2 用務員、状況を教えてもらう。
――桜の木から落ちたら、そこは異世界でした。
そんな言葉が頭に浮かんでしまうくらい、透は呆然としていた。
一体全体何が起きたというのだ。まるで分からない。
突風に煽られ木から落ちたら、見たこともない場所で、アニメやゲームに登場するような姿をした者たちに囲まれている。
(夢?)
そう思って頬をつねってはみたが痛いだけだ。
もっとも落下した時点ですでに、尻を強かに打ち付けた痛みは感じていた。
(いや、これだけ痛いなら、夢じゃないですよねぇ……)
とりあえず落ち着こう。そう思った透は、床に座ったまま、腕の中で大人しくしている子猫を撫でた。
「これ何なんでしょ……」
「みい」
「ですよね、困りますよねぇ……」
訳の分からない状況で、唯一何だか分かっている腕の中の子猫だけが、透の心のよりどころだ。
そう思いながら下を向いた時、
「……ん?」
ふと、透の目におかしなものが映った。
自分の腕だ。
日本人らしい肌色だったはずの透の腕。
それが何やら、エメラルドのような宝石の腕に変化しているのである。
「何これぇっ!?」
ずれた眼鏡もそのままに、透はぎょっと目を剥いた。
「いやいやいや、何!? 僕の腕、変なことになってません!?」
大慌てで手を動かす透。
けれども、透の心配をよそに、彼の腕は指先まで何の問題もなく動いた。
「あ、動いた。とりあえず問題はなさそう……?」
視覚的には問題が大アリだが、しかし、とりあえずの意味で透が安堵していると、
「あれ、誰だ?」
「何か変なところから出てきたわよ……」
その場にいる者たちがようやく我に返り、ざわざわとし始めた。
「ふむ……なるほど、なるほど。これは少々面白いことになったの」
そうしていると、すぐ近くに立っていた子供――ノアが、手に持っていた杖の先端で、透の顎をくいと持ち上げた。
ルビーのような赤い瞳が、透を真っ直ぐに見下ろしている。
「其方、名前は何と言う?」
「…………」
「……そこのイケメン。其方じゃ、其方」
「あっ僕ですね! ええ、イケメンの長谷透です!」
ぼうっとしてしまっていたが、イケメンと呼ばれたら自分に違いない。
透は一瞬で理解すると、元気に名乗った。
するとノアが呆れた顔になる。
「こやつ、イケメンで反応しおったぞ」
「フフ……僕、顔だけは良いですからね!」
「だけ?」
「はい!」
自分の取り柄なので、と透は胸を張る。
「はあ……何とも奇妙な男じゃの。まぁ良い。では、ハセ・トールよ。ヴェルデ神に認められた其方を、今代の魔王に任じる」
気を取り直した様子で、ノアがそう告げた。
すると周りからは、まばらに拍手が起こり始める。
「……何ですって?」
◇ ◇ ◇
状況がよく呑み込めないまま、ひとまず場所を移動することになった透は、ノアに連れられてこの場所こと『魔王城』の客間へと移動した。
「…………」
ちなみに、同行者はもう一人いる。ルイという名前の黒髪の少女だ。
移動中ずっと、彼女の怒りの視線が透の背中にチクチクと刺さる。
そうして客間に到着し、それぞれ席に着くと、ノアが話をし始めた。
「先ほど我らは、ルイの魔王就任の儀式中だったのじゃよ。ああ、魔王と言っても分からんか」
「あ、いえ、大体のイメージは分かります。王様……ですよね?」
「ふむ、その通りじゃ。なるほど、そちらの世界でも通じる要素はあるのか、面白いのう」
ノアは腕を組み、興味深々といった様子でうなづく。
「其方の世界にも魔王がおるのか?」
「いいえ。僕の世界では架空の人物ですよ。悪く書かれることの方が多いですけれど……」
「何だと!?」
ルイがテーブルを叩き、立ち上がる。
「貴様、魔王が悪とはどういうことだ! 侮辱にもほどがあるぞ!」
「ああ、いや、すみません。創作の話で……」
「創作上だとしても、魔王を悪く描くなどあり得ぬぞ! 貴様……よほど死にたいようだな……!」
「いえ、そんなことはまったく!」
透は大慌てで首を横に振って否定した。
しかしルイの怒りは収まる様子がなく、むしろ燃え上がっている。
炎上。嫌な単語が透の頭に浮かび、サッと青ざめた。
(これだから言葉には、十分気を付けないといけないのが分かっていたのに……!)
インターネットが生まれた時からそばにあって、成長と共に触れてきた世代だからこそ、言葉の選択が大事なものであることは透も承知していたはずだった。実際に、雇われた高校で働く際にも、学生たちと接する上での注意点として、耳にたこができるくらいに、何度も何度も説明されている。
(それなのに、この体たらく……!)
異常事態の連続に、思考回路が綿毛のようにふわふわしてしまったようだ。
透はバッと立ち上がると、子猫をテーブルの上にそっと置いてから、その場に勢いよく土下座をした。
「大変申し訳ありませんでした!」
「なっ!? 何をしているのだ、貴様!? あと何だ、その珍妙なポーズは!」
「うちの故郷で最上級の謝罪作法です!」
「んなっ!?」
透が正直に答えれば、ルイは露骨に動揺した声を出し、オロオロし始める。
「いっ、いや! その、私は……そこまでせよとは……あの、その……えっと……」
「まったく、ルイよ。場の収め方も分からぬような怒りのぶつけ方をするでないと、いつも教えているじゃろうに」
ノアはため息を吐くと、自らも椅子から立ち上がり、透の方へと近寄ってくる。
そして彼は膝をつき、透の肩に手を置いた。
「すまぬな、トール。其方が謝罪する必要などない。どうか顔を上げておくれ」
「いえ、僕が考えなしでした。この年になっても、まったく学んでいない」
透は首を横に振ると、改めてルイの方を見上げて、もう一度頭を下げる。
「ルイさん、ご不快にさせてしまい、申し訳ありませんでした」
そんな透を見たルイは目を大きく見開いた。
「わ、私も、カッとなってしまって、申し訳なかった……」
として深々と頭を下げる。
「よしよし、ルイ。謝れてえらいのう」
それを見て、ノアが立ち上がり、ルイの頭を撫でた。
まるで祖父母が孫にするような、柔らかい声色だ。
「よ、よしてください、ノア様! 他人の前で!」
「なんじゃ、昔は喜んでくれたんじゃがのう」
「わ、私はもう成人しておりますっ!」
ルイが真っ赤になって距離を取る。
それを見てノアはくつくつと笑って、自分の席へ戻った。
(仲が良さそうですねぇ)
何となく微笑ましさを覚えながら、透も自分の席へと戻った。
少し遅れて、ルイも同じように座る。
二人が落ち着いたのを見て、ノアが先ほどの続きを話し始めた。
「それで話を戻すが、ルイが魔王に就任するちょうどのタイミングで、其方が現れたのじゃよ。そして何故かヴェルデ神がそれを認めた」
「ヴェルデ神……さっきの、空中に浮かんでいた、ちょっと尊大なあの人ですか?」
「神に対して失礼だぞ、貴様。雷でも落とされたいのか?」
「ふふふ、あの面倒くさがりが、多少馬鹿にされた程度でやっては来ぬさ。……まぁ、そんな経緯で、其方が魔王に選ばれたというわけじゃ」
「はぁ……それはもう、本当にお邪魔をしてしまって……」
透は、ちらり、とルイを見る。
ルイは怒りこそ収まったものの、複雑そうな表情をしている。
当然の反応だろう。本来であれば彼女が魔王に就任するはずだったのだ。
それなのに、突然どこの馬の骨とも分からない男が現れて、横から掻っ攫った形となってしまったのだ。
怒りもするし、複雑な気持ちにもなるだろう。
申し訳なさと共に、透の視線が下へ落ちる。すると自分の腕が目に入った。エメラルドのようになってしまった自分の左腕だ。
「……ちなみに、僕の腕がこうなったのって、その儀式が関係しているんですか?」
透は左腕を持ち上げてノアに訊ねる。
「ああ、魔王就任の影響じゃな。あの儀式を経て魔王となった者には、ヴェルデ神から、魔王にふさわしい魔力が貸与される。其方の場合は……」
ノアは透をじっと見つめて、
「…………ふむ。魔力をまったく持っておらんかったようじゃな。体が魔力に慣れておらん。ヴェルデ神に貸与された魔力を体に慣らすために、一部が魔石に変化したんじゃろう」
「ませき?」
「魔力を帯びた石のことじゃな」
「ええと……つまり環境に適応したとかそういう感じですかね?」
「うむ」
「はー……なるほど。生き物の神秘ですねぇ。これって元に戻るんですか?」
「ああ。魔王でなくなれば、ヴェルデ神へ魔力が返還されて戻るじゃろうて」
「なるほど、良かった良かった。これじゃ学生さんたちにびっくりされちゃいますからねぇ」
透がほっと息を吐いていると、ノアが首を傾げた。
「学生? 其方、教師でもやっておったのか?」
「いえいえ、僕は用務員さんですよ」
「よーむいん?」
「学校の……えーっと、まぁ、掃除したり、点検をしたり、整備をしたり……まぁ、雑務全般をする仕事って感じですかね」
「何じゃ、魔王みたいな仕事をしとるの」
「えっそうなんですか?」
「うむうむ。少々心配じゃったが、任せても安心そうじゃのー」
ノアが呑気に笑うと、しばらく黙っていたルイがカッと目を見開いた。
「そこだけは納得がいかん! 私が緑の魔王を継ぐ予定だったのだ! それなのに、貴様のようなポッと出の異世界人に魔王の座を奪われるなど……我慢できん!」
「それについては申し訳なく……。ですが、急に違う世界に呼ばれましたし……」
「そっ、それは……確かにそうだが……そもそも一体誰が何の目的で、貴様を召喚したのだ?」
「さてな。魔王城内では、魔王就任の儀以外で、そのような大掛かりな魔力が動いてはおらんかったと思うが……」
ノアが腕を組んで、思案するように目を細くする。
「……あのう、僕は元の世界に帰れるなら、魔王のお仕事は喜んで返上しますが……」
「な、何だと!? き、貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!? 魔王とは緑の領地で、もっとも誇らしい称号なのだぞ!」
「そう言われても、僕、この世界のこと何も知りませんし……。それに僕にとってもっとも誇らしい称号は用務員さんなので、早く元の世界へ戻って、ちゃんと仕事がしたいんです」
胸に手を当てて、透ははっきりとそう言い切った。
透にとってやり甲斐のある仕事も、誇らしいと思える仕事も「用務員」なのだ。
だからこそ、できれば早く全部元通りにして元の世界へ戻りたい――それが透の本音である。
透の宣言を聞いたルイは、先ほどよりも大きく目を見開いたかと思ったら、ぷるぷると震え出した。
そしてバッと手で口を覆うと、
「き、貴様……なかなか、イイ奴じゃないか……」
震える声でそう言った。
心なしか目が潤んでいるような気がする。
「フッ、顔と性格が良いので評判なのがこの僕です!」
しかし次に放った台詞で、胡乱な目に代わってしまった。
ルイだけではなくノアもである。
「本当か?」
「自分で言う?」
「だって顔が良いでしょう?」
「まぁ、それはそうだが……」
透は「解せぬ」と思ったが、ひとまず美醜の感覚は、こちらでも一緒のようだ。
ちなみに性格云々については、完全に自称である。
「顔やら性格やらの話は横に置いておいて……確かに今回は、事故のようなものじゃったしな。魔王を譲りたいと言うならば構わぬぞ。本来であれば、魔王を辞めるのは死ぬときだけじゃが……」
「ひい、物騒!」
「他に方法がないわけでもない。どれ、我も手伝ってやろう」
「いいんですか?」
「暇じゃからの」
ノアはにっこりと笑って頷く。
するとルイも「私も」と右手を真っ直ぐに挙げた。
「……ノア様がそう仰るのならば、私も手伝ってやろうではないか。だ、だが、勘違いするなよ! 魔王の座を取り戻すためだからな!」
少々顔を赤くしつつ言うルイを、ノアが微笑ましそうに眺める。
「ありがとうございます、助かります! よろしくお願いします!」
そんな二人の顔を交互に見ながら、透もまた笑顔を浮かべ、頭を下げたのだった。




