第27話 厄災の予兆
聖都アステミアの喧騒がどこか湿り気を帯びたものへと変わりつつあった。
南の大森林から流れ込む微かな風が、教会の清浄な香油の匂いを汚し、敏感な者たちの肌を粟立たせる。
大教会の石壁さえも、迫りくる災厄を予見して冷たく強張っているかのようだった。
月明かりが照らす大教会宿舎の一室で、そんな空気とはまた別の緊張を周りにまき散らしている少女がいた。
「……あわわ、また間違えた! 聖典の三ページ目が緊張で、読めない……っ!」
リオラは明日に控えた「研修最終通過儀礼」を前にガチガチに固まっていた。
戦争孤児であるリオラは今年で十七歳となる。サミエル神父に師事し、神官見習いとなってもう五年以上が経つ。
まだあどけなさが残る面持ちではあるが、彼女の内面から出る優しい聖女のような温かさと慈愛の心はもう十二分に神官として相応しいものだった。
それでも彼女は明日の神官見習いとしての最後の儀礼を控えて、少し冷静さを欠いていた。見かねたサミエル神父が優しく声をかける。
「おやおや、リオラさん。そんなに肩に力を入れては、せっかくの信仰心も逃げてしまいますよ」
サミエル神父は明日、大司教として儀礼を執り行う立場だが、その声は緊張に震える孫を優しく支えるように温かかった。
「……フン。リオラ、貴様のその小ヌルい震えのせいで、我の椅子まで共鳴しているぞ。ただの音読会ではないか。貴様がいつも子供たちに読み聞かせている、あの抑揚のない朗読よりはマシなはずだ」
ラオは窓辺で腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ラオ君、ひどい! 一生懸命練習してるのに……! ……でもそうやっていつも通りだと言われると、少しだけ落ち着くわね……」
リオラは深く息を吐き、ようやく聖典を閉じた。彼女の瞳には不安を押し殺した決意が宿っている。
◇◇◇◇
翌日。
最終儀礼を無事に、そして完璧に終えたリオラ。
大司教として幾人もの信徒の儀礼をつつがなく進行させたサミエル神父。
聖都での行事を全て終えた一行は、ついに聖都を離れることとなった。
大教会の正門前には、昨夜までの酒の匂いを微塵も感じさせない清涼な顔立ちのベッキーが立っていた。
「――っしょ! リオラちゃん、最終儀礼お疲れっしょ! あんたなら辺境の教会を立派に守っていけるっしょ!」
「ありがとうございます、ベッキーさん! いろいろお世話になりました!」
感謝を伝えるリオラの清々しい笑顔に、ベッキーは満足げに頷く。そしてラオの前に屈み、目線の高さを合わせるとその頭をクシャクシャと撫で回した。
「ラオ君も、また遊びに来るっしょ。あんたみたいな『可愛くないガキ』、嫌いじゃないっしょ」
「……触るな、破戒僧。貴様こそ、次に会う時までにその神官らしからぬ語尾が矯正されていることを願うばかりだ」
ラオはフンと顔を背けたが、その手は無意識にベッキーから渡された「お土産」の肉の燻製をしっかりと握りしめていた。
◇◇
馬車が聖都の南門を抜け、セステアへと続く街道に差し掛かったその時。
反対側から土煙を上げて進む一団があった。
王国の紋章を掲げた、鉄の規律を感じさせるアステミア王国軍。
その先頭を走る騎馬の鞍上には、冷徹な理性を鎧の下に隠した男、ギリアムがいた。
「――止まれ」
ギリアムの声一つで数十騎の軍勢がピタリと動きを止める。
すれ違う馬車の窓から一人の少年が自分を見つめていることに、ギリアムは気づいた。
黒髪の少年、ラオ。
アイゼン砦で「戦局を支配した何か」を感じさせた存在。
「…………」
「…………」
ギリアムはただその鋭い眼光をラオに突き返し、心の底で疑念を深めていた。
(……あの少年、聖都にいたのか。教会で見せたあの少年の力。今、森の中で起きているこの異変にこの少年が関わっているのか? もしや異変そのものを呼び寄せたのは……)
対するラオもまた底知れぬ銀色の瞳でギリアムを見据え、内心で鼻を鳴らす。
(……行くのか、**口髭**。あの瘴気の塊、貴様らでは手に負えん……せいぜい無様に死んで、我が食事の味を落とすなよ)
「――進めッ! 大森林へ急行する!」
騎馬の音が遠ざかっていく。
ラオは馬車の背窓からギリアムたちが向かう南の空を見つめた。
空は不気味に濁り、太陽の光さえも瘴気に吸い込まれようとしている。
ラオと同じように王国軍の背中を見送っていたリオラが、手綱を握るサミエル神父に問い掛ける。
「あんなにたくさんの軍人さん……。何かあったんでしょうか?」
「そうかもしれません。私たちも少し家路を急いだ方がいいかもしれませんね」
サミエル神父は目を細め、馬車の速度を早める。
破壊神の聖都への旅は終わりを告げ、物語の舞台は謎の瘴気が蠢く大森林へと動き出した。
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