第31話 白銀の神罰
月光が、死んだ魚の鱗のような冷たく不自然な色で大森林を照らしていた。
本来ならば夜の森には夜行性の魔物の蠢きや、風に揺れる葉のざわめきがある。
だがこの大森林の最奥には、それら一切の生命活動を拒絶するような不気味なほどの静止が横たわっていた。
その中心を……一人の子供が歩いていた。
衣服とも皮膚ともつかぬ、暗闇のような漆黒の布を纏ったその子供は一歩踏み出すたびに周囲の草花を腐敗させ、大樹の幹を一夜にして枯らしていく。
子供の瞳には光がなく、ただ吸い込まれるような虚無だけが湛えられていた。
それがこの世界が吐き出した膿。
この世界が自浄しきれなかった不浄の結晶であった。
不意に、上空の空気が爆ぜた。
真空を切り裂くような鋭い風を纏い、一筋の白銀の流星が降り立つ。
それは重力を無視して地上数メートルの空中に静止した。
夜の闇を掃き出すような神々しいオーラを放つその少年――破壊神ラオは不愉快そうに鼻を鳴らし、眼下の子供を凝視した。
「……ふむ。これがこの世界の澱みか」
ラオは自らの知識を裏付けるように一人で納得した。
これまで彼が執行してきた「世界規模の掃除」では、このような不浄の末端を個別に観察することなどなかった。
例えるなら汚れた部屋を家ごと焼き払う者にとって、蓄積した埃のひと塊など認識の隅にも留まらぬ存在だったからだ。
「本来であれば、我の吐息一つで消えるはずのゴミ。だがこの不自由な器では、その姿形すらも視認できてしまう。……実に不愉快な光景だ」
ラオの傲岸不遜な言葉に対し、子供がゆっくりと顔を上げた。
感情の欠落した瞳が白銀のオーラを纏うラオを捉える。
その瞬間、子供の背後の空間が歪んだ。ドロドロとした黒い瘴気が噴出し、それは瞬時に鋭利な形を成していく。
「貴様、知性はあるのか?……名は?」
ラオの問いかけに、子供の喉から枯れ葉が擦れるような、あるいは地底から響くような掠れた声が漏れた。
「ミ……ア……ス……」
その名が果たして個体名なのか、あるいは現象を指す言葉なのかは定かではない。だがその言葉が発せられた瞬間、子供の背後から『十三本の漆黒の触手』が爆発的に伸長した。
瘴気を限界まで凝縮し、物理的な質量を得たその触手は蛇のようにのた打ち、先端から周囲の酸素さえも腐らせる黒い霧を吹き出している。
「……ミアス、か。覚えやすく、消しやすい名だ」
ラオが冷笑を浮かべると同時に、十三本の触手が全方位から彼を襲った。
一本一本が城壁を容易く貫く威力を持ち、さらに触れたもの全てを汚染し、その存在確率ごと腐らせるという、破壊神の権能とは対極にある「最悪の停滞」。
「不潔な……我に触れるな」
ラオの身体が一瞬で残像へと変わった。
触手がラオのいた空間を突き刺すと、そこから周囲の地面が黒く溶け落ち、音もなく陥没していく。
ラオは縦横無尽に空を駆け、右手を一閃させた。
白銀の衝撃波が数本の触手を弾き飛ばすが、斬り飛ばされた端から瘴気が再び結集し、再生していく。
轟、と大気が震える。
神の如き破壊の波動と、世界を蝕む不浄の衝突。
その轟音は、夜の森の静寂を暴力的に引き裂き、数キロメートル先まで波及していった。
◇◇
大森林の西側。
そこでは、アステミア王国軍の調査隊が野営を張っていた。
部隊を率いるのはこの異変をいち早く感知したアステミア王国軍の魔導将校ギリアムである。
彼は焚き火のそばで地図を広げ、最近この森付近で頻発している魔物の変異や報告されている奇妙な瘴気の発生源を探っていた。
「……ん? 今、何かが……」
ギリアムが地図から目を上げ、森の奥を凝視する。
直後足元から地響きが伝わり、同時に空を裂くような巨大な破壊音が夜の静寂を支配した。
それは落雷でもなければ、巨大な魔物の咆哮でもない。
物理的な法則そのものが衝突し合っているような、異質なエネルギーの反動音であった。
「この轟音……ただ事ではない。方位、東南東! 距離はおよそ三マイル!」
ギリアムが鋭く叫んだ。
彼は即座に腰の剣を掴み、部下たちに矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「全員、野営を解け! 直ちに武装し、音の鳴る方へ進軍を開始する! ……おそらく我々が追っていた瘴気の根源に関わる事象だ!」
「ギリアム様、しかし夜間の森を進軍するのは危険すぎます!」
「四の五の言うな! このままここで控えていても、あの震源が我々の方へ来れば全滅だ。ならばこちらから正体を見極めに行く。……行くぞ、続けッ!」
ギリアム率いる王国軍調査隊は、混乱しながらも訓練された動きで撤収を終え、漆黒の森へと飛び込んでいった。
◇◇
一方、激突の真っ只中にあるラオは、顔色一つ変えずにミアスの猛攻を捌いていた。
だがその内面では、創造主への毒づきが止まらなかった。
(……チッ、器が。やはりこの肉体では、本来の機動に神経が追いつかぬ。本来の力さえあれば、指先一つであの不浄を概念ごと消滅させてやるものを……!)
ラオの背後から三本の触手が鎌のように迫る。
彼は空中で身を捻り、それを紙一重で回避したが、触手から漏れ出した瘴気が彼の白銀の皮膚を微かに掠めた。
その瞬間、彼の皮膚はどす黒く変色し、ボロボロと表皮が剥がれ落ちる。
「……我に土をつけようというのか。ゴミの分際で、増長するな」
ラオの瞳に、真の怒りが宿った。
彼は両手を広げて周囲の魔力を強引に、かつ暴力的に圧縮し始める。
「見ていろ。本来の千分の一も出せぬが、貴様のような路傍の石を砕くには……これで十分だ」
白銀の光が、大森林の深奥を真昼のように照らし出す。
破壊の意志を込めた神罰の光が、瘴気の子供へ向かって解き放たれようとしていた。
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