第34話 暁の帰還
夜の帳が、白々と明けゆく東の空に溶け始める頃。
セステアの教会の二階、静まり返った廊下の突き当たりにある窓が音もなく僅かに開いた。
――ガクッ、と。
窓枠を越えて床に滑り落ちたのは白銀の光を完全に失い、泥と乾いた返り血に塗れたラオだった。
荒い呼吸を押し殺し、自身の肉体から発せられる悲鳴のような激痛を冷徹な精神でねじ伏せる。
天界から無理やり送り込んだ本来の魔力の過負荷の影響で内臓は焼け、大部分の血管の末端は焼き切れていた。
(……チッ、この……貧弱な、器め……)
もはや一歩を踏み出すのさえ薄氷の上を渡るような危うさだ。
視界は霞み、意識の端から強烈な睡魔が鎌を振るって襲いかかってくる。
ラオは壁を伝い、朦朧とする意識の中で扉が開いていた最も近い寝台へと、文字通り崩れ落ちるように潜り込んだ。
ふわりとラオの殺伐とした世界には存在しない、花の蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
だが今の彼にはその正体を確かめる余裕など微塵もなかった。
(……小ヌルい……。だが、今は……これでいい……)
温かな毛布の感触に包まれながら、ラオの意識は深い深い闇へと沈んでいった。
◇◇◇◇
数時間後。
教会の窓から差し込む眩いばかりの朝日が、平和な朝の訪れを告げ……るはずだった。
「……きゃあああああああああああああああッ!!?」
鼓膜を突き破らんばかりの絶叫がラオの脳内を直撃した。
鬱陶しそうに重い瞼をわずかに押し上げる。
そこには顔を真っ赤に染め上げ、ラオが横たわる同じ寝台で、布団を胸元まで引き上げて震えている寝間着姿のリオラの姿があった。
「な、ななな、なんで!? なんでラオ君が私のベッドにいるの!?」
「……喧しいぞ、女。朝から……喚くな。頭に響く」
ラオは低く不機嫌極まりない声を漏らした。
だがリオラの驚愕は、その次の瞬間に悲鳴を上回る衝撃へと変わった。
寝台のシーツにべったりと付着した血痕。そしてラオの衣服の隙間から見える、ボロボロに傷ついた小さな身体。
「ちょっと、ラオ君!? その怪我、どうしたの!? 身体中、傷だらけじゃない! 今すぐ手当てを……!」
リオラが慌ててラオの胸元に手をかざし、淡い聖光を灯そうとする。
しかしラオはその白く細い手首を子供とは思えぬ力で掴み、冷たく制した。
「……触れるな。貴様の小ヌルい魔法など、今の我には……無いに等しい。……放っておけ。寝れば治る」
「でも、そんな酷い状態で……!」
「……寝ると、言っている。……あと、貴様の心音も、うるさい」
ラオは吐き捨てるように言うと、そのままリオラの香りが残る枕に顔を埋め、再び深い眠りへと逃避した。
残されたリオラは、真っ赤になったまま固まるしかなかった。
実は彼女は夜中に「誰か」が寝台に入ってきたことには気づいていたのだ。だがそれはてっきり、夜を怖がった幼い孤児の誰かが甘えて潜り込んできたのだと思い込み、確かめもせずに「よしよし」とその背中を優しく抱き締めてあげていたのである。
(私……ラオ君を、あんなにギュッて……! ラ、ラオ君、わざと私のところに来たの!? いや、でもあの怪我はどこで……)
羞恥と心配の狭間で、リオラの頭はオーバーヒート寸前だった。
◇◇
教会の入り口では、旅立ちの時間が迫っていた。
特別休暇を終え、セステアの町にある任地へと戻るグリハンを見送るため、神父夫妻や子供たちが集まっている。
教会の前には一際目立つ立派な馬車が停まっていた。
それはシャルロッテがグリハンのために町まで歩かせたくない、と勝手に用意したものだった。
「サミエル神父、メアリお母さん、リオラ。ありがとう。また何かあったら、いつでも言ってくださいね」
「ありがとう、グリハン君。頼りにしてますよ」
「気を付けて戻りなさいね」
「グリハンお兄ちゃん、ありがとうね。またお手紙書くね」
「ああ」
グリハンは三人と子供たちに笑顔で別れを告げる。
そしてグリハンはふと周囲を見渡し、ラオの姿がないことに気づいた。
「おや、ラオはどうした? 行く前にあいつの顔を見ておきたかったんだけどな」
「あ、あの……ラオ君は、その……何か、今はすっごくぐっすり寝てて。……私のベッドで……あ、いや、なんでもないっ!」
リオラが激しく顔を赤くして言い淀むのをグリハンは不思議そうに見つめたが、すぐにカラリと笑った。
「ははは! 寝坊か。久々に教会に帰って来て安心したのかもな」
「そう……かもね」
リオラが曖昧な笑顔で応えると、グリハンは待っていたシャルロッテに「お待たせしました」と声を掛けて、シャルロッテと共に馬車へと乗り込んだ。
「では、皆様! わたくし、シャルロッテが責任を持ってグリハン様をお送りいたしますわね」
「はい。よろしくお願いします。シャルロッテお嬢様」
「じゃあ、みんな! またなっ!」
グリハンが大きく手を振ると、馬車がゆっくりと動き出し、街道を駆けていく。
その頃、教会の二階では……
破壊神としての威厳も何も感じさせない無垢な寝顔で、リオラの残り香が残る温かな寝台の中で丸くなっていたラオは、深い眠りの中で自身の肉体を「小ヌルい」と呪い続けていた。
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