、どこか羨ましそうに息を吐いた。
『……そうか。やっぱり、生身の家族が揃うってのは、いいもんだな。俺もそっちに行きたくなっちまうよ』
『全くだ。玲子さん、芽衣、ワシたちの孫をよろしく頼むぞ』
隼人も目を細め、深く頷く。南の男たちにとって、北の家族に直接触れられるタケルの存在は希望であり、同時にどうしようもない羨望の対象でもあった。
画面越しの父親と祖父の言葉に、タケルは胸の奥が温かくなるのを感じながら、「絶対に二人もこっちに呼ぶからな」と強く心に誓ったのだった。
+++
その日の深夜。
タケルは割り当てられた部屋のベッドで寝返りを打ち、ふうっと息を吐いた。
高度に自動化された北半球の夜は、あまりにも静かすぎた。南半球の荒々しい風の音や、遠くで稼働する重機の音が聞こえないことに、体がまだ慣れていない。
喉の渇きを覚えたタケルは、水を飲もうとベッドを抜け出し、静かに部屋のドアを開けた。
薄暗い廊下に出た、まさにその瞬間だった。
向かいにある洗面所のドアがガチャリと開き、一人の少女が飛び出してきた。
お風呂上がりの、芽衣だった。
「ふう、いいお湯だったー……って、え?」
芽衣の姿を見た瞬間、タケルは全身の血が逆流するのを感じた。
彼女は、バスタオルを一枚だけ胸元に巻いた、ほぼ全裸に近い無防備な姿だったのだ。濡れた髪からは水滴が滴り、上気した白い肌からは、ほんのり甘いオレンジのようなシャンプーの香りが湯気とともに立ち昇っている。
そして芽衣もまた、目の前に突如として現れた巨大な障害物に息を呑んだ。
自分より頭一つ以上も背が高い、引き締まった体躯のリアルな兄。南半球の環境で育ったオスのフェロモンと、生身の男から発せられる圧倒的な熱量が、ゼロ距離で芽衣を直撃したのだ。
「あ……」
「お、お前……っ」
二人は完全にフリーズし、お互いの目を見つめ合った。
以前、AR越しに下着姿を見られた時は「バカ兄貴!」と怒鳴り散らしていた芽衣だったが、今回は状況が全く違う。画面の向こうの光の粒子ではない。手を伸ばせば届く、物理的に触れられる空間に、男の人がいるのだ。
「ひゃ、ひゃあああああああああっ!?」
数秒の沈黙の後、芽衣は大パニックを起こして悲鳴を上げた。
「な、なんで廊下にいるのよお兄ちゃん! 生身はダメ! 近すぎるっ!」
「お前がそんな格好でウロウロしてるからだろ! 早く服着ろよ!」
顔を真っ赤にしてバスタオルをギュッと握りしめた芽衣は、タケルの野性味あふれる肉体にドギマギし、足をもつれさせながら猛ダッシュで自室へと逃げ込んでいった。
バタンッ! と勢いよくドアが閉まる音が廊下に響き渡る。
「……心臓に悪いっての」
残されたタケルは、廊下に漂う甘い香りに頭を抱えながら、北半球での前途多難な同居生活の始まりを痛感していた。




