第33話 虚空の残響
大森林の境界線、その上空を月光すら飲み込むする漆黒の鱗を震わせ、一頭の飛竜が滞空していた。
跨るファルバラ帝国軍将校ヴァルガスの双眸には、ぎらついた功名心とそれを上回るほどの混乱が渦巻いている。
「……消えた? まさか、消失したというのか!? あれほどの瘴気が一瞬で……?」
つい数分前まで彼の肌を焼くように伝わっていた、あの濃密で禍々しい瘴気のプレッシャーが霧散するように消え失せていた。
ヴァルガスは飛竜の首筋に食い込むほど手綱を強く引き絞り、眼下に広がる広大な緑の海を凝視した。
大森林の魔獣を震撼させ、帝国軍の精鋭隠密を葬ったと思われる「至上の素材」が跡形もなく掻き消えたという事実を、ヴァルガスがすぐに飲み込む事ができなかった。絶望に近い焦燥がヴァルガスの胸を突き上げた、その時だった。
森の深奥、かつて瘴気が渦巻いていた爆心地から一条の銀光が夜の帳を切り裂いて飛び出した。
それは既存の飛行魔法のような緩慢なものではない。大気を爆ぜさせ、重力の法を嘲笑うかのような暴力的なまでの加速。
流星よりもなお鋭く、神々しいまでの白銀の尾を引きながら、その光は北西の空へと消えていった。
「……アレは何だ? あの銀色の輝きが、瘴気を滅ぼしたというのか……?」
ヴァルガスの頬を、冷たい汗が伝い落ちる。
あれは、一国の軍事力で制御できるような代物ではない。次元そのものが異なる「何か」だ。
即座に追尾しようと、ヴァルガスが漆黒の飛竜に手をかけたその瞬間、その飛竜が低く、警戒の唸りを上げた。
(……チッ、王国軍か。調査隊の気配……嗅ぎつけられたか)
軍人としての鋭い感覚が、森の下層に広がる多数の「統制された足音」を捉える。
目的の瘴気の気配は消失し、おそらくこのまま大森林の最奥まで行っても目的の物を得られる可能性は限りなく低い。
このまま単騎で王国軍と接触するのは、帝国軍の将校としてあまりに無策であり、愚策である。
将校としての正常は判断を取り戻したヴァルガスの判断は早かった。
「……帰還する。あの銀色の光……帝国へ戻り、魔導院の老いぼれたちに徹底的に洗わせねばならん。あれこそが、瘴気を凌駕する真の『力』であるならばな……」
ヴァルガスは吐き捨てるように呟くと、飛竜を強引に旋回させた。
背後に残る王国軍の気配に一度だけ忌々しげな視線を送り、漆黒の魔竜は北の空へと、溶けるように加速していった。
◇◇◇
さらに数刻後。
白み始めた東の空から、冷淡な朝の光が大森林の木々を照らし出した。
大森林奥地の爆心地にたどり着いたのは、ギリアム率いる王国軍の調査隊であった。
先陣を切って森を切り拓いてきた兵士たちがある一点で足を止め、その場に釘付けになった。
「……これは……何だ、これは……」
最前方の兵士が、恐怖に震える声で呟く。
彼らが目にしたのは、もはや「森」と呼ぶことすら憚られるような、凄惨なまでの死の空白だった。
半径数百メートルにわたり、太古より聳え立っていたはずの巨樹は炭化し、草花は漆黒の汚泥となって地面にへばりついている。
生命の気配は砂漠よりも薄く、ただここで人智を超えた巨大な存在同士が激突したという、圧倒的な破壊の爪痕だけが異臭と共に立ち込めていた。
ギリアムは慎重に、一歩ずつその中心へと歩みを進めた。
かつて大樹の幹であったはずの黒い柱に触れる。
――カサリ、と乾いた音を立てて、その残骸は灰となり、朝風に流されて消えた。
「……死んでいる。魔法ではない……森の細胞一つひとつが、根こそぎ奪い取られている。……だがこれほどまでの規模を、たった一晩で?」
そこには魔物の死体も、何者かの遺留品も、何一つ残されていなかった。
ただ不自然に辺り一帯に広がる腐敗の跡と、そこを蹂躙した理外の力の記憶だけが冷えた空気の中に漂っている。
ギリアムの背筋を一筋の戦慄が駆け抜けた。
もしこの惨状が一人の人間、あるいは一柱の魔導師の仕業だとしたら……。
それは王国にとっての守護神か、あるいは世界を終わらせる福音か。
「……総員、散開! 辺り一帯、土の一粒まで精査しろ! ここで起きた事象を、王国は正確に把握せねばならん。……これは新たな戦乱の序奏どころではないぞ」
ギリアムの命令に兵士たちは顔を強張らせながらも動き出す。
しかし彼らが血眼になって探す破壊の主の正体は、今遥か遠くの教会のベッドで、ボロボロの肉体を「小ヌルい」と呪いながら、泥のような眠りに落ちようとしていた。
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