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異世界で空から落ちた俺、銀髪の魔女に拾われました。――彼女は家を飛ばせるのに、椅子ひとつ直せません  作者: 芦名 雅


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第9話 半分だけの声



 研究所へ向かう朝、ミルカは髪を何度も結び直した。いつものように首の後ろへまとめ、一度ほどき、今度は少し低い位置にする。食卓からそれを見ていた俺は、三回目で声をかけた。


「結びにくい?」


「今日は、少し。ハルトのお母さんと話すかもしれないでしょ」


 俺は箸ではなくスプーンを持ったまま、動きを止めた。


「顔は見えないんじゃないかな」


「それはそうだけど、だから何でもいいっていうのも違うと思う」


 彼女は髪を結び終え、こちらを向いた。今日の上着は、初日に着ていた灰色のものだった。細い銀の髪留めが耳の後ろに見える。俺の母に会うわけではなくても、きちんとしたいという彼女の気持ちは、茶化すものではなかった。


「俺も、母と話せたら、ちゃんと紹介する」


「うん。声が届いたらでいいから」


 ミルカは椅子へ座った。朝食のパンは昨日の残りだ。俺たちはいつもより少しゆっくり食べた。急いで研究所へ行けば、連絡が確実につくわけではない。約束の時刻があり、相手も準備している。


 エルネストさんは昨日と同じ部屋で待っていた。机の上に黒い石が三つ増えている。俺の時計と照らし合わせ、どの位置で反応が強くなるか調べるという。ミルカは隣の椅子へ座ったが、実験室へ入る前に、同行していていいかと尋ねた。


「はい。ただし、観測中は術を使わないでください。風の流れが変わると、晴人さんの痕跡との区別が難しくなります」


「分かりました」


 彼女は手を膝の上へ置いた。いつも指を動かせる場面で、今日は動かさない。俺は時計を外して渡し、そのあとでスマートフォンと工具を並べた。エルネストさんは一つずつ石へ近づけ、反応を記録した。


 時計が一番はっきり光り、工具も少しだけ反応した。スマートフォンは弱い。道具の性能や値段で決まるものではなく、来た時に境界の流れをどんなふうに受けたかによるらしい。俺にはその瞬間を選べなかったが、選べなくても残ったものがある。


 観測が終わると、エルネストさんは部屋を出て、しばらく戻らなかった。机の上に俺の時計が置かれている。預けたまま待つことには慣れていない。父の店でも、直しに来た客は同じように待っていたのだろうかと思った。


 ミルカが水差しへ手を伸ばした。俺のコップにも少し足してくれる。


「喉、乾いてない?」


「ありがとう」


 俺は飲んだ。最初の日と同じ言葉を言いそうになり、やめた。彼女は今、喉が乾いている俺へ水を足してくれた。それだけで十分なことでもある。


 エルネストさんが戻ってきた時、表情は昨日より少し明るかった。だが最初に、難しい点から説明した。


「声を届けられる接点が、今日の昼前に短く現れそうです。ただし、必ず家族の方へ届くと保証はできません。接続先は、晴人さんがこちらへ来た場所です」


「塔へ?」


「はい。時計の痕跡はその場所へ向いています。そこに誰かいれば、声を聞いてもらえる可能性があります」


 俺は母の電話へ直接つながるのだと思いかけていた。そういう都合のいい仕組みではない。塔の二階の踊り場。管理人が掃除する時以外、長く人がいる場所ではなかった。


「こちらから呼びかけられるんですか」


「試みます。向こうからの声をこちらで聞けるかも、まだ不安定です。時間は長くて一分ほど。その間に伝えることを、決めておきましょう」


 俺は紙を取り出した。今の場所、怪我がないこと、帰る方法を探していること。だがその全てを知らない人へ一分で伝えても、信じてもらえるとは限らない。塔の管理人なら、まず俺の名前と、来るはずだった仕事の話が通じる。


 父の店の電話番号を書いた。誰かが聞いてくれたら、そこへ無事を伝えてほしい。家族にしか分からないことも一つ入れた。店の引き出しに、父が折った眼鏡のつるが入っている。母は捨てようと言っていたが、父は修理の部品にするからと残していた。俺がその話をすれば、少なくとも名前だけの嘘とは違う。


 ミルカは横から紙を見ていた。文字は読めなくても、俺が考え込んでいることは分かったらしい。


「一番伝えたいのは、無事なことだよね」


「うん。でも、信じてもらえるか」


「知らない人が聞いたとしても、家族へ連絡してくれるといいね」


 俺は頷いた。信じる人が必ずいる、と彼女は言わなかった。俺も、信じてもらえなければ全部無駄だと思うのをやめた。声を出すことができるなら、まず届ける。そのための準備をする。


 昼前、実験室へ移った。庭の柵の内側にある小さな石を、窓越しに見られる部屋だった。机の上に細い金属の環が載り、その間へ俺の時計が置かれる。エルネストさんが窓を閉めた。部屋の風を動かさないようにするためだという。


 俺は椅子へ座らず、机の前に立った。ミルカは少し後ろ、壁側へ下がる。彼女が近くにいることは分かるが、今は見ている余裕がなかった。


 環の内側へ薄い光が浮いた。最初は時計のガラスに反射しているのかと思ったが、青い線が机の上に伸び、ゆっくり丸くなった。エルネストさんが何かを確かめ、俺へ頷く。


「呼んでください」


 俺は息を吸った。


「聞こえますか。三枝晴人です。塔の管理人さん、誰かいますか」


 部屋に自分の声が響いた。返事はない。エルネストさんが環の端へ手を添える。青い線が少し揺れた。


「聞こえた人がいたら、高瀬町の三枝家具へ連絡してください。俺は生きています。怪我はありません。帰る方法を探しています」


 番号を言った。早く言いすぎないよう、一つずつ。声の届く長さが分からないので、もう一度繰り返す。喉が少し渇いたが、水を飲む時間はなかった。


 青い線の向こうで、何かが鳴った。靴の音に似ている。俺は口を閉じ、耳を澄ませた。


「……誰、だ」


 声だった。小さく、途切れている。それでも俺には聞こえた。日本語だった。こちらでミルカと話す時とは違い、ずっと聞いてきた生の音に思えた。


「三枝晴人です! 家具屋の。椅子の寸法を測りに来るはずだった」


 向こうの声が少し大きくなった。


「晴人、君か。……あんた、今どこに」


 管理人の声だった。仕事の相談で父の店へ何度か来たことがある。俺はもっと早く名前を言えばよかったと思い、その後で、さっきも言ったことを思い出した。聞こえ方が違うのだ。こちらの声が全部届いているとは限らない。


「そちらへ戻る方法を探してます。父へ伝えてください。無事です。怪我はない。電話で連絡できないところにいるんです」


 自分でも説明として足りないことは分かった。だが異世界で銀髪の魔女に救助されたと一気に言えば、無事だという部分まで怪しく聞こえるかもしれない。


 エルネストさんの指が、環の縁で動いた。眉が寄る。残り時間が少ないらしい。


「三枝さんには、……もう。毎日、来て」


 途切れた声が聞こえた。父が毎日塔へ来ているのか。聞き返そうとした時、向こうで別の声がした。高い、よく知った声だった。


「晴人?」


 母だ。俺は机へ手をついた。


「母さん!」


「晴人、どこにいるの。大丈夫なの」


 母の声は大きかった。それでも途中で音が細くなる。俺は喉へ詰まったものを飲み込み、言うことを短くした。


「大丈夫。怪我はない。帰る方法を探してる。今、助けてもらってて、食べる物も寝るところもある」


「どういう……。迎えに行くから、場所を」


「今は来られない。俺も詳しいことがまだ分からないんだ。もう一回、連絡できるようにしてもらう。父さんに、店の鍵、俺が持ってるって」


 その言葉で、向こうに一瞬だけ静けさがあった。それから母が、泣くように笑った。


「鍵なんて、……そんなの、いいから」


 青い線が細くなった。俺は時計へ視線を落とし、また顔を上げる。あと何秒か分からない。


「母さん、助けてくれた人がいる。ミルカっていう人。今もここに」


 俺が振り向く前に、ミルカが一歩前へ来た。エルネストさんの方へ目を向け、彼が頷くのを見てから口を開く。


「ミルカです。ハルトさんは、今、私の家に泊まっています。無事です。ちゃんと、ご飯も食べています」


 いつもの声より丁寧だった。俺の隣で、彼女は両手を下ろして立っている。母の声が返る。


「ありがとう……。その子を、どうか」


 その先は聞こえなかった。光が途切れた。部屋には、俺の呼吸と、机の環が小さく鳴る音だけが残った。


 俺はすぐにもう一回つながるか聞いた。エルネストさんは首を振る。接点が閉じた。今無理に流れを伸ばしても、同じ場所へ届くとは限らないという。


 俺は時計を見た。針は普通に動いている。母の声を聞いた一分の間も、その針は止まっていなかった。できるだけ短く言おうとしたのに、言い切れなかったことが山ほどある。父と妹のこと。仕事のこと。俺がどんな世界にいるか。彼女の書いた字のことさえ伝えられなかった。


 ミルカが横へ来た。すぐには何も言わず、机の端に水のコップを置いた。俺はそれを見て、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。


「お母さん、聞いてくれたね」


「うん」


「無事だって、伝わった」


 俺は頷いた。もう一回、と思う気持ちは消えない。それでも聞こえた声の中で、母は俺の名前を呼んでいた。迎えに行くと言った。俺が生きていることを、確かに知った。


 コップを持ち上げると、喉の奥が痛くなった。泣かないつもりだったわけではない。何をすればいいか分からず、ただ水を飲んで、少し下を向いた。ミルカは隣の椅子を引いた。俺が座ると、彼女も一つ離れた椅子へ座る。


 しばらく、誰も次の質問をしなかった。エルネストさんは環を片づけ、時計を俺の近くへ戻してくれた。俺はそれをつかみ、手首へ戻した。父が直した時計で母の声を聞いた。それを父へ話せる日を、もう一度ちゃんと作りたかった。


 落ち着いてから、エルネストさんは次の観測について話した。今日と同じ接点が大きく開く周期を確かめる。声が届いたことは、人が通れることをまだ保証しないが、方向の確認はできた。向こうに人がいて、こちらの声を聞いた。その事実は大きい。


 俺は次の日程を尋ねた。すぐに確定はできない。今日の記録をまとめ、これまでの風脈と比較する必要がある。俺たちは数日、サイラに留まっても、アルトへ戻って待ってもいいという。


「次の連絡の時には、向こう側の人にも準備をお願いできるかもしれません。場所を固定する標石のことも、順を追って考えましょう」


 昨日見せてもらった二つの石を思い出した。帰る道と、もう一度来る道。まだ可能性でしかないが、今日、声はその間を通った。俺は母が塔へ来ていたことも含めて、聞こえた内容を伝えた。エルネストさんは全部記録してくれた。


 研究所を出る前、ミルカへ礼を言った。彼女は俺の母と話したことを思い出し、少し不安そうに首を傾げる。


「ちゃんと伝わったかな。私、ハルトさんって言った。普段は、ハルトって呼んでるのに」


「大丈夫。母さんも、ありがとうって言ってた」


「うん。聞こえた」


 彼女はそれで少し安心したようだった。俺は彼女が昨日書いた晴の字のことを伝えられなかったと謝った。ミルカは首を振る。


「それは今じゃなくていい。お母さんが聞きたかったのは、ハルトが無事なことだから」


 彼女は自分の言葉に少し戸惑ったように目を伏せた。俺も黙った。母が俺を待っている。そのことを俺よりはっきり聞いたのかもしれない。


 家へ戻る道で、ミルカは昨日より静かだった。疲れたか尋ねると、歩いたまま少し考える。それから、疲れたのとは違うと言った。


「お母さんの声、聞こえたら、急にちゃんと分かった。ハルトが帰る場所に、待ってる人がいるんだって」


「前から、話してたけど」


「うん。知ってた。写真も見た。でも、呼ぶ声を聞くのは違った」


 俺には、その違いがよく分かった。家族の写真を見るのと、俺の名前を呼ぶ母の声を聞くのは違った。ミルカにとっても、俺の説明だけだった人が、声を持つ人になったのだ。


「帰れるといいねって、今、ちゃんと思ってる」


 彼女は言った。俺は頷こうとして、彼女がまだ何か言いたそうなことに気づいた。市場の角で立ち止まり、隣へ向く。


「でも?」


 ミルカはすぐに答えなかった。通りを荷車が過ぎる。彼女は道の端へ寄り、鞄の紐を握り直した。


「帰ったら、この家はまた一人になるなって、思った。それも本当」


 俺は、そこへ帰らなくてもいいと返すことはできなかった。そんなことを言えば、今日聞いた母の声を無視することになる。だが、すぐに帰ると決まったわけじゃないから、と軽く済ませるのも違う。彼女は将来のこととして、寂しいと話してくれた。


「俺も、こっちの暮らしがなくなると思うと、寂しいよ」


「まだ、一週間くらいなのに」


「一週間でも、毎朝一緒に起きてる。卵を分けて、買い物して、今日も帰る場所がある」


 ミルカは顔を上げた。俺が何を言おうとしているか、聞くつもりの目だった。


「だから、戻ってこられる方法も、ちゃんと知りたい。今はできると決まってないけど、帰ることだけ聞いて終わりにはしたくない」


 彼女は少し口を開き、それから閉じた。鞄の紐を握る手が緩んだ。


「じゃあ、それも一緒に聞こう」


「うん」


「私、帰れない方がいいとは思ってないから。そこは、ちゃんと覚えておいて」


 俺は覚えていると答えた。ミルカは俺の隣へ戻り、止まっていた歩幅を少し広げた。


 俺たちは市場の端で果物を二つ買った。今日はミルカが払った。研究所で何度も水を飲んだのに、何か味のあるものを食べたかった。帰り道、彼女が一つを俺へ渡す。初めて買った時と同じ、小さな丸い果物だった。


 家へ戻り、玄関の鐘を鳴らした。ミルカが扉を開け、俺も後ろから入る。二人とも、ただいまと言った。今日は母の声を聞いたあとで、この家へ帰ってきた。そのことを誰かに許してもらう必要はないと、少しだけ思えた。


 午後、押し花の紙を開いた。最初に工具箱で見つけた花は、薄く平らになっていた。黄色い花弁の端が一枚欠けている。ミルカは指でつままず、紙ごと持ち上げた。


「残った」


「うん。ちゃんと乾いてる」


 彼女は花を見て、それから俺へ目を向けた。帰る前に一緒に開けてほしい、と言われた約束を、今日果たせた。大きな帰路はまだ見えない。それでも小さい約束まで全部待ち続ける必要はなかった。


 ミルカは花を祖母の旅行帳へ挟んだ。どのページか尋ねると、まだ何も書いていない後ろのページだった。


「これから行った場所を、私も書くの。今日のサイラのことも」


「研究所?」


「うん。それから、ハルトのお母さんと話したこと。字を教わったことも」


 俺は自分の日本語のメモを出した。今日聞いた母の声を、できるだけ忘れないうちに書いた。ミルカも帳面を開き、こちらの文字で何かを記した。二人は同じ出来事を、違う紙へ残している。


 夕方、研究所から短い連絡が来た。次の観測結果は、アルトのラウラさんのところへも送れるという。俺たちは明日、港へ戻ることを相談した。ミルカの仕事の予定もあり、ここにずっと留まるより、連絡を待ちながら暮らす方がよさそうだった。


 俺は承知した。帰る方法のために動いた。家族へ声が届いた。次の返事を待つ間にも、皿は汚れ、食べる物は減り、ミルカは仕事へ出る。それを全部、帰還が決まるまで仮の生活だからと扱いたくなかった。


 夕食の後、彼女が明日のパンを確かめた。残りは少ない。村で買ってから出ようと俺が言うと、彼女は頷いた。それから少しだけ笑う。


「帰りの分も、二人分でいいよね」


「うん。二人分」


 ミルカは袋を畳み、台所の棚へ置いた。俺は食卓の椅子を戻す。彼女が座っていた椅子は、あの日俺が直したものだった。ぐらつきはない。手で一度確かめ、明日の朝も同じ場所へ出せるよう、机の下へ押し込んだ。


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