第8話 帰れるかもしれない
朝、ミルカは外へ出て、いつもより長く空を見ていた。俺は食卓でパンを包み、彼女が戻るまで待った。昨日二人で焼いたものだ。端の焦げた一枚は昨夜食べたので、残った分はどれも持ち運べる。
扉が開いた。ミルカの靴に、濡れた草が一本ついている。彼女はそれを取ってから、顔を上げた。
「今日は行ける。村の人にも聞いた。東の方は晴れてるって」
俺は包みの紐を結んだ。研究所へ行く道が、また目の前へ戻ってきた。急いで忘れ物をしないよう、鞄を開けて確認する。腕時計、スマートフォン、工具、日本語のメモ。ミルカは俺が一つずつ見ている間、出発を急かさなかった。
係留小屋へ挨拶に行くと、昨日預けた紙は港へ送れたと教えてもらった。研究所からの返事はまだないが、予定の変更は伝わるはずだ。俺は礼を言い、ミルカと家へ戻った。
ベル村を離れる時、ニナが母親と手を振っていた。袋は持っていない。今日は誰かへ物を運ぶ用事ではなく、俺たちの家が浮くところを見に来たらしい。ミルカは上がりすぎない高さで一度手を振り、前へ向き直った。
東へ進むと、川は横へ遠ざかった。畑の模様が丘に沿って続いている。ミルカは時々高度を変えた。下の家に風を当てないよう避け、開けた場所で速度を上げる。俺は窓の外だけでなく、彼女の手元を見るようになっていた。
「眠かったら、寝ていいよ」
ミルカが言った。俺は目をこすっていたらしい。
「ミルカは、寝られないだろ」
「私は運転してるから。ハルトが起きていても、代わってもらえないし」
「それはそうだけど」
「着いてからちゃんと話せる方がいい。今日は、ハルトの用事で来てるんだから」
彼女の言い方はやさしかったが、甘やかすものではなかった。俺が起きていることで役に立とうとするより、研究所で自分のことを説明できる方が大事だ。分かっていながら、彼女一人を操縦盤の前へ残すことに遠慮があった。
「少しだけ寝る。着く前に起こして」
「うん。窓へ頭をぶつけないように、背もたれの方へ」
俺は姿勢を変えた。目を閉じても床の動きが分かる。風の音と、ミルカの上着が擦れる音が聞こえた。彼女がここにいると分かる音だった。
起きた時、窓の外に白い塔があった。港の柱とは違い、低い建物の間から伸びている。ミルカが俺の名前をもう一度呼んだ。
「サイラ。あと少しで着くよ」
俺は椅子の背から体を起こした。眠った時間は短いと思っていたが、時計では一時間以上進んでいた。ミルカは少し疲れた顔をしている。俺が何か言う前に、彼女が操縦盤の左の輪へ指を置いた。
「降りるから、先に鞄を足元へ。着いたらお昼を食べよう」
家は町の端の係留場へ降りた。石台へ脚が載ると、ミルカが肩を落とし、伸びをした。俺は水をコップへ入れ、彼女へ渡す。彼女は受け取り、二口飲んでから椅子へ座った。
「ありがとう。ちょっと腕が疲れた」
「ずっと同じ位置だもんな」
「同じに見えて、少し動かしてるんだけどね。動かした分も疲れる」
俺たちは昨日のパンを食べた。野菜を挟むと、村で食べた時より少し落ち着いた味になっている。ミルカは二枚目を口へ運ぶ前に、こっちの方が上手に焼けたと言った。俺もその厚さを確かめ、次に作る時はこれを覚えておこうと答えた。
午後、二人で研究所へ行った。約束は翌朝だったが、到着したことを伝えておきたかった。町の道はアルトより広く、石の建物が多い。通り沿いに学校らしい建物があり、門から出た若い人たちが本を抱えて歩いていた。
俺は自分が休学していた大学を思い出した。机に模型を並べていた演習室。生活用品のデザインを学ぶ授業で、俺の作った収納箱は、取っ手の位置が低すぎて持ち上げにくかった。父の店なら直して渡せば済むところを、授業では、なぜそこへ取っ手をつけたのかまで聞かれた。答えを考える時間が好きだった。
休学の時、同じ班の友人が「戻ったら、また一緒に作ろう」と言ってくれた。来年、その机の空いた所へ座るつもりでいた。本を抱えた学生が俺の前を横切った。帰ったら確かめたい用事が、家族のいる店の外にもある。
ミルカは研究所の門で足を止めた。表札を確かめ、小さな呼び鈴を鳴らす。中庭にガラスの窓の多い建物があり、その奥に丸い石の並ぶ場所が見えた。そこだけ低い柵がある。
受付で名前を伝えると、奥から年配の男性が来た。灰色の髪が所々はね、眼鏡の片方を指で押さえている。襟の柔らかくなった茶色の上着を着た、細身の人だった。五十代の終わりくらいに見える。抱えた紙束の角だけはきれいに揃っていて、その上に、待合の俺の名前を書いた紙が載っていた。歩く速度はゆっくりだったが、俺の持つ鞄を見てすぐに頷いた。
「晴人さん。エルネスト・サイです。お手紙を拝見しました。天気が心配でしたが、来られたんですね」
声が小さく、受付の話し声に少し埋もれた。俺が一歩近づくと、彼は中庭の見える部屋へ案内した。
「こちらの部門で、漂着された方の帰還を担当しています。私は観測の方が長くて、聞きにくい時は言ってください」
説明の途中、彼は机にあった別の紙を裏返した。椅子が三脚、水差しと白い紙。俺の話を書き留める場所ができた。
「明日の約束より早く来てしまって、すみません。到着したことだけ、伝えようと思って」
「いえ。こちらも今、別の記録をまとめていたところです。少しなら、先に伺えます。ご家族への連絡を、特に希望されているんですね」
「はい。無事だということを、早く知らせたいです」
エルネストさんは紙へ何かを書いた。ミルカは隣の椅子へ座り、膝の上に鞄を置いていた。いつもより静かだ。ここは彼女の仕事の場所ではない。俺が説明するのを待ってくれている。
俺は日本で塔へ行った時のことを、メモを見ながら話した。管理人へ頼まれた椅子の寸法を測るためだった。階段の二段目の角が欠けていて、足を置く時には避けた。二階の踊り場へ上がり、手すりの向こうを見ようとしたところで、壁の色が変わった。
「どんな色に?」
「青っぽい、透明な感じでした。光ったというより、向こうが透けたみたいで」
「そのあと、音は?」
「風の音。普段の川の風より、近くで鳴ってる感じです。手すりをつかんだつもりだったけど、手が空を切って。それで、こちらの空へ」
エルネストさんは頷いたが、俺の説明だけですべて分かったという顔はしなかった。俺が覚えていることと、彼が調べる必要のあることは別なのだろう。
持ってきた道具を机へ出した。スマートフォンの画面はまだつく。家族写真を見せ、これを使って遠くの人と話せたと説明する。エルネストさんはしばらく画面を見て、その後、時計へ目を移した。
「こちらも、向こうから持ってきた品ですか」
「はい。父が直してくれたものです」
「少し、お預かりしてもよろしいですか。今、この部屋で見るだけです。明日は詳しい観測をお願いしたい」
俺は時計を渡した。エルネストさんは机の引き出しから小さな黒い石を出し、時計のそばへ置く。しばらく何も起こらない。それから、石の端に青い点が浮かんだ。
ミルカが体を少し前へ傾けた。エルネストさんは石を離し、もう一度近づけた。同じ点が見える。彼は眼鏡を直し、こちらを向いた。
「痕跡が残っています。境界を渡った品には、元の場所へ向いた流れが残ることがあるんです。この時計は、比較的はっきりしています」
「それで、帰れるんですか」
言ってから、急ぎすぎた質問だと分かった。しかし彼は急な希望を否定するためではなく、順番を選ぶように一度息をついた。
「帰還の手がかりになります。帰れると今言い切るには、もう少し調べる必要があります。ただ、過去に同じ痕跡を使って帰った方はいます」
俺は机の時計を見た。昨日までただ日本の時刻を刻んでいたものが、道の方向を残している。父が直した腕時計を持っていてよかった、と思った。だがそれがなければ帰れないのかは分からない。エルネストさんも、時計だけが唯一の方法だとは言わなかった。
「家族への連絡は、帰る前にできますか」
「短い声を届ける試みなら、帰還より軽い条件でできる可能性があります。まず観測をして、流れの接点を確かめたい。明日、そのためにお時間をいただけますか」
「お願いします」
俺の隣で、ミルカが小さく息を吐いた。顔を向けると、彼女はちゃんと頷いてくれた。俺へ無事を伝えられるかもしれないと言ってくれた朝から、まだ数日。それでも、その言葉が具体的な方法へ変わったことは、俺だけの喜びではないようだった。
エルネストさんは庭の石を見せてくれた。柵の外から眺めるだけだ。二つの大きな石の間に、小さい標石が一つ置かれている。
「標石は、場所の記録を保持します。今は観測のために使っていますが、将来、両側の場所を固定できれば、帰るだけでなく、また来る道にもできると考えています」
俺は、帰るだけでなく、という言葉で足を止めた。ミルカも石を見ている。彼女が先に聞いた。
「それは、今できるんですか」
「まだ安定した往復はできていません。片側の記録だけでは、次の周期に同じ場所を開けるとは限らない。向こう側にも標石を置き、同じ接点を観測する必要があります」
エルネストさんは現状をはっきり区切った。理論があることと、今日使えることは違う。それでも俺には、帰ったら全部終わると決まっているわけではないということが、大きかった。
「もし、両側へ置けたら。何度も行ったり来たりできるかもしれない?」
「はい。条件が合う周期ごとに。いつでも自由にではありませんし、大きな物は通せないでしょう。まずは、ご家族への声から進めましょう」
俺は頷いた。まだ実現していない道を、先に歩いたつもりになってはいけない。今日分かったのは、時計に痕跡があり、声を届ける可能性があるということだった。
研究所を出た時、午後の光は少し傾いていた。俺は鞄の中をもう一度確かめた。道具は全部戻っている。時計も手首にある。ミルカが門の前で俺を待っていた。
「よかったね」
「うん。まだ決まったわけじゃないけど」
「でも、何も分からないままじゃなくなった」
彼女はそれ以上、帰れるかどうかを尋ねなかった。俺も途中で答えのない予想を増やさず、今日聞いたことを順に確かめる。明日、詳しく観測する。条件が合えば短い声を届ける。帰還はその次。
町の道を歩くうち、ミルカの歩幅が少し狭くなった。朝から家を操縦し、その後俺の説明に付き合ってくれた。俺が疲れたかと聞くと、彼女は正直に頷いた。
「今日は、ちょっと。家へ戻ったら、先に座りたい」
「夕飯、俺が作る。材料は何がある?」
「豆と、野菜。パンはまだ少し。塩の瓶は、覚えてる?」
「そこは大丈夫」
ミルカが笑った。俺は家までの道を少しゆっくり歩いた。夕飯まで、彼女の腕を休ませたかった。
家へ戻ると、ミルカは食卓の椅子へ座り、長く息を吐いた。俺は二人分の水を注ぎ、台所で野菜を洗った。何をどこへ入れるかは、一昨日よりよく分かる。分からない豆の煮方だけ彼女へ聞いた。
「先に少し煮てある。だから、温めるくらいでいい」
「ありがとう。じゃあ、野菜と一緒に」
鍋から匂いが立つまで、彼女は目を閉じていた。寝ているのかと思って足音を小さくすると、片目を開けてこちらを見る。
「起きてるよ。そんなに忍ばなくていい」
「もう少し寝ていいけど」
「夕飯の匂いがしてると、寝にくい」
俺は笑い、皿を出した。できた煮込みを食卓へ運ぶと、彼女は椅子を寄せ、スプーンを持つ。俺の方が味見をしているのを見て、今日は塩が少ないだろうと言った。
「俺の好みに寄せた。足りなかったら足して」
ミルカは一口食べ、考える間を置いた。
「うん。私はこれも好き」
俺も一口食べた。ミルカは塩の瓶を取らず、そのまま二口目をすくった。
食後、ミルカは押し花の紙を開きかけた。もう一日待とうと言うと、彼女は素直に閉じる。俺はスマートフォンの画面をつけ、今日聞いたことを日本語でメモした。電池は九パーセント。
「明日、あれを使って家へ話すの?」
ミルカが尋ねた。俺は首を振る。
「研究所の道具を使うんだと思う。これは、家族の顔を見せるために残しておく」
「じゃあ、今夜はもう見ない方がいい?」
「うん」
俺は画面を消した。黒くなった面に、食卓の灯りが映っている。ミルカは俺のメモの紙を見た後、自分の鞄から小さな紙を出した。昨日書いた、少し形の崩れた晴の字がある。
「明日、家の人と話せたら。この字、合ってたって言って」
「字を見せられるかは、まだ分からないけど」
「じゃあ、頑張って書いたって」
彼女は少し照れたように紙を畳んだ。俺はそれを写真に撮ろうかと思い、電池のことを思い出した。代わりに、ちゃんと伝えると約束した。
その夜は、前日より早く布団へ入った。家族と話せるかもしれない。その希望があるのに、今夜眠れるのは、明日また動くために必要なことが分かったからだ。
壁の向こうで、ミルカの部屋の鍵が鳴った。俺も自分の鍵を確かめる。隣の部屋にいる人へ、今朝から何度も礼を言いたくなったが、もう寝るところを呼び止めるのはやめた。夕飯の皿は全部洗った。明日の朝、彼女が台所へ来たら、そこはちゃんと片づいている。




