第7話 雨の日は出発しない
雨が降る日は、空を飛ぶ家にも普通の屋根が必要だった。夜明け前から続く音は、地球の家で聞くのと変わらない。違うのは、今日の出発がその音で決まることだ。俺は窓のそばへ立ち、村の向こうの丘を見た。上半分が灰色に隠れている。
廊下へ出ると、ミルカの部屋の扉が開いていた。彼女は上着を羽織り、髪を結びながらこちらへ出てくる。目がまだ少し眠そうだ。
「今日は、やめるね」
朝の挨拶より先にそう言った。俺は窓の方へ顔を向けた。
「見えないから?」
「見えないのもだけど、丘の向こうで風が変わってる。起きた時に、家の周りの流れを見た。昨日より不安定だから、飛びたくない」
彼女の言葉には、俺の都合への遠慮より、自分の仕事の判断があった。それがありがたかった。俺が早く研究所へ行きたいと口にすれば、彼女が無理をするのではないかと思っていたからだ。
「分かった。明日も駄目なら、研究所へ知らせる方法を考えよう」
「うん。村の人が港へ連絡する便を出すって。今日の午前に出れば、その人に頼める」
ミルカは階段を下りた。俺も続く。彼女は飛べないことを残念がるだけでなく、返事を待っている人へ知らせる方法まで考えていた。俺は地球で父の店へ戻ると言ったまま失踪した。今度は、できる連絡をしないまま相手を待たせたくなかった。
朝食はパンと卵。ミルカが台所で卵を持ち上げた時、俺は何も言わず皿を横へ寄せた。彼女は気づいて、今朝は落とさないよと笑う。卵は無事に鍋へ入った。
「ほら」
「おめでとう」
「それ、毎回言うつもり?」
「毎回じゃない。今日は言いたかった」
ミルカは卵を返し、焼けた面を確かめた。俺の皿へ一つ、自分の皿へ一つ。最初の朝は一つを二人で分けた。今朝はちゃんと二つあった。その程度の違いを、わざわざ口にせず覚えておくこともできる。
食事の後、ミルカは係留小屋へ雨の中を出ていった。俺も傘を借りて同行した。小屋では村の人が三人、川の水位の話をしていた。昨日ニナの母親が教えてくれた上流の雨が、こちらへも来たらしい。すぐに村が浸かるという話ではないが、川沿いの低い場所へ置いた薪は移した方がいいという。
研究所へ伝える紙をミルカに書いてもらった。天候のため移動を見合わせている。明日の風が穏やかなら午後までに到着する予定、難しい場合には改めて連絡する。俺の名前もこちらの文字で書き、その隣へ自分で日本語を添えた。
紙を受け取った係留小屋の人は、川の船で港へ送ってくれると言った。飛べない日でも、船が動く場所はある。移動手段の全部が同じ条件で止まるわけではない。ミルカは帰りの道で、川が増えるとその船も止まることがあると教えてくれた。
「じゃあ、今頼んでよかった」
「うん。あとで考えようって思ってると、頼めなくなることもあるから」
家へ戻ると、上着の肩が濡れていた。ミルカは玄関で袖を絞り、床へ落ちる前に桶を持ってきた。俺が布巾を出すと、彼女は先に俺のシャツの肩へ目をやる。俺も濡れている。片方だけ世話をしている場合ではなかった。
濡れた服を替え、浴室の手前へ干した。飛行していないので、風を軽く通すことはできるらしい。ミルカが指を動かすと、袖が少し膨らんだ。俺はその風が自分の濡れた髪にも当たる位置へ立った。
「そこ、乾かしたい?」
「うん。ついでに」
彼女は自分の髪も触った。いつも銀色に見える束が、濡れると少し暗く見える。二人で浴室の前に並び、軽い風を受けた。俺は髪を揺らす程度で済んだが、彼女の髪は長いので、根元から乾かすのに時間がかかる。
棚から布を取ろうとすると、ミルカの肩へ腕が触れた。彼女が少し横へ動く。そのまま何も言わず場所を空けてくれたが、俺は布を渡す時に、髪を拭くのを手伝うかどうか迷った。考えすぎるより聞けばいい。
「後ろ、乾いてないところ、見ようか」
「お願い。自分だと、そこ見えないから」
ミルカは背中を向けた。首の後ろから髪が流れている。俺は触る前に、肩甲骨の辺りへ濡れた束が残っていると伝えた。彼女が布を後ろへ当てようとするが、肘の角度が窮屈そうだった。
「ここだけ、俺が押さえてもいい?」
「うん」
布の上から髪を挟む。引っ張らないよう、少しずつ水を取った。思ったより細く、軽い。女の子の髪を乾かす機会は、俺の人生にそう何度もなかった。彼女の方は壁に掛けた服を見ていて、俺ほど気にしていないように見える。
「ハルト、お店でこういうのもする?」
「家具の店で?」
「布の水を取るとか」
「ああ。濡れて持ってきた椅子なら、乾かすことはある。でも髪はないな」
ミルカが肩を少し揺らした。笑ったらしい。俺は布を離し、残っていた水を取れたと伝えた。彼女が振り返って布を受け取る。頬が少し赤かった。俺も布を渡す時、さっきまで触っていた髪を見てしまった。
「ありがとう。これで首の後ろが冷たくなくなる」
その言葉で十分だった。俺は自分の布を片づけ、食卓へ戻った。
文字の続きを始めたのは、その後だった。昨日覚えた数字と、自分たちの名前を写す。ミルカは俺が書いた日本語の研究所へのメモを見て、一つの言葉に何種類もの形があるのかと驚いていた。
「これ、同じ音?」
「こっちは名前の漢字。こっちは読み方」
「名前だけで、そんなに覚えることあるんだ」
「俺も小さい頃は、名前を漢字で書くのが難しかった」
小学校の入学前、母に字を教えてもらったことを話した。晴の右側をうまく書けず、青のところだけ大きくなった。母は紙を新しくせず、同じ紙の下へもう一回書けばいいと言った。その時の母の声は、今も思い出せる。
ミルカは俺の書いた字の下へ、晴の一文字を写した。右側が大きい。俺がそれを見て笑うと、彼女は母親と同じ間違いをしているのか、と少しむくれた。
「俺と同じ。母はちゃんと書ける」
「じゃあ、次は少し小さくする」
彼女は下へもう一度書いた。俺も、こちらの数字の五を書き直した。二人で違う字を覚えるので、一方だけが先生になる時間ではなかった。
昼に近づくと、ミルカは椅子から立ち、台所の棚を開けた。パンの袋を確かめ、粉の袋を見ている。何を作るか聞くと、明日の朝のパンが足りないという。
「村で買う?」
「雨が弱くなれば。それまで待つなら、焼いてみてもいいけど」
「作れる?」
「作れる。……思った形になるとは限らないだけ」
ミルカは袋を食卓へ運んできた。彼女がパンを作るのを苦手としていることは、昨日、ニナの母親と話している時に聞いた。祖母に教わったはずなのに、いつも少し固いらしい。俺もパンを最初から作った経験はほとんどない。
「じゃあ、二人とも分かるところだけやろう。分からないまま決めるより、村の人に聞いてもいいし」
ミルカは粉の袋を開けかけ、やめた。ニナの家は粉屋だ。昨日助けたお礼を要求するつもりではないが、粉を買う時に作り方を聞くことはできる。
雨が少し弱くなった時、二人で粉屋へ行った。昨日の母親は水車の窓を閉めていた。俺たちを見ると、雨の中で来たことに驚いたが、パンの話を聞いて笑った。
「その粉なら、発酵させるより薄く焼いた方が扱いやすいよ。厚いパンにしようとすると、ちょっと重くなる」
ミルカは袋の札を見た。俺には読めないが、彼女には読める。読めるのに粉の種類を気にしていなかったらしい。いつも同じ店で買っているから、同じ用途だと思っていたという。
母親は量を目で示し、木の器と水差しを出してくれた。ニナが横から覗き込み、昨日のミルカが今日教わっているのを面白そうに見ている。だからといって、魔女なのに知らないの、とからかうことはなかった。自分も水を入れる係をしたいと頼んだ。
「ニナ、今日は見てるだけ。明日の分を作る時、手伝って」
母親はそう言ってから、ミルカへ手順をもう一度伝えた。全部を一度に覚えようとせず、使う粉と水の量だけ紙へ書いてもらった。家の道具でできる作り方だった。
帰りの道で、ミルカは紙を濡らさないよう鞄へ入れた。俺が傘を持つと、彼女が袋を持つ。小さな役割を交換しながら、泥の少ないところを歩いた。
「知らないこと、聞いてもいいんだね」
彼女が言った。俺は、ずっと自分へ言われているのかと思ったが、彼女は自分の粉の袋を見ていた。
「魔法のことなら、師匠にいくらでも聞ける。でも、パンくらいって思ってた。みんな普通に焼くから」
「みんなが普通にやることでも、最初は誰かに教わってると思うよ」
「うん。今日、聞いてよかった」
俺も椅子の直し方を父に教わった。それを何年も繰り返して、昨日ミルカの棚を直せた。彼女にとって普通に飛べる家も、俺には全然普通ではない。お互いが知っていることを、そのまま相手へ渡せるわけではなかった。
家へ戻り、食卓の上を広く空けた。ミルカが粉を量り、俺は水を入れた。全部入れないで少しずつと言われていたので、器の中を見ながら混ぜる。彼女はいつもより慎重だった。力を入れれば早くなる作業ではないと、今日の説明で分かったらしい。
生地を分け、薄く伸ばした。俺の方は少し楕円になった。ミルカが丸くしようとして、反対側まで伸びた。二人でしばらく眺め、形はこれでいいことにした。
「味は同じだよね」
「厚さが同じなら、たぶん」
「じゃあ、こっちの端だけ少し薄くする」
彼女は指先で端を押した。俺の方の歪んだ端も見比べ、同じくらいの厚さへ伸ばした。
鍋で焼くと、台所へ香ばしい匂いが広がった。ミルカが少し身を乗り出し、膨らんだところを見つける。
「膨らんだ」
「そこで押さない方がいいんじゃない?」
「押さないよ。今日は見るだけ」
最初の一枚は端を焦がした。二枚目は早く返しすぎ、三枚目でようやくちょうどよくなった。食卓へ置いた時、ミルカは一番きれいな三枚目を俺の皿へ載せた。俺は半分に切って彼女へ返す。
「最初のも一緒に食べよう。全部味を見ないと分からない」
「そうだね。じゃあ、これも」
端の焦げた一枚も半分になった。ミルカが先にその端をかじった。俺も同じところから食べてみた。
雨の音はまだ続いていた。俺たちはスープの残りを温め、焼いたパンへ野菜を挟んだ。少し焦げた端も、食べられないほどではない。ミルカは三枚目を食べてから、次はこれを旅の昼食にしたいと言った。
「明日の?」
「うん。明日、飛べたら」
俺は残す分を一枚、皿の横へ分けた。明日も飛べなかったら、ここで食べることにする。
午後は家の中で過ごした。俺は客室の机が少し傾いていたのを調整し、ミルカは祖母の帳面の古い紙を紐でまとめ直した。隣で別々のことをしている間、会話は途切れた。時々道具を借りたり、紙を押さえたりするだけでも、一人で待っている感じはしなかった。
夕方、屋根を叩く雨が弱くなった。ミルカが窓を開けると、冷たい空気が食卓へ流れ込む。俺は彼女の帳面を押さえた。風でページがめくれたが、紐をまとめ直したところは外れなかった。
「明日は、出られそう?」
「まだ言い切れない。でも、空が少し見えるようになった。朝にはもう少し落ち着くかも」
彼女は窓を閉め、俺の押さえた帳面へ目を向けた。礼を言ってから、昼のパンの残りを包む。俺も一枚手に取り、焦げた端を確かめた。
「初めてでも、食べられるところまではできたな」
「今日は、粉屋のお母さんのおかげ」
「教えてもらったことをやったのは、ミルカだよ」
彼女は包む手を止めた。俺を見て、それから少し笑った。
「じゃあ、ハルトも。水を全部入れなかったから、助かった」
自分のしたことを具体的に言われると、ただ褒められるより嬉しい。俺は包みを食卓の奥へ置いた。今日の予定は飛ぶことだった。実際にしたのは連絡、文字の練習、パンを焼くこと。研究所に近づいてはいないが、彼女と暮らすことについては、昨日知らなかったことをいくつも覚えた。
眠る前、ミルカが玄関から外を見た。雨上がりの係留灯に、薄い霧がかかっている。俺は横へ並び、村の屋根を見る。
「今日は、待ってくれてありがとう」
彼女が言った。
「俺の用事で来てるんだから、待つのは当たり前だよ」
「それでも。早く知りたいって思ってるでしょ」
「うん。思ってる」
俺はそこを否定しなかった。彼女も俺に、気にしていないと言ってほしいわけではなさそうだった。
「でも、今日飛ばないって決めてくれて、安心した。自分の判断を曲げるほど気を使わせたくないから」
ミルカは一度だけ頷いた。それから俺の袖へ手を当て、風の入る玄関から少し内側へ引いた。
「寒いね。もう閉めよう」
俺は扉を閉めた。彼女の手はすぐに離れたが、袖のその辺りだけ、少し温かかった。




