第29話 不潔な風、平穏な日常
聖都からの長い馬車の旅を終え、ラオたちの視界にようやく見慣れたセステアの丘が見えてきた。
夕陽に照らされる、セステアの町外れの丘に立つ教会は、いつも通りの穏やかな静寂に包まれているようだ。
だが馬車の窓から外を眺めていたラオの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……ぬ。……風が、不潔だ」
鋭さを取り戻してきたラオのその感覚に纏わりつくのは、かつてアイゼン砦で嗅いだ魔獣の死臭ではない。
もっと聖都を出てから続く、あの大森林から漏れ出している根源的で、触れることすら躊躇われるような不快感。
創造神が創り出した数え切れないほどの世界を掃除してきた彼でさえ、即座に正体を断定できない『未知の澱み』が南方からの微かな風に混じっている。
「――あ! 戻ってきた! リオラ姉ちゃんとラオ君、それに神父様だーっ!」
教会の門が見えるなり、見張りをしていた子供の一人が声を張り上げた。
すると教会の門が勢いよく開き、七人の孤児たちが弾かれたように飛び出して、ラオ達が乗る馬車の周りへと集まり出す。
「リオラ姉ちゃーん! お土産はー!?」
「神父様、おかえりなさいっ!」
「これこれ、危ないよ」
手綱を握るサミエル神父が子供たちを促すと皆、再び教会の門の方へと戻っていく。
門には子供たちの中心で、神父たちが留守の間、用心棒兼世話係として教会に寝泊まりしていたこの孤児院の出身であるアステミア王国軍人のグリハンが、すっかり板についたエプロン姿で嬉しそうな笑みを浮かべて立っていた。
「おかえりなさい。サミエル神父。リオラ。ラオも元気にしてたか? ほらお前ら、危ないから少し下がれ。馬車が完全に止まってからだぞ」
グリハンの周りで子供たちがまた馬車に近付こうとするのを制止する。馬車の窓からリオラが身を乗り出してグリハン、子供たちに手を振る
「グリハンお兄ちゃん、ただいま! みんなも、寂しくなかった!?」
リオラが馬車を降りるなり、子供たちがその裾や腕に鈴なりにぶら下がる。彼女の慈愛に満ちた無邪気な笑顔が、夕暮れのセステアを温かく照らした。
グリハンは「ああ、みんなお前の料理が恋しくて毎日騒いでたぞ」と彼女の肩を優しく叩き、次に馬車を降りるラオへと視線を向けた。
「ラオ、おかえり。どうだ? 聖都は疲れただろう。今日はお前の好きな、味の濃い肉料理を用意しているからな。……さあ、中に入って。シャルロッテ様も中で皆の帰りを待ってくれてるぞ」
「……フン。筋肉、貴様のその無駄に高い生命力に溢れた歓迎は、今の我には少々眩しすぎる。……だがその肉の香りに免じて、席にだけはついてやろう」
「ははっ、相変わらずだな。ほら、お土産の荷物は俺が持つから、先に中でみんなと顔を洗っておいで」
ラオはいつものように彼を「筋肉」と呼びつつも、子供たちの温かな喧騒に毒気を抜かれたように息を吐いた。
そこへ教会の奥から柔和な笑みを湛えたサミエルの妻メアリが帰って来た三人を出迎える。
「お帰りなさい、あなた。リオラちゃんも、ラオ君も。……無事に戻ってきてくれて、本当に安心しました」
「ホッホッホ、ただいま戻りましたよ、メアリ。皆、変わりありませんでしたかな?」
サミエル神父はメアリの元へ歩み寄ると、その手を慈しむように取った。
二人の間に流れる穏やかな空気は、長年連れ添った夫婦ならではの深い情愛に満ちている。サミエルは愛おしそうに子供たちの頭を撫でながら、メアリと共に教会の中へと歩みを進めた。
◇◇◇◇
その夜。
教会の食堂でリオラが買ってきたお土産を広げ、夕食を前に食堂に残った子供たちが狂喜乱舞していた。
ラオは一人、その光景が窓から見える裏庭の古びたベンチに座り、南の空を睨みつけていた。
(……聖都を出る時、街道ですれ違った口髭。あの男もこの不潔な汚れを感じていたか……。大森林の膿がついに弾けそうだな……)
ラオの脳裏に、かつて遠見で捉えた「瘴気の卵」がよぎる。だが今感じているこの感覚は、単なる魔物の増殖ではない。
(……この、背筋を這い上がるような不快感。掃除屋である我が、本能的に排除を望む種類の『汚れ』……。これが自浄出来ぬこの世界の『汚れ』か……)
破壊神であるラオが、腐った箇所を破壊し、「無」に帰す存在であるならば、今森から歩み出した「ナニカ」は、正常な細胞をすべて不浄に塗り潰そうとする異質な存在。
「……ラオ? せっかくのシチューが冷めるぞ。何をそんなに難しい顔をしてるんだ?」
食堂の窓からグリハンが心配そうに声をかけてくる。ラオは南の空を睨んだまま答える。
「……筋肉。今夜のシチューには、さらにスパイスを足せ。……不純な風が吹き荒れる前に、我が胃袋を清めておく必要がある」
「スパイスか。わかった、特別なやつを一振りしてやろう。……さあ、行こう。みんなが待ってるぞ」
食堂から出来たての料理の香ばしく温かい香りが流れてくる。
だがその香りとは裏腹に、南の空はどこまでも不気味に濁り続けていた。
修復不能な「不浄」が大きくなるのを感じながら、ラオはベンチを立って、『平穏な日常』が溢れる食堂へと戻っていった。
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