第28話 黒き胚の孵化
大森林の最奥……光さえも届かぬほどに木々が重なり合う禁域。
そこには太古より手付かずの静寂が支配しているはずだった。だが今のこの場所を満たしているのは得体の知れぬ『胎動』と、肺を焼くような濃厚な『瘴気』の異臭である。
音もなく、その禁域に五つの影が動いた。
帝国軍第一皇子直属、将校ヴァルガスが放った隠密部隊の精鋭たちだ。
彼らは高度な認識阻害の魔導具を使い、森の魔物を欺きながら、この異変の源流へと辿り着いた。
「……あれか」
リーダー格の男が、遮光ゴーグルの奥で目を細めた。
切り立った崖の下、歪にひび割れ焼け焦げた地面にそれは鎮座していた。
『黒い塊』
高さはニメートルほど。岩のようでもあり、拍動を止めた心臓のようでもあった。
だが脈動するたびに黒い煙のような瘴気が周囲に撒き散らされ、触れた木々は一瞬でドロドロと腐り落ち、不浄な粘液へと変わっていく。
「報告にある通りだ。人知を超えた高密度のエネルギー体……。これを回収できれば、ヴァルガス閣下の魔獣兵団の魔獣は更なる領域に達する」
隠密たちが武器に手をかけ、塊を包囲しようとしたその時……背後の茂みから、場にそぐわない欲望に満ちた声が響いた。
「おい、見ろよ! あれじゃねえか!? 『黒い宝玉』ってのは!」
現れたのは欲に目が眩んで未踏の森の深部まで踏み込んだ、数人の冒険者たちだった。彼らは帝国の精鋭の存在にすら気づかず、目の前の「富」に吸い寄せられるように駆け寄っていく。
「これ一つで一生遊んで暮らせるぜ……! 待ってろよ、今すぐ切り出してやるからな!」
隠密たちは即座に身を隠し、暗器を抜いた。
(愚か者が。……帝国の獲物に触れる前に、こいつらをここで始末する)
彼らが冒険者の背後から死の牙を剥こうとした、その刹那だった。
**――ドク、リ。**
世界が脈打った。
『黒い塊』が生き物のように大きく蠢き、表面に無数の「亀裂」が走る。
次の瞬間、塊から溢れ出したのは、物理的な衝撃を伴う『汚染』であった。
「ぎゃあああああああっ!?」
塊に手をかけようとした冒険者の腕が、触れた箇所から黒く変色し、瞬く間に腐敗して崩れ落ちた。
絶叫を上げる間もなく彼の身体は黒い瘴気に飲み込まれ、ドロドロとした「汚れ」そのものへと成り果てた。
他の冒険者たちも同様だった。逃げる暇もなく、ただ「存在」そのものを汚され、理を、命を剥奪されていく。
塊から溢れ出した黒い泥のような物質が次第に一点へと収束し、形を変えていく。
そこに現れたのは、あまりにも「無」に近い――『一人の子供の姿』であった。
真っ白な、雪のように冷たい髪。
漆黒の夜をそのまま布にしたような、禍々しい衣を纏い、ただ静かに立っていた。
十歳ほどに見えるその子供は、男とも女ともつかない中性的な美しさを湛えていた。だがその瞳には魂の光が一切宿っていない。
それはすべてを拒絶し、すべてを『汚れ』で塗り潰そうとする、底なしの『虚無の目』であった。
ラオが腐敗した世界を「無」へと掃除(破壊)し、新たな創造の場を整える者であるならば、この子供は世界の『腐敗』そのもの。
目的は破壊ではなく、世界の全領域を不浄に染め上げ、永遠の汚染に沈めること。
子供の虚無の目が、ぐるりと辺りを見回す。そして周囲の闇に潜んでいた帝国の隠密たちへと、首を傾ける。
「…………」
言葉はない。ただその存在自体が周囲の空間を腐らせ、隠密たちの認識阻害を無効化していく。
隠密たちは、自分たちの隠密行動が完全に看破されていることを悟り、一斉に飛び出した。
「囲め! あれを野放しにするな!」
帝国精鋭の波状攻撃。暗器、魔法、毒、そして魔導具。あらゆる殺意が子供に集中した。
しかし、それは戦闘と呼べるほど長くは続かなかった。
子供が、小さく右手を掲げた。
たったそれだけの動作で、隠密たちの放った攻撃は『不浄』へと変質した。
飛来する矢は腐った木片に、放たれた火炎は黒い汚泥に。
そして――斬りかかった男たちの肉体は、内側から瘴気が噴き出し、自分たちの剣で自分を切り裂く「狂気」へと塗り替えられた。
断末魔すら響かない。
ただ肉が腐り落ち、骨が泥に沈む音だけが、静かな森に虚しく響く。
数秒後。
周囲には先ほどまでの「精鋭」たちの名残である、不浄な粘液の海だけが残されていた。
子供は、自分の指先から立ち上る瘴気を、感情の欠落した瞳で見つめた。
「…………行か……なきゃ」
一言だけ、掠れた声で呟く。
この世界を果てまで汚し抜くために。
その視線の先には大森林の深い闇だけが広がっている。
子供は血と泥の海を汚れることなく歩き出した。
その足跡が刻まれるたび、周囲の植物は枯れ、森は色を失っていく。
世界の『澱み』から生まれた化身が、ついにその汚染の歩みを開始した。
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