記録
役場の戸籍課は、朝が早い。
凛はいつも通り、端末を立ち上げる。
湯気の立つ紙コップを脇に置き、死亡届の束を開く。
数字。
日付。
氏名。
淡々と処理する。
この町では、人はきちんと死ぬ。
記録され、整理され、ファイルに収まる。
消えることなど、ない。
画面に兄の名前を表示する。
死亡年月日。
死亡推定時刻。
16時42分。
修正欄はある。
空白だ。
申請すれば変更できる。
医師の証明はない。
再検証もできない。
だが、家族の申立てで補足は可能だ。
凛はカーソルをそこへ移動させる。
指が止まる。
もし17時に直せば。
もし発見時刻に近づければ。
私は、そこにいなかったことになる。
私は、振りほどいていないことになる。
私は、悪くないことになる。
だが。
それは、何を消すのだろう。
事実か。
時間か。
それとも。
自分か。
凛は、そっとカーソルを戻す。
保存。
変更なし。
画面が静かに切り替わる。
記録は、そのまま残る。
16時42分。
凛はふと、思う。
昔、誰かが言った。
この町では、死体が消える、と。
兄の遺体は、棺の中で閉じられたままだった。
私は見ていない。
確かめていない。
だから私は、ずっと信じていた。
この町では、死体が消えるのだと。
けれど違う。
消えていたのは、死体ではない。
あの瞬間の、十二分。
振りほどいた感触。
見て見ぬふりをした時間。
それだけが、きれいに抜け落ちていた。
町は何も消していない。
母も。
夫も。
誰も。
消していたのは、私だ。
凛は保存ボタンを押す。
16時42分。
数字が確定する。
この町では、死体は消えない。
消えるのは——
思い出せないふりをした時間だけだ。




