第32話 神罰の代償
大森林の深奥……かつては生命の息吹が満ちていたはずの聖域は、今や「無」と「汚染」が混ざり合う地獄図へと変貌を遂げていた。
月光すらも届かぬほど濃密に練り上げられた漆黒の瘴気が、幾条もの大蛇となってのたうち回り、触れるものすべてを腐蝕させていく。
その中心で白銀の光を纏った少年――破壊神ラオは、不自由極まりない肉体の限界をその冷徹な理性の檻に閉じ込めながら、なおも不敵な笑みを浮かべていた。
「……チョロチョロと、ゴミの分際で。我に触れるなと言ったはずだ」
ラオの眼前から大樹の幹ほどもある十三本の黒い触手が、空間を削り取るような音を立てて殺到する。
ミアス……世界の不浄の化身であるその子供は表情一つ変えず、ただ機械的にその触手でラオに襲いかかる。
先端から漏れ出す瘴気は触れた大気を瞬時に腐らせ、吸い込むだけで肺をドロドロの汚泥に変える死の毒霧だ。
ラオは空中で身を捻り、紙一重の回避を繰り返す。
本来の彼であれば、思考した瞬間にこの程度の澱みなど概念ごと消滅させているはずだった。
だが今の器は創造主ゴルドアンが用意した「人間の子供」という矮小な檻。
神経の伝達速度、筋肉の耐荷重、魔力の循環経路――そのすべてが、破壊神の意志という「巨大な奔流」を支えるにはあまりに細く、脆すぎた。
「クッ……!」
回避の拍子に背中の筋肉が悲鳴を上げ、繊維が断裂する。
一瞬の硬直。
その隙を逃さず、ミアスの触手の一本がラオの脇腹を掠めた。
白銀のオーラで守られていたはずの衣服が黒く変色し、そこから肉を腐らせる腐敗の波動が侵入しようとする。
「……まだ我の肌に、泥を塗るか」
ラオは自身の右手に意識を集中し、侵入した瘴気を強引に、かつ暴力的な純粋魔力で焼き払った。
その瞬間、彼の脳内に取り乱したドジっ子の、悲鳴のような通信が飛び込んできた。
『ラオ様! ダメです、もう止めてください! これ以上の出力は……! 今のラオ様の心臓は、もう破裂寸前なんです! その肉体は神の魔力を回すようには造られていないんですっ! このままじゃ、ラオ様自身が自分の魔力で消滅しちゃいます!』
(……五月蝿いぞ、ドジっ子。貴様の喚き声の方が、よほど我の神経を逆撫でする。……小ヌルい。この肉体も、この世界も、そして貴様の心配も……すべてが小ヌルくて吐き気がする)
ラオは脳内の警告を冷酷に切り捨てると、さらに一段階魔力の弁をこじ開けた。
少年の身体から溢れ出す白銀の光が、もはや視覚を焼くほどの輝きへと膨れ上がる。
血管が浮き出し、皮膚の端々から赤い血が霧となって噴き出すが、ラオはその激痛を心地よい「掃除の余興」として飲み下した。
「しっかり見ていろ。ゴミ掃除に手間取るなど、我の歴史に汚点は残さん」
ラオの両手に、凝縮された破壊の概念が形を成す。
それは光の矢ではなく、万物を『最初から存在しなかったこと』にするための零の波動。
ミアスは十三本の触手を自らの体に引き寄せ、一枚の巨大な盾へと編み上げて迎え撃とうとする。
「無に還れ。不浄の塊め」
ラオが解き放った白銀の奔流が、大森林の闇を一掃した。
激突の瞬間、一切の音は消失した。
あまりに巨大なエネルギーの衝突が、周囲の空気振動さえも停止させたのだ。
ミアスの触手の盾が先端から順に、白銀の光に呑み込まれて蒸発していく。
汚染も、腐敗も、その根源である瘴気さえも、破壊神の純粋な意志の前では形を保てない。
「ア……アァ……」
子供の姿をした不浄が初めて小さな声を漏らした。
次の瞬間、ミアスの輪郭が白光に呑み込まれ、塵一つ残さずその場から消滅した。
森の最奥に、一時の静寂が戻る。
「……ハァ、ハァ……」
ラオは地上に降り立つと、そのまま片膝を突いた。
白銀のオーラが消え、後に残ったのは血に染まり、全身の骨が軋む音を立てる人間の子供の成れの果てだ。
肺が焼けるように熱く、視界がチカチカと明滅する。
『ラオ様! ラオ様、お返事してください! 無茶しすぎですぅ……! ああ……どうしよう、ラオ様が壊れちゃう……!』
(……喧しい。耳元で……喚くな。……まだ、終わりではない)
ラオは震える手で、自身の胸元を掴んだ。
心臓の鼓動が不規則に打ち、命の灯火が今にも消えかかっている。
このままでは数刻もせず、この肉体は「寿命」ではなく「崩壊」という形で機能を停止するだろう。
(……ドジっ子。聞こえるか。……天界のストレージに預けてある、我の本来の魔力……。その一端を、今すぐこの肉体に転送しろ)
『えっ……!? な、何を言っているんですか!? そんなこと絶対にダメです! 百万分の一でも、今のラオ様の肉体に送ったら、風船みたいに爆散しちゃいますよ!』
(……やれと言っている。我が、命じているのだ。……それとも貴様、我にこの泥濘の中で野垂れ死ねと言うのか? 掃除屋が、ゴミ溜めで果てる……。そんな無様な結末、我の矜持が許さん)
『で、でも……でも……っ!』
(……黙れ……ほんの僅かでいい。一滴の雫を落とすように、我の核へ注ぎ込め。……貴様がたまには役に立つところを見せてみろ)
ラオの苛烈な命令に、脳内のドジっ子が嗚咽に近い溜息を漏らす気配がした。
数秒の静寂の後、ラオの頭上の空間が微かに揺らぎ、針の先ほども細い、だが密度の高すぎる「白銀の糸」が降りてきた。
それが肉体に触れた瞬間、ラオの全身を凄まじい衝撃が駆け抜けた。
「……ぐ、あああああああッ!!」
血管が破裂し、新たな血が噴き出す。
だが同時に枯渇していた細胞の一つ一つに、神としての活力が無理やり流し込まれていく。
それは回復ではなく、壊れた機械を過電流で無理やり動かすような暴力的なまでのエネルギー充填だった。
数分後。
ラオはよろよろと立ち上がった。
肉体内部のダメージは以前として深刻であり、一歩歩くごとに神経が千切れるような痛みが走る。
だがその瞳には、冷徹な光が戻っていた。
「……フン。相変わらず、出来の悪い無能め」
ラオは脳内通信から全く声が聞こえなくなったドジっ子に毒づき、更に創造神にも毒を吐く。
「……小ヌルい。実に小ヌルいな、ゴルドアン。貴様が用意したこの器、あまりに脆すぎる。このような不自由な身で世界を観測せよとは、悪趣味にも程があるぞ」
ラオはため息混じりに毒づくと、夜空を見上げた。
月は依然として高い位置にある。
彼は深く沈み込むように膝を曲げると、一気に空へと跳躍した。
肉体から発せられる激痛を「不快なノイズ」として処理し、彼は白銀の尾を引いて月夜の空を舞う。
その背後では大森林が、腐敗の跡だけを残して再び重苦しい静寂へと沈んでいった。
「……小ヌルい世界だ。だがまだ掃除は始まったばかりだからな……」
神の毒づきは夜風に消え、白銀の流星はセステアの教会を目指して、闇を切り裂いていった。
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