十六時四十二分
凛は、腕時計を合わせた。
16時30分。
崖へ向かう道は、昔より舗装されている。
だが風の匂いは変わらない。潮と、乾いた草の匂い。
16時38分。
足元の石が転がる。
兄はよく転んでいた。
違う。
そう言い聞かせる。
16時41分。
崖の縁に立つ。
海は遠い。
思っていたより、ずっと遠い。
16時42分。
風が、背中を押す。
凛は一歩、前に出る。
あの日も、こうだったのか。
兄はどこに立っていた?
私の前?
横?
それとも――
記憶が、曇る。
声が聞こえる気がする。
「やめて」
誰の声?
私?
兄?
16時43分。
凛は目を閉じる。
手を伸ばす。
空気に触れる。
柔らかい布の感触。
違う。
それは風だ。
16時44分。
彼女の足が、石を蹴る。
小さな音。
転がる。
落ちる。
その音は、あまりに軽い。
兄の体重は、もっと重いはずだ。
凛は、ふいに気づく。
私は。
背中を押していない。
正面に立っていた。
兄は、私を掴んだ。
バランスを崩した。
引かれた。
私は、振りほどいた。
その瞬間。
手のひらに残った。
布の感触。
引きはがす力。
押したのではない。
離した。
だけ。
16時45分。
凛は膝をつく。
もし、そうなら。
死亡推定時刻16時42分。
兄は、その瞬間に落ちた。
私は。
そこにいた。
家に戻った記憶は。
後から作った。
時間を、ずらした。
十二分の空白。
それは、町が作ったのではない。
私が、作った。
16時46分。
凛は、ゆっくり崖の縁を覗き込む。
下に、誰もいない。
当然だ。
だが彼女は理解する。
この町では死体が消えるのではない。
消えるのは。
都合の悪い時間だ。




