第十六話 うちの座敷童が家出しました
夕方。
旅先の古い商店街を、空手家パパは一人歩いていた。
西の空には、まだ少しだけ橙色が残っている。
夕飯の買い物をする人。
店じまいを始める八百屋。
自転車で帰っていく学生。
一日の終わりへ向かって、商店街がゆっくりと静かになり始める時間だった。
「いやー、腹減ったなぁ」
空手家パパは腹をさすった。
今日の夕飯は何にしよう。
せっかく知らない町に来たのだから、地元の料理でも食べてみたい。
そんなことを考えながら歩いていると。
ブルッ。
胸元で何かが震えた。
「……ん?」
スマートフォンではない。
魂カードだった。
空手家パパは足を止める。
胸元から取り出した一枚のカードには、《光》の文字が刻まれている。
★2。
これまで何度も、面倒な事件へ巻き込んでくれた代物だ。
「またかよー……」
空手家パパは顔をしかめた。
最近、このカードが反応すると、ろくなことがない。
銀行へお金を下ろしに行けば強盗に遭遇し、地下施設で正体不明の白い人影と戦う羽目になった。
宇宙人に出会ったときだって、結局は大騒ぎだった。
「今日は平和に夕飯食べたいんですけどー」
カードに文句を言っても、返事はない。
ただ、かすかに震えている。
空手家パパは周囲を見回した。
すると。
少し先の自動販売機の前に、小さな女の子が立っているのが見えた。
七つか八つくらいだろうか。
赤い着物を着ている。
今どき珍しい格好だ。
少女は自動販売機の前で、何かを一生懸命に繰り返していた。
手の中の小さなものを投入口へ入れようとしているらしい。
だが、どうしても入らない。
「……ん?」
少女は首を傾げ、もう一度試す。
やっぱり入らない。
しまいには、自動販売機を不思議そうに見上げ始めた。
空手家パパは思わず笑った。
「お嬢ちゃん、どったのー?」
少女が振り返る。
大きな瞳が、空手家パパを見上げた。
「何か困ってるなら言ってごらん」
少女はじっとこちらを見つめている。
そこで空手家パパは、はたと気づいた。
見知らぬ中年男性が、夕暮れの商店街で小さな女の子に話しかけている。
これは、なかなか怪しい光景ではないだろうか。
「あ。おじさん、あやしくないからねー」
言ってから思った。
我ながら、言えば言うほど怪しい。
だが、少女は特に怖がる様子もなく、手のひらを開いてみせた。
そこにあったのは、一枚の古い硬貨だった。
真ん中に穴が開いている。
現代の自動販売機では、到底使えそうにない。
「これで、あれ飲みたいの」
少女は自動販売機を指さした。
「でも入らない。……おじさん、これ壊れてる?」
「古いお金だねえー」
空手家パパは笑った。
「自動販売機は壊れてないと思うよ。そのお金が使えないんだ」
「……使えないの?」
少女は硬貨を見つめた。
何だか、とても残念そうだった。
空手家パパは財布を取り出す。
「よし、おじさんが奢ってあげよう! どれ飲みたいの?」
「いいの!?」
「いいよー!」
少女の顔がぱっと明るくなった。
そして、自動販売機に並ぶ飲み物を、端から端まで真剣に眺め始めた。
お茶。
コーヒー。
炭酸飲料。
ジュース。
まるで初めて見るものばかりというように、一つ一つ確かめている。
やがて。
「これ!」
少女は赤い缶を指さした。
「いちご! 赤いから、たぶん甘い!」
「たぶんって」
空手家パパが笑う。
「まあ、いちごなら甘いだろうねえ」
硬貨を取り出し、投入口へ入れようとした。
そのときだった。
少女の赤い袖の向こうに、自動販売機の明かりが見えた。
「……ん?」
空手家パパの手が止まる。
気のせいだろうか。
少女の着物が、ほんの少し透けている。
いや。
着物だけではない。
腕の輪郭そのものが、妙に薄い。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
「いや……」
空手家パパは目を細める。
「なんか着物、透けてない?」
「え?」
少女が自分の袖を持ち上げた。
そして。
「……ほんとだ」
驚いたように呟いた。
「え、ほんとだって!?」
空手家パパは思わず聞き返した。
少女は腕を裏返したり、袖を引っ張ったりしている。
どうやら本人にも理由が分からないらしい。
少し離れた場所では、一匹の黒猫がこちらをじっと見ていた。
黄色い目。
艶のある黒い毛並み。
何だか妙に落ち着いた猫だった。
「……まあ、とりあえずジュースだね」
空手家パパは自動販売機にお金を入れた。
ボタンを押す。
ガコン。
苺ジュースが取り出し口へ落ちた。
「ほい」
缶を取り出し、少女へ差し出す。
「わあ! ありがとう、おじさん!」
少女は嬉しそうに両手を伸ばした。
そして。
その指先が――。
缶へ、沈んだ。
「……え?」
少女の手が、苺ジュースをすり抜けた。
ガコン。
缶が地面へ落ちる。
「……あれ?」
少女は慌ててしゃがみ込んだ。
もう一度、缶を拾おうとする。
しかし。
指が、すり抜けた。
何度やっても掴めない。
「……なんで?」
少女の声が震えた。
空手家パパは少女へ駆け寄った。
「うわー! なにこれ! 病気!? 大丈夫!?」
「わ、わかんない……」
少女は自分の手を見つめた。
指先が薄くなっている。
向こう側の石畳が、かすかに見えた。
「ええー!? どうしよう!?」
空手家パパも慌てた。
人間の身体が透ける病気なんて、聞いたことがない。
そもそも、これは病気なのか。
そんなことを考えていると。
「病気じゃねえと思うぞ」
低い声がした。
「え?」
空手家パパは振り返った。
誰もいない。
商店街の通りには、帰宅を急ぐ人がちらほらいるだけだ。
すぐ近くにいるのは、さっきの黒猫だけ。
「…………」
黒猫と目が合った。
「何だ、その顔」
「…………」
「おい」
「猫が喋った!!」
空手家パパが叫んだ。
「そこかよ!」
黒猫が尻尾を逆立てた。
「こわっ!」
「俺よりそっちを心配しろ!」
黒猫は少女を顎で示した。
「座敷童が透け始めてんだぞ!」
「……座敷童?」
空手家パパは少女を見た。
赤い着物。
古い硬貨。
そして、透け始めた身体。
確かに、普通の子供ではなさそうだ。
だが。
「……え、座敷童って本当にいるの?」
「今さらそこからかよ!」
黒猫の突っ込みが商店街に響いた。
少女は二人のやり取りを見ながら、もう一度、自分の手を見つめた。
その顔から、さっきまでの笑顔が消えている。
「……私」
小さな声だった。
「私、消えちゃうの?」
黒猫は答えなかった。
空手家パパも、さすがに笑えなくなった。
少女の手は、先ほどより確かに薄くなっている。
「……ねこさん」
空手家パパは黒猫へ向き直った。
「原因わかる?」
「分からん」
黒猫は即答した。
「ただ、こいつはずっと藤原の家にいた。こんなところまで一人で出てきたのは、俺が知る限り初めてだ」
「家から離れたせい?」
「だから分からんっつってんだろ」
「ですよねー」
空手家パパは頭を掻いた。
少女はじっと自分の手を見つめている。
空手家パパはしゃがみ込み、少女と目線を合わせた。
「大丈夫」
「……ほんと?」
「うん。まだ原因は分かんないけど、何とかする方法を探そう」
少女は小さく頷いた。
空手家パパは立ち上がる。
こういうものに詳しそうな人間を、一人だけ知っていた。
スマートフォンを取り出す。
「ちょっと待ってね。知り合いに聞いてみるから」
連絡先を開き、電話をかけた。
数回の呼び出し音。
そして。
『……はい、雨宮です』
「あ、雨宮さん? ちょっと聞きたいんだけど」
『嫌な予感しかしませんが、どうぞ』
「座敷童子って、家から離れると消えたりする?」
電話の向こうが静かになった。
数秒。
『……今度は何を拾ったんです?』
「拾ってないよ! 女の子!」
『その言い方はもっと駄目です』
「違う違う! 赤い着物の女の子が透けてんの! あと喋る黒猫がいる!」
『…………』
「もしもし?」
『情報を一つずつお願いします』
雨宮の声には、すでに疲労が滲んでいた。
空手家パパは少女を見た。
赤い着物の小さな座敷童。
その向こうでは、商店街の店が一軒、また一軒と明かりを落としていく。
西の空に残っていた橙色も、いつの間にかほとんど消えていた。
そして。
少女の輪郭は、少しずつ薄くなっていた。
『……まず、その子が座敷童だとしても、家から離れたから消えるとは限りません』
雨宮の声が続く。
『土地なのか、人なのか、物なのか。それとも全く別の理由なのか。私には判断できません』
「うーん……」
空手家パパは少女を見る。
さっきまで苺ジュースを欲しがっていた小さな女の子。
その手はもう、缶を持つことさえできない。
時間だけが過ぎている。
「……とりあえず、何とかしないとな」
空手家パパは胸元に手を当てた。
そこには、もう一枚のカードがある。
魂カード《光》。
何度も面倒を起こしてきた、例のカードだ。
「……まさか、またお前の出番か?」
カードは何も答えない。
ただ。
かすかに、震えていた。




