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第0話 消えた404号室

旅の途中、見知らぬ住宅街へ迷い込んだ空手家パパ。


ポケットには、いつの間にか手にしていた一枚のカード。

そして傍らには、彼にしか見えない小さな精霊。


カードに浮かんだ数字は――「404」。


ここから、彼の奇妙な旅が始まる。


深夜。


空手家パパは、旅先の小さな道場で稽古を終え、一人、宿への道を歩いていた。


四十二歳。


若い頃から各地の道場を巡り、流派にこだわらず技を学んできた。


彼が求めてきたものは、華麗な技でも、勝つためだけの強さでもない。


――生きて帰るための空手。


旅を続ける今も、その考えは変わっていない。


ふとスマートフォンを見る。


画面には、離れて暮らす息子の写真。


「……元気にしてっかな」


そのときだった。


「ねえ」


背後から、小さな声がした。


振り返る。


誰もいない。


いや。


いた。


手のひらより少し大きな少女が、宙に浮いていた。


背中には透明な虫のような羽根。


羽ばたくたび、淡い光の粒が夜の中へこぼれていく。


少女は一枚のカードを差し出した。


挿絵(By みてみん)





「これ、あなたのだよ」


「……俺の?」


「うん。ずっと前から」


わけが分からない。


だが、なぜか受け取ってしまった。


カードの表面に文字が浮かぶ。


空手家パパ


★☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


特殊能力:《光》


「…………」


嫌な予感しかしない。


―――


午後十時四十七分。


気がつくと、空手家パパは見覚えのない住宅街を歩いていた。


妙なことに、目的地だけは分かっている。


夕凪ハイツ。


そこへ向かっている。


なのに。


「……なんで俺、そこに行くんだ?」


思い出せない。


ポケットの中で何かが震えた。


先ほどのカードだった。


取り出すと、その表面に見覚えのない数字が浮かび上がっている。


404


顔を上げた。


道の先に、古びたマンションがある。


街灯に照らされた看板。


『夕凪ハイツ』


空手家パパは立ち止まった。


そして思った。


――帰りたい。


とても帰りたい。


空手は好きだ。


殴ってくる人間なら、まだいい。


しかし魑魅魍魎だの、幽霊だの、そういうものは好きではない。


「……帰ろ」


周囲を見回す。


先ほどの小さな少女は、当然のように肩の横をふわふわ飛んでいた。


「いるよ?」


「いるのね……」


そのとき。


トン……トン……


マンションから音がした。


集合ポスト脇の配管。


空手家パパの顔が引きつる。


「こわっ! 精霊さん、今のなんですか?」


少女は夕凪ハイツを見つめた。


「んー……わかんない! でも、何かいるのは分かるよ!」


まったく安心できない。


もう一度、音がした。


トン……トン……


恐る恐る配管へ近づく。


空手家パパは指先で叩いた。


コン、コン。


一拍。


沈黙。


そして。


上の階から。


コン、コン。


同じ間隔で返ってきた。


「…………」


マンションの奥から白髪の老人が顔を出した。


「……今の、あんたか?」


「あ、すいません。旅の空手家の空手家パパと申します」


「旅の空手家……?」


「なんか上の方で音がするんですけど」


老人は怪訝な顔をしながら配管へ手を当てた。


「確かに俺にも聞こえた」


しばらく振動を確かめる。


そして天井を見上げた。


「……四階か? でも、あそこに子供なんて……」


トン、トン、トン。


老人の手の下で、配管が三回鳴った。


空手家パパは即決した。


「こわいので、お暇します。さようなら」


「お、おう……気をつけてな」


夕凪ハイツに背を向ける。


帰ろう。


こういうものには関わらない。


十数歩進んだ。


「……あれ?」


背後で老人の声。


「おい! あんた!」


見たくない。


ものすごく見たくない。


それでも空手家パパは、ゆっくり振り返った。


老人が四階を見上げている。


仕方なく、その視線を追った。


四階。


端から数えて四つ目の窓。


灯りのない真っ暗な窓の向こうに――


小さな子供らしき影が立っていた。


「こわっ!」


老人も震えていた。


「……誰だ、あれ」


影が、ゆっくり腕を上げる。


こちらへ手を伸ばした。


空手家パパは老人を見る。


「管理人さん、見に行ってください!」


「俺が!? ……いや、まあ管理人だけどよぉ」


老人は露骨に嫌そうな顔をした。


それでも鍵束を握る。


「あんたも来いよ! 一人は絶対イヤだからな!」


その瞬間。


チン。


誰も呼んでいないエレベーターが開いた。


表示は――


4


「…………」


帰りたい。


しかし、なぜか乗ってしまった。


管理人も慌てて滑り込む。


「待て待て! 置いてくな!」


扉が閉まる。


ボタンには誰も触れていない。


それでもエレベーターは上昇した。


チン――


四階。


扉が開く。


薄暗い廊下。


403号室。


そして405号室。


その間の壁から。


「……だれかいるの?」


幼い声がした。


「おば……」


空手家パパの身体が固まる。


「おば、おば、おばおば……」


管理人が二度見した。


「……空手家って、こういう時に強いんじゃないのか?」


答えられない。


コン。


壁が鳴った。


コン。コン。


小さな手が、壁の内側から叩いているようだった。


挿絵(By みてみん)






「……ねえ。そこにいるんでしょ?」


返事ができない。


すると403と405の間。


何もなかった壁に、細い縦線が走った。


ゆっくりと扉の輪郭が現れていく。


中央には錆びた数字。


404


「精霊さん、私には無理無理!! あなたが見てきてー!」


「いいよー!」


精霊はあっさり飛んでいった。


淡い光の粒を残しながら、扉へ。


そして――


ぼよんっ!


「わっ!」


見えない何かに弾かれ、くるくる回転して戻ってきた。


「入れない!」


その直後。


扉の向こうから声がした。


「……お父さん?」


空手家パパの表情が変わった。


「息子?」


恐怖が吹き飛んだ。


「え? ここに息子がいるの!? どしたー!? なんかあったんか!?」


勢いよく404号室を開けた。


飛び込む。


古びた子供部屋。


そこに立っていたのは――息子ではなかった。


見知らぬ少女。


身体の輪郭が薄く透けている。


少女は空手家パパを見上げた。


「……お父さんじゃ、ない……」


「息子……でもない……」


そのとき。


少女の奥。


部屋の隅から。


ずる……


何かを引きずる音。


「精霊さん、なんか音するんですけどー」


扉の外から精霊が覗き込む。


「うん、聞こえる! でも……何も見えないよ!」


ずる……ずる……


音が少女の背後へ移った。


ポケットのカードが熱を帯びる。


《光》


その文字だけが輝いていた。


「カード何とかしてー!」


「カード? それ、空手家パパのだよ! 私じゃ使えないよー!」


「ええい! 何とかしろ!」


カードを握りしめた。


瞬間。


白い光が爆発した。


部屋の隅。


今まで、なぜか視線を向けられなかった場所まで光が届く。


そこに――いた。


影とも人ともつかない、平べったい黒い何か。


壁に張りつき、光を嫌うように蠢いている。


その身体が少女へ伸びた。


「いた!」


精霊が叫ぶ。


黒い何かが少女の足へ絡みついた。


空手家パパの顔から、恐怖が消えた。


「子供に何してるんじゃい!」


踏み込む。


少女と怪物の間へ身体を入れる。


――怖い。


もちろん怖い。


だが。


相手が子供を傷つけようとしている。


ならば話は別だ。


呼吸を整える。


これまで積み重ねてきた稽古が、身体を平静へ戻していく。


顔面へ突きを放つ。


黒い輪郭が反応した。


――フェイント。


そのまま懐へ潜る。


掴む。


重心を崩す。


そして。


ズンッ!!


膝蹴りを胴へ叩き込んだ。


黒い身体が壁から剥がれる。


少女の足が解放された。


だが怪物は倒れない。


床へ溶け、背後へ回る。


黒い腕が《光》を持つ空手家パパの腕へ絡みついた。


――掴んできた。


ならば。


「むしろ良い!」


力に逆らわない。


接点を作る。


足裏を定める。


相手の引く方向へ身体を合わせる。


合気。


崩す。


投げる。


黒い身体が宙へ浮いた。


完全には投げ切れない。


肩を黒い腕が抉った。


痛みが走る。


それでも少女から怪物を引き離すことには成功した。


「管理人さん! 少女を頼む!」


「俺がぁ!? ……分かった!」


管理人が少女へ走る。


空手家パパは怪物を追う。


拳を放つ。


黒い輪郭を掠めた。


影が弾かれる。


しかし、部屋の半分が闇へ沈んだ。


その闇が出口へ走る。


管理人の足へ絡みついた。


「うわっ!」


老人が倒れる。


少女と出口の間へ黒い壁が立ち上がった。


空手家パパの中で、何かが切れた。


「子供に何してくれてんじゃい!」


カードを掲げる。


《光》が怪物を照らした。


逃げ場を奪う。


腰を落とす。


肩の力を抜く。


拳を引く。


そして。


真正面から。


正拳突き。


挿絵(By みてみん)





ドンッ!!


拳が黒い身体の中心を貫いた。


黒い壁が震える。


少女から。


管理人から。


剥がれていく。


やがて紙を焼くように崩れ、床へ散った。


静寂。


空手家パパは荒い息を整えた。


管理人は少女を庇うように座り込んでいる。


「……この子……俺、知ってる気がする」


少女の身体は、まだ透けていた。


空手家パパは恐る恐る尋ねる。


「き、きみって……ゆ、ゆ、ゆうれい何で、しょうか??」


戦いが終わった途端、また怖くなった。


少女は自分の手を見た。


「……ゆうれい、なのかな。わかんない」


精霊が空手家パパの横へ飛んでくる。


そして少女を見て、明るく言った。


「この子、魂だけなら私たちの側へ移せるよ!」


「え?」


「カードにしてあげよう! そうすればここから出られる!」


空手家パパは少女を見る。


「カードになるのは……痛くないの?」


精霊は迷わず答えた。


「痛くないよ! この子の魂を、ここじゃないところへ移してあげるの!」


少女が空手家パパを見る。


「……ここから、出られるの?」


404号室の壁に亀裂が走った。


天井から埃が落ちる。


時間がない。


空手家パパは精霊を見た。


「カードにしてー、精霊さーん」


「うん! 任せて!」


精霊が両手を広げる。


少女の身体が淡い光の粒へ変わっていく。


怖がる様子はなかった。


少女は、ほんの少し笑った。


挿絵(By みてみん)





「……外、行けるんだね」


光が集まる。


一枚の、小さなカードになった。


精霊がそれを空手家パパの掌へ置く。


温かかった。


「ちゃんと助けられたね!」


その瞬間。


404号室が激しく軋んだ。


「ここ、崩れるぞ! 出るぞ!」


管理人の声。


三人は部屋を飛び出した。


振り返る。


404号室の扉が、ゆっくり薄れていく。


そして――消えた。


403号室。


壁。


405号室。


それだけになった。


管理人は長い間、その壁を見つめていた。


「……今度は、忘れちゃいけない気がする」


空手家パパの掌には、一枚のカード。


あの少女が確かに存在していた証だけが残っていた。


その夜。


宿へ戻った空手家パパは、深い眠りに落ちた。


夢を見た。


果てのない、真っ白な場所。


遠くに誰かが立っている。


その人物が穏やかに言った。


「怖かったでしょう」


空手家パパは否定できない。


死ぬほど怖かった。


「それでも、あの子を置いていかなかった」


白い世界に声が響く。


そして。


「あなたに、助けてほしい人がいます」



――目が覚めた。


朝。


枕元では、あの小さな精霊が眠っている。


空手家パパはしばらく天井を眺めた。


幽霊は嫌いだ。


怪異も嫌いだ。


できれば二度と会いたくない。


たぶん次に同じことが起きても、最初は逃げようとするだろう。


それでも。


子供が泣いていたら。


誰かが助けを求めていたら。


結局、自分はまた戻ってしまうのかもしれない。


空手家パパは、小さく息を吐いた。


旅は、まだ続く。


そして彼はまだ知らない。


あの夜に受け取った一枚のカードが、これからどれほど奇妙な世界へ自分を連れていくのかを。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


実はこの物語、最初から筋書きが決まっていたわけではありません。


AIゲームマスターと遊ぶTRPG「BUTLER」で、私自身がプレイヤーとして選択した行動をもとに小説化したものです。


怪異を前に「怖いので帰ります」と逃げようとしたのも、

「精霊さん、見てきてー!」と丸投げしたのも、

子供が襲われた瞬間に「子供に何してるんじゃい!」と戦い始めたのも、実際のプレイで起きたこと。


プレイヤーの選択から生まれた物語を、小説としてお届けしていきます。


次回、第1話へ続きます。

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