6 Borderline 〜ヨウジの話〜
「あたし、十九歳じゃないからさ」
「わかってます」
「何でも平気だから、ヨウジが話したくなったんなら、そうすれば」
ヨウジは、アメリカで何があったかは誰にも話していなかった。
仕事の要請があって渡米したユカリを、ヨウジは追った。
半年後、ひとりで帰ってきたヨウジの顔を見て、明子たちは思った。
(魂が抜けたようになるって、こういうことなんだ……)
ヨウジはしばらくの間、何もできずにいた。
誰も、本人に訊くことができないまま(ユカリとは終わったのだろう)と判断していた。
ヨウジの話が始まる。
ユカリなんですけどね。
あいつ、何も言わずに向こうに行ったでしょう? 前もそうでしたけど。
以前は、あいつにその気がないんなら仕方がないと思っていたんです。
あの時は、いくらなんでもこのままじゃいけない、ケリをつけよう、そう考えたんですよ。
「そりゃそうだ、あたしもそう言った」
「そうでしたね」
シスコに着いて連絡をとったら、あいつは、ヨウちゃんどうしたのって言って、クルマで空港まで迎えに来ました。
どうもこうもねえだろう、黙って行くやつがあるかっておれが言うと、そうだっけ?って笑ってました。
あいつのいつもの言い方には違いないけど、場合が場合でしょ?
いい加減にしてくれよって言ったら、あいつはまだ笑ってて、その時に初めて、どっか変だなと思ったんです。
明子は煙草に火をつけ、少し遠い目になってヨウジの話を追っている。
アパートメントに連れていかれたら隣の部屋に妹のまおちゃんがいて、それも変だなと思いました。
いくら仲のいい姉妹でも、仕事で外国に行くのに、普通ついて来ないじゃないですか……。
ユカリたちは、ヨウジのためのパーティーだと言って酒や食べ物を並べた。
ユカリは満面の笑顔で、嬉しそうに見えた。
「来てくれてありがとう」と何度も繰り返した。
ヨウジは、ユカリの部屋で何日か過ごすことになった。
異変が起こった。
ユカリが膝をかかえてうずくまったまま、動かなくなった。
まる一日以上、食事や飲み物を受けつけない。
話しかけてものろのろと首を振るか、それもしないでヨウジの顔をぼんやり見ているかだ。
ヨウジは、まおの部屋のドアを叩いた。
「ドクターのとこに行かなきゃ、ヨウジさんも手伝って」
「病気だよね? アル中とか、うつ病とか……」
「それは……ヨウジさんもドクターに訊いてみるといいよ」
動こうとしないユカリを、後部座席に積み込むようにして乗せ、出かけた。
子ども二人はベビーシッターが面倒を見ている。
まおが運転して、病院に着くまで何も話そうとはしなかった。
ユカリが治療を受け、眠剤が効いて眠っている間、ヨウジは先生と話をした。
「私はドクターではなくカウンセラーのほうなんですが、お知りになっておいたほうがいいことについてお話します」
ドイツ系の男の人だが、日本人以上に正確できれいな日本語だ。
アメリカでは、神経科のカウンセリングやセラピーを利用することが、日本とは比較できないほど一般に浸透している。
日本人や日系人の多い地域では、やはり母国語でなければ細かいニュアンスは伝わらないから、日本語のできるカウンセラーの需要がある。
カウンセラーのシュナイダーは日本の大学に六年もいたそうで、川端と谷崎の文学をこの上なく愛好しているという。
「あなたは、ユカリさんのパートナーですね?」
「夫ではないんですけど、そのような者だと思っています」
「彼女と一緒にいて、言動がおかしいと思われたことはありませんか?」
「……他人とはかなり違いますけど、それはただ変わったやつなんだなと思っていました」
「失礼にはあたらないと思いますが、あなたはかなり寛容な方ですね……それだけ彼女を愛している?」
「それは、いま話すことじゃないでしょう」
なかなか話が進まないので、ヨウジは少し苛立った。
「ここに来るっていうことは、何か精神か神経の病気なんでしょうか?」
「申し訳ありません、あなたを焦らしているのではないのです、結論を急がないでください。
カウンセリングにもさまざまな方法があって、まず病名を決めてそれを治すというようには私たちは考えていないのです。
けれど、お話の都合上、申し上げましょう。彼女の場合、まず、境界型人格ということが挙げられます」
「境界型?」
「はっきり、精神病あるいは神経症と診断されることは稀ですが、非常に境界線に近いところに立っているのですね。
知能は低くなく、むしろ高いといっていいレベルにあり、専門的な仕事をこなすこともできるので、社会生活が可能なのですが」
「ええ、そういう仕事をしています」
「簡単に申し上げますと、彼女には他人の感情を忖度することができない」
「そんたく?」
「推測、推し量るということです。
本来、日本人にはかなり備わっていていい能力なのですが、彼女の場合、気質的なものなのか、たまたまそれを学習する環境がないまま来てしまったのか、それがほとんどない」
「わかるもんなんですか」
「以前、彼女が滞在していた時からの、二年半にわたるカウンセリングの結果です……あなたには思い当たる点がありませんか?」
たしかに、ある。
ユカリの、ふわふわして謎めいた言葉、連絡もせずにする突飛な行動。
それは、ただ病気によるものだったのか。
「でも、それだけで病気と言えるものなんですか?
相当に変わり者でも、それで通用している人間っていっぱいいるじゃないですか」
「ですから、ここまでは病気ではなく、ここからが病気だというように私たちは捉えていません。
社会生活、家庭生活に支障がなければ、彼女程度の障害、失礼、それを抱えていて何の不自由もなく生きている人は多いのです。
現在の彼女のように一種のパニック障害を起こした時点で、これはやはり病気と言わざるを得ないと判断するのです」
「やっぱり、そのせいなんですか」
シュナイダーは、ひと呼吸おいてから続けた。
「……あなたは多少英語もおわかりになると思いますが、ヒンディー語、スワヒリ語、なんでもいい。
全く言葉が通じない国に、ひとりでいられますか」
どういう例え話なのだろう。
「一日も難しいでしょうね」
「他人の感情をほとんど推し量ることのできない彼女が、そうではない人間と一緒にいるというのは、そういうことなんですよ」
「そんなに深刻な問題なんですか」
「……人間の中には、連続した物語性というものがあります」
「はあ」
「誰しも、他人との関わりの中で相互に感情が通じたと判断し、それを記憶として繋げていくことで、いわば、自分という物語を生きている」
「わかるような気がします」
「カウンセリングによって得られた彼女の心象の中には、物語性がほとんど発見できません」
「それは、どういうことなんですか」
「感情の忖度ができないということの結果です。断片的な場面と、目の前にいる人間への好悪が、彼女の精神生活の大部分を占めている」
「……それって、多少おかしいかもしれませんが、そんな人間、いっぱいいる……」
「それはそうなのですけれど」
シュナイダーは、ごく微かに笑った。
「問題は、彼女との間に共通の物語性があると信じている他者との接触が、彼女に対してストレスになる点にあります」
「それって……」
「たいへんお気の毒なのですが、あなたが日本から彼女を追ってこられた、その行動の理由が彼女には理解できない」
「ちょっと待って」
思わず、ヨウジは立ち上がった。
それから手持ち無沙汰に壁のほうを向き、少しの間、考えた。
動悸が早くなっているのがわかった。
「シュナイダーさん、せっかくお話いただいてありがたいんですけど、おれのほうにちょっと聞く準備ができてないっていうか」
「わかります」
「またお話を伺いに来るかもしれませんが、今日はこれで失礼します」
「いつでもお待ちしています、ヨウジさん、気を確かに持って」
ロビーを歩きながら、ヨウジは考えた。
(何がカウンセラーだ、何でもかんでも大げさに言いやがって……それが商売だからだろう、あんなのを真に受けることはない)
病院を出て、駐車場に行った。
そこにユカリとまおが立っていて、二人とも笑顔を浮かべていた。
その顔を見た時、ヨウジにはわかってしまった。
本当なのだ。
精神病理学の分野は日進月歩で解釈や用語が違ってきます
ユカリの症状に異論もあると思いますが、当時のシュナイダーたちの見解ということです




