写っていないもの
夜だった。
凛が帰宅すると、夫は食卓に何も並べていなかった。
テーブルの上に、白い封筒だけが置かれている。
「話がある」
その声は穏やかだった。
凛は座る。
夫は封筒から一枚の写真を取り出した。
古い光沢紙。
端が少し黄ばんでいる。
崖の下。
救急隊員。
白いシート。
そして――
子どもの背中。
凛は息を止める。
それは、私だ。
泥だらけのスカート。
両手を胸の前で握っている。
顔は写っていない。
ただ、手だけがはっきりしている。
爪の間まで黒い。
「……いつの」
「事故の日」
夫の声は低い。
凛は写真を握る。
そこに、押す瞬間はない。
落ちる瞬間もない。
ただ、“後”だけがある。
「私……最初に見つけたの?」
夫は答えない。
「覚えてる?」
凛は首を振る。
写真の中の自分は、泣いていない。
ただ、じっと崖の下を見ている。
その立ち位置。
崖の縁に近すぎる。
救急隊員よりも前。
まるで。
落ちる瞬間を知っていたかのように。
「あなたは悪くない」
母の声が蘇る。
悪くない、という言葉は。
何かを前提にしている。
凛は写真を裏返す。
日付だけが書いてある。
時刻はない。
決定的な証拠は、どこにもない。
ただ。
写っていないものがある。
兄の表情。
落下の軌道。
手の動き。
その空白に、凛の記憶が流れ込む。
振りほどいた。
押していない。
でも、離した。
助けなかった。
16時42分。
その数字が、写真の裏から浮かび上がるように感じる。
凛はゆっくり顔を上げる。
「あなたは、どう思ってるの?」
夫は長く沈黙する。
そして言う。
「……覚えていないことは、罪じゃない」
それは慰めか。
それとも。
確信か。
凛は写真をテーブルに戻す。
自分の手を見る。
もう泥はない。
だが。
感触は、消えていない。




