⑦ それは、恵みをもたらすべき
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ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。
「……うぁ」
ガラス窓を打ち付ける弾丸の様に激しい雨粒の音で京香は目を覚ました。
目が覚めた瞬間、京香の頭を上げられなかった。
ズーーーーーーーーーーン。脳の半分がカビてしまったかの様な酩酊感に似た頭痛。一センチだって頭を上げたくない不快感。
ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。ボタボタボタボタ。
――貧血? いやその時期じゃないはず。
おかしな体調だ。ぼんやりとした頭で認識する。
指先と足先が冷え切り、痺れさえ感じそうだった。息を吸いにくい。どれだけ息を吸っても酸素が脳に行かない。吐き気さえ生まれている。
この症状を京香は覚えがある。
「え、台、風?」
シカバネ町に超大型台風が直撃した日と、今襲われている症状が類似している。
いや、それはおかしい。京香達が今居るのは〝地中海〟のモルグ島だ。台風――こちらではサイクロンやハリケーンと呼ばれている――が直撃するはずが無い。
それに昨日まではカラッとした晴天だった。空が崩れる気配すら無かった。
「おお! 起きたか! おはよう京香! 凄まじい雨だな!」
ドカドカドカ。重い足音を立てながら霊幻がベッドに寄り、京香の顔を覗き込む。
「どうした? ひどい顔色だ。ああ、なるほど本日の低気圧はえげつないからか」
「……マジで?」
「ああ、マジだ。それなりの高さの山頂並みの気圧しかない。高山病の症状が出てもおかしくない程だ」
「……なんで? というか今なんじ?」
「自然に依る物ではない。これがアネモイの不具合なのだろう。さあ、さっさと着替えてアネモイに会いに行くぞ。今は七時だ」
――アネモイの……。ああ、そういうこと?
京香は起き上がろうとした。だが体の重さは生半可な物ではなく、グググ、ポスンとその上半身がベッドに戻ってしまう。
「何をやってる京香。さっさと起きないか」
「ごめん。引っ張ってくれない?」
緩慢に少しだけ上げた両手を霊幻がグイッと引張られ、京香は何とか体を起こす。
そして、頭を押さえ、「あー」としばらく呻った。
結局、京香がベッドから降り、着替えが済んだのは三十分後だった。
*
セリアに部屋備え付けの電話をかけたらアネモイは外に出ているらしい。
気象塔を出て、ピンクと紫の傘を指しながら京香と霊幻はモルグ島を歩く。
右耳にはトーキンver5の違和感が低気圧も相まって、京香の眉根を歪ませる。
前方には黄緑色の傘を指したセリアと護衛用のキョンシー二体が居て、京香達をアネモイの元へと先導する。
ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー。
京香には未体験の大雨だった。テレビで見た南米のスコールよりも雨粒の量は多く、そして重い。愛用のピンク傘が雨粒に押され、ズシッと重かった。
ボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタ!
ボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタ!
ボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタ!
石畳の地面と傘を雨粒が叩く音が鼓膜を揺らし、すぐ近くの音も満足に聞こえない。
加えて、吐き気と目眩は収まっていない。歩くのも実は結構しんどかった。
「『ハッハッハッハッハッハ! すごい雨だぞ京香! 吾輩のデータバンクにも無い程の雨だ! これをアネモイが引き起こしているとは凄まじい!』」
「こんな時でもアンタの声は届くわねぇ」
カクテルパーティー効果なのかどうなのか分からないが、隣の霊幻の声は京香にもはっきりと聞こえた。
雨音。頭痛。目眩。それらとの折り合いを探しながら歩く事二十分。
京香達はアネモイを見つけた。
おそらくちょっとした広場だ。中央には半径二メートル程の噴水があり、それをぐるりと囲むようにして広々とした円形のスペースが開かれている。
噴水の勢いは雨の勢いに負け、水のアーチが歪んでいる。
そんな噴水の中で、小麦色のレインコートを目深に被った少年と少女の化身がチャプチャプチャプと楽しそうに歩いていた。
アネモイの周囲には誰も居なかった。あまりに強烈な雨だから、きっと島民達は家屋に引き篭もっているのだろう。
「『アネモイ! 今日は晴れの日です! 雨を止めてください!』」
ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー。
雨音に負けない様にセリアがアネモイへ声を張った。
チャプチャプ、クルリ、チャプ。アネモイはこちらへ楽しそうに顔を向けてニコニコと笑う。
「『あ、セリア! それにキョウカとレイゲンも! ねえ、見て見て! 雨だよ! 雨が降っているんだよ!』」
まるで自分が書いた絵を誰かに見せる子供の様な快活さでアネモイは分厚い雨雲を指さした。
セリアがアネモイへと近づく。その背中から彼女の表情を伺う事はできない。淡々としている様にも、あえて体から感情を消している様にも見えた。
「『ええ、ええ、アネモイ。雨です。すごい雨です。あなたが生み出した至高の雨でしょう。でも、アネモイ、思い出してください。今日は晴れの日です。気象管制室から連絡が来ました。イタリアの畑がまた一つ雨に沈んだそうです。本日、こんなに雨は要りません』」
「『雨だ、雨だ雨だ雨だよセリア! 恵みの雨だ! これでまた皆を救える! これでまた皆がご飯を食べられる! ああ、雨だよ! 雨なんだよ!』」
セリアの言葉をアネモイは聞いていなかった。音声としては届いているのかもしれない。だが、返答はちぐはぐで、レインコート越しに両手を広げて雨を享受している。
――……これが、不具合か。
京香にとってキョンシーが壊れるのは大抵戦闘の中の破損が原因だ。だから、純粋な脳の寿命に依る不具合を間近で見たことが無い。
チャプチャプチャプ。チャプチャプチャプ。チャプチャプチャプ。
ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー、ザーーーーーーーーーーーーーーーー!
また、雨が強くなった。もはや勢いは滝のような勢いで、強く柄を握らなければ傘が地面に落ちてしまいそうなくらいだ。
そんな雨の中。只一人、アネモイだけが笑顔だった。
「『ね、アネモイ、お願い。この雨雲を晴らして』」
ザブ。セリアはアネモイと同じように噴水の中に入り、膝下までが水に埋まる。
アネモイはニコニコと笑ったままだった。
「『さあ、セリア! ぼくに祈って! そうすればぼくはいくらでも雨を降らしてあげる! そうすればきっとみんなが幸せに成れる! だって恵みの雨なんだから!』」
雨の伴奏会。アネモイだけが祈りを込めて天に笑う。
「ハッハッハ! なるほど、これは撲滅するべきだな!」
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
「………………そうね」
霊幻の狂笑に京香は眼を細めた。




