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第1話 白い夢

これは、まだ何も知らなかった頃の話。


奇妙な事件も。

魂のカードも。

これから出会う人たちのことも。


すべては、この白い夢から始まった。


白い。


どこまでも、白かった。


天井もない。


壁もない。


床さえあるのか分からない。


空手家パパは、果ての見えない真っ白な世界に立っていた。


「……ん?」


足元を見ても、自分の足が白の中に溶けているようで、どうにも距離感がおかしい。


夢。


そう思うには、妙に意識がはっきりしていた。


ついさっきまで宿の布団で眠っていたはずだ。


いや――。


その前にあったことを思い出す。


存在しないはずの404号室。


助けを求めていた少女。


消えてしまった部屋。


そして、掌に残った一枚のカード。


「……また何か始まった?」


嫌な予感しかしない。


そのときだった。


白の向こうに、人影が現れた。


ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。


白い。


背景が白いからではない。


その人影そのものが、淡い光をまとっている。


人間のように見える。


けれど――普通ではない。


隣を見る。


あの404号室からずっと一緒にいる、手のひらより少し大きな精霊もそこにいた。


いつもなら勝手に飛び回っている彼女が、今日は妙に静かだった。


じっと、その白い人影を見ている。


やがて、人影が口を開いた。


「怖かったでしょう」


穏やかな声だった。


「それでもあなたは、404号室であの子を置いていかなかった」


空手家パパの背筋が伸びる。


なぜ、それを知っている。


人影は静かに続けた。


「あなたに、助けてほしい人がいます」


空手家パパは数秒、その人物を見つめた。


そして。


「あわわわわ!」


白い世界に声が響いた。


「だれですか!? 白いんですけど! 拉致ですか!?」


人影が瞬きをした。


明らかに想定外の反応だったらしい。


それから、ほんの少し笑った。


「……拉致ではありません」


「ほんとですか?」


「はい。ここはあなたの夢です」


「夢?」


「ええ」


人影は自分の身体を見下ろした。


「白いのは……まあ、否定しませんが」


そこで空手家パパは気づいた。


精霊がいない。


いや。


いた。


自分の袖の陰から、小さな顔だけが出ている。


隠れている。


明らかに隠れている。


「…………」


空手家パパはもう一度、白い人影を見る。


夢。


そうだ。


これは夢だ。


「……あ、はい」


自分に言い聞かせるように頷く。


「これは夢。これはゆめゆめゆめゆめ」


「ええ。夢です」


人影は、安心させるように少し距離を取った。


「404号室で、怖くてもあの子のために踏み込んだこと……私は、とても尊いことだと思っています」


その言葉に嘘があるようには聞こえなかった。


ただ、褒められることには慣れていない。


ましてや夢の中で、正体不明の白い人に褒められる経験などもっとない。


「だからいつか――あなたに、力を貸してほしいのです」


また、その言葉。


助けてほしい人がいる。


空手家パパは首を傾げた。


「えっと……」


まず確認すべきことがある。


「助けるのは、誰をですか?」


白い人影がこちらを見る。


「おばけに絡まれてる私をまず助けてほしいんですけど……」


一拍。


「……いや、何でもないです」


人影は少しだけ困ったように笑った。


「……おばけ。ああ、404号室の」


どうやら通じた。


「私は天使です」


さらっと、とんでもないことを言った。


「少なくとも、あなたの言う『おばけ』とは少し違いますよ」


「天使……?」


空手家パパは袖を見る。


小さな精霊が、さらに深く隠れた。


そして聞こえるか聞こえないかの声で、


「……ほんとだよ」


と言った。


知っている。


絶対なんか知っている。


だが、天使は精霊を問い詰めることもなく、空手家パパへ視線を戻した。


「あの夜のことを、後悔していますか?」


その問いに、空手家パパは迷わなかった。


怖かった。


意味が分からなかった。


今だって、自分が何に巻き込まれているのかよく分かっていない。


けれど。


あの部屋には、子供がいた。


助けを求めていた。


それだけは確かだった。


「いや」


空手家パパは答えた。


「子供を助けれたんで、、よかったです」


天使はしばらく何も言わなかった。


やがて、その表情が柔らかくなる。


「……やはり、あなたに声をかけてよかった」


白い世界が揺らいだ。


遠くから朝靄が流れ込んでくるように、景色が薄くなっていく。


「いつか、その力を貸してください」


天使の輪郭も、光へ溶け始めた。


そのとき。


空手家パパは見た。


袖の陰から、精霊がそっと手を出した。


小さく。


本当に小さく。


天使へ向かって手を振った。


天使も、それを見ていた。


何も言わない。


ただ、ほんのわずかに微笑んだように見えた。


そして――。


白が消えた。


***


ジリリリリリリリリ!


「うおっ!」


空手家パパは布団の上で飛び起きた。


宿の天井。


カーテンの隙間から差し込む朝の光。


枕元ではスマートフォンの目覚ましが鳴っている。


「……夢」


額を押さえる。


妙に鮮明だった。


白い世界。


天使。


そして――。


横を見る。


小さな精霊が、何食わぬ顔で座っていた。


空手家パパは目を細める。


「精霊さん」


びくっ。


「なんか知ってんの?」


精霊の目が泳いだ。


「……知ってるっていうかぁ……」


右を見る。


「見たことあるっていうかぁ……」


左を見る。


分かりやすい。


ものすごく分かりやすい。


「…………」


「…………」


しばらくの沈黙。


やがて精霊は観念したように、小さな胸を張った。


「わたし、リュミ」


「え?」


「名前」


初めて聞く、その名前。




「リュミ」


もう一度そう名乗ってから、彼女は窓の外へ視線を逸らした。


「あの人とは……昔、ちょっとだけね」


「ちょっと?」


「ちょっとは、ちょっと!」


それ以上は話す気がないらしい。


空手家パパは窓の外を見る。


いつもと変わらない朝だった。


車が走り、人が歩き、どこかで鳥が鳴いている。


なのに。


もう昨日までと同じ世界には見えなかった。


404号室は消えた。


少女は救えた。


夢の中では、天使を名乗る者が待っていた。


そしてそいつは言った。


――助けてほしい人がいる。


誰なのか。


どこにいるのか。


何から助けるのか。


何一つ分からない。


空手家パパは小さく息を吐いた。


ただ一つだけ。


もしまた、目の前に助けを求める誰かが現れたなら。


そのとき自分がどうするかだけは、もう分かっていた。


枕元で、魂カードが微かに光った。


そしてリュミは、それを黙って見つめていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

すべては、この白い夢から始まります。

空手家パパの創作や、『Butler』についての制作記録などはnoteでも公開しています。

▼ 空手家パパのnote

https://note.com/gentle_curlew322/n/n4e46d54e3fb2


次話「消えた404号室」へ続きます。


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