第14話 母の待つ家
ブラジルでの一週間に及ぶ検査を終え、赤道直下の旧ブラジル地区、北南調整調和委員会の本部ビルを後にしてから、数時間が経過していた。
極東アジア地区の日本へと向かう北半球政府の超音速専用機の中で、御手宮タケルは深く、深い溜め息をつきながら、ふかふかのシートにぐったりと身体を沈めていた。
目の下にはうっすらとクマができ、健康的に日焼けした顔は心なしかゲッソリとやつれている。
「……生きて、日本に着けそうだな」
窓の外の雲海を眺めながら、タケルはポツリと呟いた。
壁をすり抜けて北半球へ足を踏み入れてからのこの一週間は、タケルにとってまさに地獄、いいや極限の羞恥プレイの連続だった。
特級遺伝子および抗体研究のチーフディレクターである霧島理沙の主導のもと、タケルは連日のように「医学的検査」と称した過剰な接触を受けていたのだ。
『タケル君、ちょっと心拍数を上げたいから、私が耳元で囁くわね』
『筋肉の収縮を見るために、少し強めにハグさせてもらうわ。ええ、純粋に医学的なアプローチよ』
天才女医の理沙は、何かと理由をつけてはタケルに密着し、南半球の『生身の男』の反応を観察(という名の堪能)し続けていた。さらに、彼女が率いる女性研究員たちも隙あらばタケルの筋肉に触れようと群がってくるため、十七歳の純情な男子高校生であるタケルは、常に神経をすり減らしていたのである。
「お疲れ様、タケル君。基礎データの収集は完璧よ」
通路を挟んで隣の席に座る理沙が、手元のタブレット端末をスワイプしながらご機嫌な声で言った。スタイリッシュな白衣の下にタイトな服を着た彼女は、足を組み直し、セクシーな微笑みを浮かべる。
「ブラジルでの一週間で、あなたの身体の基本的なバイタルや細胞の反応はあらかた把握できたわ。でも、より高度な遺伝子解析や、壁の致死システムに対する抗体の研究には、私の本拠地である日本の施設が必要なの。だから、ここからが本番よ」
「……まだやるんですか。もう俺の身体の隅々まで見尽くしたじゃないですか」
タケルが恨めしそうに睨むと、理沙は「ふふっ」と艶っぽく笑った。
「医学の探求に終わりはないのよ。それに、南の男の子の反応はとっても新鮮で、研究のしがいがあるわ」
からかうような理沙の言葉に、タケルは再び深く溜め息をついた。
しかし、その顔には不思議と絶望感ばかりではない、微かな期待の色も混じっていた。
(いよいよ、日本だ……)
日本には、タケルが生まれてからずっと、AR(拡張現実)の画面越しにしか会ったことのない家族がいる。
母の玲子と、妹の芽衣だ。
物心ついた時から、タケルの食卓には常にプロジェクターから投影された二人の姿があった。笑い合い、喧嘩をし、共に時間を過ごしてきた大切な家族。しかし、彼女たちの姿はあくまで光の粒子であり、声はスピーカーから作られたものだった。
それが今日、ついに直接触れられる『本物』として目の前に現れるのだ。
「……生身の母さんたちって、どんな感じなんだろうな」
タケルは無意識に自分の大きな手を握り締め、心臓が高鳴るのを感じていた。
+++
専用機は、高度に自動化された日本の居住区に隣接するプライベートポートに滑り込むように着陸した。
タケルが機内から一歩外へ出ると、そこには旧ブラジルとも、もちろん南半球とも違う、静かで洗練された景色が広がっていた。塵一つ落ちていない真っ白な道路を、無人の清掃ドローンが音もなく滑っていく。空気に泥臭い匂いは一切なく、代わりにバイオプラントから漂う微かな花の香りが満ちていた。
「さあ、案内するわ。あなたのお母様、玲子さんのご自宅は、私の研究施設からもすぐ近くのエリアよ」
理沙と数人の政府の女性護衛官に囲まれながら、タケルは防弾ガラス張りの専用車に乗り込んだ。
車は滑るように静かな街を走り抜け、やがて白亜の巨大な高層マンションの前に停車した。厳重なセキュリティゲートをパスし、最上階に近い居住フロアへと上がる。
タケルの心臓は、エレベーターの階数表示が上がるたびに早鐘のように打ち鳴らされていた。
そして、ついに。
白く無機質な廊下の奥にある、一つのドアの前に到着した。表札には、見慣れた『御手宮』の文字が上品なフォントで記されている。
「ここよ」
理沙が目配せすると、護衛官がドアのインターホンを押した。
ピンポーン、という電子音が静かな廊下に響き渡る。
わずかな沈黙。タケルは思わず息を止めた。
カチャリとドアのロックが外れる音がして、ゆっくりと重い扉が開かれた。
「……タケル?」
そこに立っていたのは、画面越しで何度も見た、穏やかな目元が特徴の三十八歳の女性だった。
しかし、ARの光の粒子とは違う。そこには確かな質量があり、床に落ちる影があり、そして、震えるような息遣いがあった。
タケルの母、御手宮玲子だ。




