第十話 私の記憶は、私のものです
部品を買い揃えて月極駐車場へ戻ると、新たな人物が増えていた。
夜勤帰りの田中だった。
田中は自分の駐車区画に鎮座する銀色の円盤を、呆然と見つめていた。車のエンジンはかかったままで、運転席の窓から顔を出している。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「…………俺の場所なんだけど」
宇宙規模の事件など知ったことではない。田中はただ、仕事を終えて車を停めたいだけだった。
「すいません! 今から直しますので、お手伝いお願いします!」
空手家パパが元気よく声をかける。
「え?」
「田中さんですね? 私、空手家パパと言います。一緒に困ってる人を助けましょう!」
「……夜勤明けなんですけど」
「大丈夫! 私も宇宙船の修理は初めてです!」
「何が大丈夫なんですか?」
田中は深いため息をついた。
しかし、目の前の円盤が動かなければ自分の車も停められない。結局、車を脇へ移動させ、工具を手に取ることになった。
駐車場管理会社の大森まで巻き込まれ、四人での修理作業が始まった。
ルルが船の底にある点検口を開き、内部の構造を説明する。田中が配線を繋ぎ、大森が工具や部品を運んでいく。
空手家パパはしばらく作業を眺めていたが、専門的な話についていけず、静かに一歩下がった。
「私は邪魔になりそうだから、カードで光照らしとくね」
胸元から魂カード《光》を取り出し、柔らかな光を生み出す。
光は手元を照らし、暗い船底の奥まで届いた。
「おお! 光量調節できて便利! 初めてカード役に立ったじゃん!」
「ちょっとー! 初めてって何!?」
リュミが空中でぶんぶん腕を振った。
「今までもちゃんと役に立ってるからね!」
「そうだっけ?」
「九階から落ちたときだって!」
「足場にならなかったよ?」
「それはパパの使い方が悪いの!」
「厳しいなぁ」
二人が言い合っていると、ルルが突然顔を上げた。
「……待ってください」
「はい?」
《光》が船内の奥にある装置を照らした瞬間、停止していた端末が勝手に起動したのだ。
暗かった画面に赤い文字が浮かび上がる。
《RETURN REQUEST:17》
「リターン……?」
空手家パパが首を傾げる。
「帰還要請、第十七回……?」
ルルは何も答えなかった。
その顔から、血の気が引いていた。
「ルルさん?」
次の瞬間、夜空に白い光が現れた。
最初は星のように小さかった光が、ゆっくりと大きくなっていく。
やがて巨大な影が住宅街の上空へ姿を現した。
銀色の船だった。
ルルのものよりはるかに大きく、月明かりの下で静かに浮かんでいる。
「……おお」
空手家パパは空を見上げた。
「UFOが増えた」
「増えたね……」
リュミも呆然としている。
やがて、上空の船から声が響いた。
『ルル。第十七回帰還要請への応答を確認します』
丁寧で、落ち着いた声だった。
しかし、ルルは船の陰へ身を隠そうとしていた。
空手家パパはそんな様子を見て、空へ向かって叫んだ。
「本人帰りたくないみたいですよー!」
「パパ!?」
リュミが慌てた。
返事はすぐにあった。
『地球住民の方と認識しました』
「はい! 地球人です!」
『危害を加える意図はありません。修理作業が終了するまで待機します』
「おお! 話の分かる人だ!」
空手家パパは感心したように頷いた。
少なくとも、いきなり攻撃してくる相手ではなさそうだった。
しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。
道路の向こうから複数の黒い車両がやってきたのだ。
車両が停車すると、黒服の人々が次々と降りてきた。彼らは周囲の住民を安全な場所へ誘導し、駐車場の近くに機材を展開していく。
空手家パパは嫌な予感がした。
「……カード隠そう」
慌てて《光》を胸元へしまう。
「リュミさんも私のここ、隠れてて」
「わかったよ! 隠れるね!」
リュミが服の襟元へ近づく。
「臭かったらごめんね。おじさんはそういう生き物だから」
「えっ!? ちょっと待って! それ入る前に聞きたくなかったー!」
リュミは悲鳴を上げながらも、胸元へ潜り込んだ。
その直後、黒服の一人が近づいてきた。
鋭い目つきの男だった。
「この状況を説明できる方は?」
「あ、私が説明します!」
空手家パパは元気よく手を上げた。
「えっと、船があって壊れててー、困った人がいてー、修理してて、ほかの船が来てー、もう大変だったんですー!」
男は数秒黙った。
「……要約ありがとうございます」
「いえいえ!」
「私は超常対策局の黒瀬と申します。詳しい事情は後ほど確認させてください」
「押忍!」
黒瀬は駐車場の様子を確認し、部下たちへ指示を出した。
空手家パパはその背中を眺めながら、小さく呟いた。
「なんか、偉そうな人だねぇ」
胸元からリュミの声が聞こえた。
「パパ、聞こえちゃうよ!」
「おっと」
やがて、ルルの船の修理が終わった。
田中が最後の配線を繋ぐと、船底の装置が低い音を立てて動き始める。
「……動いた」
ルルが安堵したように息を吐いた。
「推進系、正常です。遠隔操作機能も復旧しました。皆さん、ありがとうございます」
「遠隔操作?」
空手家パパが首を傾げる。
ルルがコートの袖に触れると、銀色の船がわずかに浮き上がった。
「この操作装置で、船を離れた場所から動かせます」
「おお! ラジコンみたい!」
「ラジコン……?」
「いや、こっちの話!」
空手家パパが笑った、そのときだった。
上空の巨大な船から一筋の光が降り注ぎ、一人の人物が地上へ降り立った。
整った服装に、落ち着いた表情。
その人物は周囲を見回し、丁寧に頭を下げた。
「監察官セトです」
「どうもー! 空手家パパです!」
「ルルには帰還命令が出ています」
セトの言葉に、ルルの表情が強張った。
「私は帰りません」
即答だった。
セトは静かにルルを見つめた。
「帰還命令は継続中です。あなたには所定の検査を受ける義務があります」
「拒否します」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
空手家パパは交互に顔を見比べた。
「……思春期のあれかな?」
誰も笑わなかった。
空手家パパは本気だった。
「こういうのは無理強いするより、自然に帰りたくなるのを待つのが一番なのでは……。いずれ故郷が恋しくなりますって」
セトは答えず、ルルを見つめている。
空手家パパは今度はルルへ向き直った。
「ルルさんも、帰りたくないって言うだけじゃなくて、どうしてそう思うのか説明してみたら? ゆっくりでいいから」
そしてセトを指さす。
「セトさん、話聞いてくれそうだよ」
ルルは長い間、黙っていた。
やがて帽子のつばを握り、静かに口を開いた。
「……一定の年齢になると、私たちは自分の記憶を提出して検査されます」
「記憶?」
空手家パパが聞き返す。
「はい。生まれてから経験したこと、見たもの、聞いたもの。そうした記憶の一部を調べられるのです」
ルルは顔を上げた。
「私は、それを拒否しました」
セトが口を開く。
「記憶検査は公共の安全を守るための制度です。危険な情報や犯罪に関わる記憶を確認し、事故を未然に防ぐ目的があります」
「ふむふむ」
「検査後、通常は記憶が本人へ返還されます」
「通常は、でしょう」
ルルの声が少し強くなった。
セトは否定しなかった。
「危険性が認められた情報については、隔離処理が行われる場合があります」
「隔離?」
「本人がその情報へアクセスできない状態にする処置です」
空手家パパは腕を組んだ。
「つまり、忘れちゃうってこと?」
「厳密には消去ではありません。必要に応じて再審査が行われます」
ルルが小さく首を振った。
「でも、思い出せなくなるのは同じです」
その声には、さっきまでの丁寧で機械的な響きがなかった。
「私は知っています。検査を受けたあと、大切な人の名前を思い出せなくなった者を」
空手家パパは黙った。
「その人は、自分にとって何より大切だったはずの存在を、もう思い出せませんでした」
ルルは帽子を強く握り締めた。
「危険な情報だったから、と説明されたそうです。でも、何が危険だったのかも教えてもらえなかった」
セトは静かに答えた。
「個別の処理について、私から説明することはできません」
「分かっています」
ルルは俯いた。
「だから怖いのです」
夜風が駐車場を吹き抜ける。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「私の記憶は、私のものです」
ルルは顔を上げた。
「楽しかったことも、悲しかったことも、忘れたいと思ったことさえ、全部私が生きてきた証です」
セトは何も言わなかった。
ルルは続けた。
「それを誰かに調べられて、必要ないと判断されたものを取り上げられるなんて……私は嫌です」
空手家パパは二人を見つめた。
セトの説明にも理由はあるのだろう。危険な情報を調べ、事故や犯罪を防ぐことが必要な社会なのかもしれない。
しかし、その制度が本当に正しいのかどうか、空手家パパには判断できなかった。
異星社会の法律も歴史も知らない。記憶検査がどのように行われるのかさえ、よく分かっていない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
ルルは、帰りたくないのだ。
「うん。わかった」
空手家パパは頷いた。
「私はルルさんの味方だ」
リュミが胸元から顔を出した。
「パパ……?」
黒瀬が眉をひそめる。
「空手家パパさん。まずは落ち着いて――」
しかし、遅かった。
空手家パパはルルへ歩み寄り、その小さな身体をひょいと抱え上げた。
「え?」
ルルが目を丸くする。
「パパ!?」
リュミも叫んだ。
空手家パパはにっこり笑った。
「細かいことは後で考えよう!」
そして、走り出した。
「待て!」
黒瀬の声が住宅街に響く。
セトもすぐに動いた。
月明かりに照らされた月極駐車場で、宇宙人を抱えた四十二歳の空手家が逃走を開始した。




