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第十七話 座敷童、海へ行く

「……とりあえず、何とかしないとな」


空手家パパは腕を組んだ。


目の前には、赤い着物の少女。


座敷童。


その身体は、少しずつ透け始めている。


夕暮れの商店街。


店の明かりが一つ、また一つと消えていく。


時間は、あまりなさそうだった。


「うーん……」


空手家パパは少女を見つめた。


「家からのエネルギー不足??」


黒猫が呆れたように尻尾を振る。


「知らん」


「家から離れたせいで、力が足りなくなったとか?」


「だから分からんっつってんだろ」


「ですよねー」


空手家パパは頭を掻いた。


電話の向こうでは、雨宮がため息をついている。


『そもそも、家から離れたことが原因かどうかも不明です。安易に決めつけないでください』


「なるほどー」


『本当に分かっていますか?』


「わかんない!」


『でしょうね……』


空手家パパは胸元へ手を伸ばした。


魂カード《光》。


最近、何かと騒動の原因になっている一枚である。


「カードで力あげれない??」


『……何をするつもりですか?』


「いや、光ってエネルギーっぽいじゃん?」


『その理屈は危険です』


「ですよねー」


空手家パパは頷いた。


そして。


「それか私の血とか飲んだら回復しない? 妖怪だし」


「血はやめろ!」


黒猫がものすごく嫌そうな顔をした。


「妖怪を何だと思ってんだ、お前!」


「いらないよ!?」


少女も慌てて首を振った。


「おじさんの血こわい!」


「ええー!? そんな全力で拒否しなくても!」


『……お願いですから、怪異に血を飲ませるようなことはしないでください』


雨宮の声が、いつになく真剣だった。


「はーい」


空手家パパは素直に頷いた。


さすがに血を飲ませる案は却下である。


となれば。


「……やっぱりカードか」


胸元から魂カードを取り出した。


刻まれている能力は、《光》。


これまで何度も暴走してきた力。


銀行では、ついに正拳突きへ光を乗せることに成功した。


ならば、今度は。


「よし……これで力を――」


『待ってください! 能力の性質が分からないまま――』


雨宮が何か言いかけた。


しかし。


カードが輝いた。


「おおっ!」


白い光が、少女の身体を包み込む。


空手家パパは期待した。


これで少しでも元気になれば。


だが。


光は少女の身体を、そのまま通り抜けた。


「……え?」


少女も不思議そうに自分の胸元を見下ろす。


光は止まらない。


一本の筋となって、商店街の奥へ走っていった。


「なんだなんだ!?」


その直後。


ガシャーン!!


どこかでガラスの割れる音がした。


そして。


「……あれ?」


少女の声。


空手家パパが振り返る。


赤い着物の少女が、ほとんど透明になっていた。


向こう側の景色が、はっきりと見える。


「ええー!? ごめんー!!」


空手家パパは頭を抱えた。


「まじ使えねー呪いのカード!」


『何をしたんですか!?』


電話の向こうから雨宮の声が響く。


「なんか光が飛んでった! あと女の子がもっと透けた!」


『だから止めたのに!』


「ごめんなさーい! とりあえず光の先を調べてみる!」


『何か変化があったら、すぐ連絡してください』


「了解!」


空手家パパは通話を切った。


黒猫が、呆れたように見上げている。


「……お前、本当に大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃないから調べるんだよー!」


「開き直るな!」


「行くぞー!」


空手家パパは走り出した。


「だから勝手に走るな!」


黒猫が後を追う。


少女も小さな足でついてきた。


⸻


光の向かった先は、商店街の奥にある古い駄菓子屋だった。


すでにシャッターの一部が下ろされ、店内は薄暗い。


入口のそばには、割れたガラス瓶が散らばっていた。


どうやら、さっきの音はこれらしい。


「……あー、やっちゃった」


空手家パパは申し訳なさそうに呟いた。


「あとでお店の人に謝らないとなぁ」


だが、そのとき。


床に落ちている小さなものが目に入った。


古い巾着袋だった。


色褪せた布。


何度も使い込まれたような、柔らかな形。


その巾着が、かすかに光っている。


「……ん?」


空手家パパはしゃがみ込んだ。


「なんだこれ?」


すると。


「あ……!」


後ろから少女の声がした。


少女は巾着へ駆け寄り、そっと拾い上げた。


その瞬間だった。


薄くなっていた指先が、ほんの少しだけ濃くなった。


「おおっ!?」


空手家パパが目を丸くする。


「戻った!?」


「ちょっとだけだろ」


黒猫が冷静に突っ込む。


少女は巾着を胸に抱いた。


「これ、ミチコの」


「ミチコ?」


空手家パパは首を傾げた。


「うん。昔、ミチコと遊ぶときに使ってたの」


少女は巾着を撫でた。


「今日、おうちから持ってきた」


どうやら家を出るとき、一緒に持ち出したらしい。


そして、この駄菓子屋で落としてしまったのだ。


「なるほどー!」


空手家パパは腕を組んだ。


「つまり、この巾着が元気の素だったわけか!」


「まだそうと決まったわけじゃねえだろ」


黒猫が言った。


「ですよねー」


空手家パパは素直に頷いた。


だが、確かに変化はあった。


巾着を持った少女の指先は、さっきよりもはっきりしている。


「どういうこと!」


空手家パパは肩口へ叫んだ。


「つうかリュミさん! あんたカードの専門家なんだからもっと教えて!」


淡い光が弾けた。


小さな羽を持つ精霊が、空中に姿を現す。


「専門家ってほどじゃないってば!」


リュミは頬を膨らませた。


「じゃあ何が起きたの!?」


「うーん……」


リュミは巾着の周りを飛んだ。


「でも今の《光》、この子を治そうとしたんじゃなくて、この子と繋がってるものを照らしたみたい!」


「……ほう!」


空手家パパの目が輝いた。


「つまりミチコさんか家に何かあるってことか!」


「そうかもしれないけど、まだ分かんないよ!」


「なるほど!」


黒猫が口を開く。


「いや、まだそうと決まったわけじゃ――」


「わからんけど、とりあえず行ってみよう!」


「人の話を聞け!」


「合点承知!」


空手家パパは少女へ手を伸ばした。


「よし、座敷ちゃん! おうちに帰ろう!」


少女は小さく頷いた。


「……うん」


空手家パパは慎重に少女を抱き上げた。


巾着を握っている間は、どうやら身体に触れられるらしい。


しかし。


「……おっと」


腕の中で、少女の身体が少し沈む。


完全には実体が戻っていない。


それでも、まだ抱えることはできた。


「しっかり掴まってね!」


「うん!」


空手家パパは走り出した。


そして。


十数秒後。


交差点で止まった。


「…………」


黒猫が追いつく。


「合点承知じゃねえ!」


「……ん?」


「場所知らねえだろ!」


「あ」


空手家パパは立ち止まったまま、腕の中の少女を見た。


「座敷ちゃん、おうちどっち?」


少女が小さな指を伸ばす。


「あっち。おうち、あっちだよ」


「よし!」


空手家パパは再び走り出した。


「急ぐよー! 舌噛まないようにねー!」


「は、はいっ!」


夜へ変わり始めた町を駆ける。


濡れた石畳。


細い路地。


長い階段。


少女の身体が腕をすり抜けかけるたび、抱え直した。


「はやーーい!」


少女が歓声を上げる。


「おじさん、馬より速い!」


「比較対象が古い!」


空手家パパは笑った。


黒猫が必死に後を追う。


「おい! ちょっとは猫のことも考えろー!」


「頑張れー!」


「他人事か!」


商店街を抜ける頃には、西の空の橙色も消えていた。


街灯が一つ。


また一つと灯り始める。


そして。


やがて、大きな日本家屋が見えてきた。


古い木造の門。


手入れされた庭木。


長い年月を重ねてきたことが分かる、立派な家だった。


その門の前に、一人の女性が立っていた。


白髪の女性。


手には懐中電灯。


何かを探していたのだろう。


不安そうに辺りを見回している。


空手家パパたちの姿に気づくと、女性は目を見開いた。


そして。


「……チヨ?」


震える声がした。


空手家パパは駆け寄った。


「ミチコさんですか?」


「はい……」


「座敷ちゃんが消えかかってるんです! 助けてあげて!」


女性は少女へ駆け寄った。


「チヨ……!」


「ミチコ……」


二人が抱き合った。


その瞬間だった。


少女の身体に、ゆっくりと色が戻り始めた。


薄かった指。


足。


頬。


まるで薄い霧が晴れていくように、輪郭がはっきりしていく。


「……おおっ!」


空手家パパが声を上げた。


「戻ってる!」


「……ミチコ」


チヨは女性の胸元に顔を埋めた。


「あったかい」


「チヨ……よかった……」


ミチコは何度も少女の背中を撫でた。


しかし。


完全には戻らなかった。


チヨの指先は、まだ少し透けている。


ミチコもそれに気づいたらしい。


不安そうにチヨの手を見つめた。


そして、その手に握られた巾着にも目を留める。


「それ……まだ持っていてくれたの?」


チヨは小さく頷いた。


「うん」


ミチコは懐かしそうに巾着を見つめた。


「私が子供の頃、あなたと遊ぶときに使っていたものね」


チヨは大切そうに巾着を握り直した。


すると、指先がほんの少しだけ濃くなったように見えた。


だが、なぜそうなるのか。


誰にも分からなかった。


「さあ、おうちに入ろう」


ミチコがチヨの手を引いた。


けれど。


チヨは動かなかった。


「……チヨ?」


ミチコが振り返る。


少女は俯いていた。


「……私、まだ帰りたくない」


ミチコの手が止まった。


空手家パパも、黒猫も、リュミも。


誰もすぐには言葉を返せなかった。


やがて空手家パパは、チヨの前にしゃがみ込んだ。


「座敷ちゃん、何かしたいことがあるの?」


チヨは小さく頷いた。


そして、ぽつりと言った。


「……海、見たい」


「海?」


チヨは顔を上げた。


「水族館も。電車も乗りたい。コンビニっていうところも、もっと見たい」


一つ話すたびに、声が少しずつ大きくなる。


「私、一回も海見たことない」


その言葉に、空手家パパは目を丸くした。


「……一回も?」


チヨは頷いた。


「うん」


ミチコが静かに目を伏せた。


チヨは百五十年もの間、ほとんどこの家で暮らしてきたという。


家の中で遊ぶ。


家族の成長を見守る。


生まれてきた子供と仲良くなり、その子が大人になるのを見届ける。


それを、何度も繰り返してきた。


だが。


家の外には、知らない世界が広がっていた。


「……どうして今まで、外に出なかったの?」


空手家パパが尋ねた。


チヨは少し考えた。


「昔はね、おうちの中だけで楽しかったの」


ミチコを見上げる。


「ミチコと遊んだり、その前の子たちと遊んだり」


そして、二階の窓へ目を向けた。


「でもね、サキがいろんなもの見せてくれたの」


「サキ?」


「うん。テレビとか、ゲームとか」


チヨの瞳が輝く。


「海の中にお魚がいっぱい泳いでるの! 電車っていう大きな乗り物もあるんだよ!」


空手家パパは笑った。


「そうだねえ」


「それで、私も見てみたくなったの」


チヨは門の外を見た。


「ミチコも、サキも、みんな好き。でも……」


小さな手で巾着を握る。


「おうちにいるだけじゃなくて、外にも行ってみたい」


空手家パパは何も言わなかった。


少女が家出をした理由。


それは、家族が嫌いになったからではない。


ただ。


知らない世界を、自分の目で見たかったのだ。


「……うーん」


空手家パパは腕を組んだ。


考えた。


考えた。


考えた。


そして。


「ない知恵絞って考える。……いや、無理だ!」


黒猫がずっこけそうになった。


「諦めるの早えな!」


「こういう時は専門家だ!」


空手家パパは再びスマートフォンを取り出した。


連絡先を開く。


呼び出し音。


『はい、雨宮です』


「雨宮さん! 家に結びついてる怪異を外に出す方法!」


『また急ですね』


「海が見たいんだって!」


『……誰がですか?』


「座敷ちゃん!」


電話の向こうで、長いため息が聞こえた。


『まず、その子が“家そのもの”に結びついていると決めつけない方がいいと思います』


「ほう」


『土地かもしれない。人かもしれない。物かもしれない。私にも分かりません。ただ――』


雨宮は少し考えるように間を置いた。


『持ち出せる“縁”のようなものがあるなら、試す余地はあるかもしれません』


空手家パパはチヨの手を見た。


そこには、古い巾着。


「巾着、とか?」


『……可能性はあります。でも、保証はできませんよ』


チヨが巾着を握り直した。


その身体が、ほんの少しだけ濃くなる。


「なるほどー!」


空手家パパは大きく頷いた。


そしてミチコへ向き直った。


「ここから海はどれくらい?」


ミチコは少し驚いた顔をした。


「車なら三十分くらいですよ」


「三十分!?」


チヨの目が輝いた。


「海、そんな近くにあるの!?」


「そうだよ」


ミチコが優しく答える。


「ずっと昔から、そこにあるよ」


チヨは門の外を見た。


その向こうに広がる夜の町。


そして、まだ見たことのない海。


空手家パパはもう一度、チヨの前にしゃがんだ。


「座敷ちゃん」


「なあに?」


「外に出たら、また身体が透けちゃうかもしれないよ」


チヨは巾着を見つめた。


「……うん」


「おじさんも、どうすれば大丈夫なのか、まだ分かんない」


少しだけ間を置く。


「それでも、海を見たい?」


チヨは考えた。


巾着をぎゅっと握りしめる。


そして。


「……見たい」


顔を上げた。


「私、海が見たい!」


空手家パパは頷いた。


「よし!」


チヨの頭を優しく撫でる。


「じゃあ、絶対に一人にはしないからな!」


「……うん!」


その笑顔を見て、空手家パパも笑った。


「じゃあみんなで海水浴に行こー!」


「は?」


ミチコが目を丸くした。


「海水浴って……もう夜ですよ?」


「細かいことはいいんです!」


「細かくねえよ」


黒猫が即座に突っ込んだ。


「夜の海で泳ぐつもりか、お前!」


「あ、泳がないよ! 海を見るだけ!」


「だったら最初からそう言え!」


空手家パパは笑った。


「まあまあ! 初めての海なんだから、みんなで行こう!」


「……本当に、大丈夫でしょうか」


ミチコが不安そうに尋ねた。


空手家パパはチヨの手を見た。


まだ、少し透けている。


「正直、分かりません」


その言葉に、ミチコの表情が曇る。


「でも、だからこそ一人にはしません。もし途中で様子が変わったら、すぐ戻りましょう」


チヨも頷いた。


「うん。約束する」


ミチコはしばらく二人を見つめていた。


やがて。


「……分かりました」


小さく微笑んだ。


「私も一緒に行きます」


「よっしゃー!」


空手家パパは拳を握った。


「そこの猫ちゃんも行くぞー! こういうのは大勢であればあるほど楽しいんだー!」


「なんで俺までだ!」


「あ、そうそう」


空手家パパはスマートフォンへ向かって言った。


「雨宮さんも強制参加ねー」


『今から!?』


電話の向こうから悲鳴が響いた。


『ちょっと待ってください。私はまだ行くとは――』


「座敷ちゃん、まだ透けてるからさ」


空手家パパはチヨを見た。


「何かあったら困るし、雨宮さんにも来てほしいんだよ」


電話の向こうが静かになった。


『……そういう理由なら、最初から言ってください』


「来てくれる!?」


『行けるように調整します。ただし、私が到着するまで無茶はしないでください』


「合点承知!」


『その返事が一番信用できません……』


空手家パパは笑った。


「いやー、楽しみだなぁ!」


『楽しむ前に安全を確認してください!』


雨宮の声が響く。


そのとき。


ガラッ。


二階の窓が開いた。


十歳くらいの少女が顔を出した。


「おばあちゃん……チヨ!?」


「サキ!」


チヨが嬉しそうに手を振る。


空手家パパも大きく手を振った。


「君もおいでー! みんなでお出かけだー!」


「お出かけ?」


「海だー!」


「海!? 行く!」


サキの顔がぱっと輝いた。


ミチコは困ったように笑い、黒猫は盛大にため息をついた。


リュミは楽しそうに宙を飛び回っている。


チヨは巾着を胸に抱き、門の外を見つめていた。


百五十年間。


ほとんど家の外を知らなかった座敷童。


その少女が今、初めて自分の願いを口にした。


海を見たい。


ただ、それだけの小さな願い。


けれど、チヨにとっては百五十年越しの大冒険だった。


そして三十分後。


その願いは、ついに叶うことになる。


ただし。


その夜の海で何が起きるのか。


このときは、まだ誰も知らなかった。

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