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異世界で空から落ちた俺、銀髪の魔女に拾われました。――彼女は家を飛ばせるのに、椅子ひとつ直せません  作者: 芦名 雅


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第6話 眠れない夜の窓辺



 出発の日、俺の荷物は少し増えた。もともとの布袋に加え、ミルカから借りた小さな鞄へ着替えを入れた。三日後の研究所へ行くため、一度港を離れる。まだ帰還するわけではない。それでも持ち物を全部集めると、日本から持ってきた物の少なさが目についた。


 腕時計、財布、スマートフォン、工具。父が店の奥で俺へ渡したドライバーもある。あの日は、観測塔の管理人に頼まれた椅子の寸法を測りに行くつもりだった。用事は済んでいない。管理人も、塔の階段から姿を消した俺を探しているかもしれなかった。


 一階へ下りると、ミルカは食卓に地図を広げていた。昨日の紙より大きい。俺が覗き込むと、彼女は川の上流側に指を置いた。


「今日はベル村へ。ここなら、途中で泊まれる。明日はここから東へ」


「サイラまで、明日のうちに着く?」


「風が良ければ。着かなかったら、もう一晩どこかで止まる。約束は三日後だから、急がなくて大丈夫」


 余裕のある日程だった。俺は自分の予定を全部彼女へ任せることにならないよう、何を決めればいいか尋ねた。ミルカは鞄を見て、服と道具を自分で管理してくれれば、まずは十分だと言った。研究所の人から質問された時に、彼女が答えられることは多くない。


「私は連れていけるけど、ハルトがどこから来たかは、ハルトの方がちゃんと知ってるから」


 その言い方を聞いて、自分が役に立つかどうかを気にしすぎていたと分かった。今日の旅は、俺の帰還のためだ。荷物を運び、皿を洗うだけでなく、自分のことを自分で説明する必要がある。


 俺は研究所へ話すことを紙に書いた。日本語で、塔へ行った時刻、転移直前の状況、覚えている音。ミルカが横から見て、これはハルトの名前の文字かと尋ねる。名前を一行だけ大きく書くと、彼女もその下へこちらの文字で書いてくれた。


 形は全然違う。俺は二つを見比べ、それから紙を畳んで財布へ入れた。研究所で忘れたことがあっても、読み返せる。書いた内容が特別な能力で消えたりしないことも、今はありがたかった。


 午前の風が落ち着くのを待ち、家を浮かせた。ミルカは昨日の飛行で説明の足りなかったことを、出発前に確認してくれた。座っていてほしい時には、立たない。何か滑ったら声をかける。扉は係留してから開ける。俺は一つずつ頷いた。


 窓の外へ港が遠ざかる。市場の布屋根が、小さな色の集まりになっていく。丘の上のベンチも見えた。昨日そこに立った自分たちを、今は空の家から見ている。


 ミルカが前を向いたまま、今日は静かだねと言った。俺が考え込んでいることを気にしたのだろう。俺は財布へ入れた紙の話をした。名前を二つの文字で書いたのが面白かったと言うと、彼女は俺の方を見ようとしてやめた。操縦中なので前から目を離さないようにしているらしい。


「今夜、ほかの字も教えて。私、ハルトの名前の字、少し書けそう」


「こっちの字と違って、種類が多いよ」


「一日で全部覚える予定じゃないから大丈夫」


 俺も昨日、ラウラさんに同じようなことを言われた。触る物から覚える。ミルカは俺の名前から始めたいのだと思うと、俺も彼女の名前を紙へ残したくなった。


 途中、川の幅が狭くなった。岸には低い石壁があり、その向こうに豆畑が見える。窓の外を見ながら、俺はスマートフォンで写真を撮ろうか迷った。電池は残り十五パーセント。昨日の丘の写真を撮った時より減っている。結局、画面をつけずにしまった。


「今日は撮らない?」


 ミルカが気づいた。俺は頷き、研究所で家族の写真を見せる分を残したいと答えた。彼女もそれ以上勧めなかった。


 ベル村へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。川に沿った家並みと、木の小さな橋がある。村の入り口の係留場は、港よりずっと空いていた。石台が六つ、物置のような小屋が一つ。ミルカは小屋の前で待つ人へ旗で合図し、許可された台へ降りた。


 地面へ下りると、川と麦の匂いがした。遠くで水車が鳴っている。ミルカは係留の料金を払い、小屋の人に水を補充できる場所を聞いた。水車の手前に共同の井戸があるという。


 俺は空の水桶を持ち、彼女とそこへ向かった。道の途中で、白いものが足元を走った。猫かと思って手を引いたが、布の袋だった。袋の口から粉が細く飛んでいる。


「待って!」


 高い声が続いた。小さな女の子が、道を曲がって走ってきた。茶色の短い髪に白い粉がつき、大きめの前掛けが膝へ絡んでいる。両手を伸ばして袋を追う顔は、泣きそうなのに口だけ強く結んでいた。その先には川へ下りる階段があった。


 ミルカは水桶を俺へ預けた。片手を横へ出すと、袋の前へ風が当たる。止まった袋を女の子がつかんだが、勢いが余って転びかけた。俺は桶を地面へ置き、彼女の肘を支えた。


「大丈夫?」


 女の子は頷く前に袋の中を覗いた。まだ粉が残っていると分かってから、ようやくこちらを見た。


「ありがとう。お母さんに、ひとりで持っていくって言ったから」


「一人で持っていくの、ここまで?」


 ミルカが腰を下ろして目線を合わせた。女の子は橋の向こうの家を指す。粉屋からあそこまで袋を運ぶ用事だったらしい。小さな袋でも、八歳くらいの体には持ちにくい。


「私はミルカ。少しだけ手伝っていい? 袋の口を閉めるところ」


「ニナ。……いいよ。でも、あそこまで私が持つ」


「分かった。じゃあ、口だけ」


 ミルカは紐を結び直した。袋を全部取り上げない。ニナは袋を抱え、さっきよりゆっくり歩き始めた。俺たちも井戸へ向かう途中だったので、橋の手前まで一緒になった。


 粉屋は水車の隣にあった。戸口から女性が出てきて、ニナへ呼びかける。頭に白い布を巻き、娘と同じ茶色の目をした人だった。前掛けの下まで粉をかぶっている。手に持っていた柄杓を戸口へ置き、娘の前へしゃがんだ。


 ニナは、まだ全部こぼしていないと先に言った。母親は袋を見るより先に、膝をすりむいていないか確認した。


 ミルカが事情を伝えると、女性は俺たちへ礼を言った。ニナは袋を抱えたまま、橋の向こうの家へ向かう。今度は母親が先まで一緒に歩いてくれた。ミルカはその姿を見送り、俺が置いた桶を一つ持ち上げた。


「運びたかったんだね。一人で」


「袋を取らなくてよかったな」


「全部こぼす前に止まって、よかった」


 彼女は少し笑った。橋の向こうで、ニナが母親に袋の底を持たれないよう、抱え直していた。


 水を家へ運んでから、二人で遅い昼食を取った。昨日のスープとパンの残り。旅先で何か食べる余裕もあったが、今日中に使いたい野菜があったので、家の中で作ることにした。窓の向こうにいつもと違う村があるだけで、同じ鍋のスープにも少し違う場所へ来た感じがした。


 午後は係留場の周りを歩いた。村の店でミルカが卵を買い、俺は数字の書かれた札を見た。二リル、五リル、八リル。教わった形を紙へ写す。店の人は、こちらの字を勉強していると聞いて、俺が見やすいよう札を立て直してくれた。


 ニナが母親と戻ってきた。袋は空になっている。用事を終えてから、こちらを探したらしい。彼女はミルカの家を見上げ、あれに乗って飛んできたのかと聞いた。


「そう。今日はここで泊まるの」


「二人とも?」


「二人とも。あそこに寝る部屋があるから」


 ニナは屋根の風見を見た。鳥だ、と言い、真似して両手を広げる。母親が手を下ろさせた。今は風が強くないが、道を通る人に当たりそうだった。


「名前、あるの?」


 ミルカは家を振り返った。


「ツバメの家。祖母がそう呼んでたの」


「鳥みたいに飛ぶから?」


「たぶん。でも今は家の方が大きいね」


 ニナは笑った。俺は初めて家の名前を聞いた。毎日暮らしているのに、聞いていないことがある。彼女が言わなかったのは、隠していたからではなく、そう呼ぶ必要がまだなかったからだろう。


 母親から、明日は川の上流で雨が降るらしいと聞いた。ミルカは村の掲示板へ風の知らせを見に行き、俺はその間、ニナに家の窓の位置を説明した。右が俺の部屋、左がミルカの部屋。彼女は、窓から落ちたらどうするのかと聞いた。


「落ちないように、飛ぶ時は閉める」


「閉め忘れたら?」


「閉め忘れてないか、二人で見る」


 ニナは頷いた。全部魔法で大丈夫だと答えなくてよかった。俺もまだ、窓の外へ身を乗り出してはいけない理由を体で覚えているところだった。


 夕方には、川の向こうに雲が増えた。ミルカは明日の出発を早めるか、見送るか考えていた。明日出られなくても、約束の前日にはまだ移動できる。俺は明日の風を見てから決めようと答えた。


 食事の後、俺たちは食卓で文字を書いた。俺はミルカの名前をひらがなとカタカナで書き、彼女は同じ名前をこちらの文字で書いた。三つを並べると、どれも同じ人の名前だとは思えない。


「この角がある方、少し家の絵みたい」


 ミルカがカタカナのミを指す。


「どの辺が?」


「これ、屋根が三つ」


「家、三軒?」


「そう。ルは道で、カは……」


 彼女は首をひねり、それからこちらを見た。


「私の字、こんなに変なものが並んでる?」


「俺には、まだ線がくるっとしてる感じに見える」


「同じくらい分からないね」


 ミルカが自分の書いた名前を俺へ寄せた。俺は見ながら写してみた。二文字目が大きくなりすぎる。彼女はペンを取り上げず、紙の端にもう一回だけ大きく書いてくれた。


 俺が三回書くと、彼女も晴人のカタカナを三回書いた。ハの片方が長い。ルは最後が小さく丸まっている。どちらも上手に書けたとは言えないが、読もうとする相手には分かる。


 彼女は書き終えた紙を捨てず、台所の棚へ挟んだ。俺の練習した紙は鞄へ入れた。三日後、帰還の方法が分かれば、もっと複雑な話をすることになるかもしれない。だが今夜は、二人とも相手の名前を書くので十分だった。


 寝る前に、押し花の紙を少しだけ確かめた。湿った感じはない。花はまだ平らになり切っていない。ミルカは今日の包み紙の方が乾いているから替えようかと言ったが、俺はまだ触らない方がいいと答えた。彼女は頷き、また重しを置いた。


 部屋へ戻ってからも、なかなか眠れなかった。川の音がしている。港では船の音が遠くに混じっていたが、ここでは水車が低く鳴るだけだった。俺は机の上に時計を置き、スマートフォンで家族写真を一度見た。電池は十二パーセント。すぐに画面を消した。


 父はもう寝ているかもしれない。母は、何か返事が来るかと電話をそばへ置いているかもしれない。どちらも俺には分からない。それが一番つらかった。心配していると想像するしかなく、元気だと伝えることさえできない。


 水を飲もうと一階へ下りると、食卓の窓際にミルカがいた。灯りは小さく、窓の外の川が黒い。彼女は薄い上着を羽織り、膝の上に本を置いていた。俺を見ると、本を閉じる。


「眠れない?」


「うん。ミルカも?」


「明日の風が少し気になって。でも、ずっと見ていても、雲が私に気を使うわけじゃないのにね」


 俺は台所へ行き、水をコップへ注いだ。ミルカの前にもコップがあったが、まだ半分残っている。飲むか尋ねる前に、彼女が自分のものを軽く持ち上げた。


「私は大丈夫。こっち座って」


 向かいの椅子ではなく、窓に近い隣の椅子を指した。俺はそこへ座った。灯りが小さいせいで、食卓の向こうは暗い。こちらの二脚だけが窓の外を見やすかった。


 ミルカは本の表紙を指で撫でた。昨日話した、祖母の旅行帳らしい。北の光の輪のことも、そこへ書いてある。見せてもいいと言われたが、今夜は読める字を探すより、彼女の話を聞きたかった。


「おばあさんは、今も旅してる?」


「今は海の町にいる。家を私にくれて、こっちがいいって。庭があるし、友達も多いから」


「寂しくならない?」


「誰が? 祖母?」


「両方」


 ミルカは少し考えた。それから本を机へ置いた。


「私は、会ったあとで離れる時は、ちょっと。でも、家をもらってからの方が、よく話すようになった。前は祖母が決めた場所に私が行ってたけど、今は私の行った場所も話せるから」


 離れることと、関係がなくなることは同じではない。彼女はそういう結論を言わず、祖母に次の町の焼き菓子の話をしたいと言った。俺も家族へ、この世界のパンの味を話せたらいいと思った。


 ミルカは時計へ視線を向けた。俺が水を飲む時、手首から外して持ってきていた。


「それ、ずっと見てるね」


「父が直したやつなんだ。高い物じゃないけど、使えるうちは使えって」


 俺は机へ置いた。ミルカが触っていいか尋ねたので頷く。彼女はそっと持ち上げ、針の動きを見た。音がするか確かめるように耳へ近づける。


「私の家の時計より、小さいのにちゃんと動く」


「父、こっちを見たら、飛ぶ家の方に驚くと思う」


「その時、椅子が壊れてなくてよかった」


 俺は笑った。ミルカも笑ったが、すぐに時計を机へ戻した。日本の家族の話は、彼女にとっても他人事ではなくなっているのだと思う。


「写真、撮ったでしょ。私の」


「うん」


「それ、お父さんとお母さんに見せる?」


「見せたい。助けてくれた人だって説明したいし」


 彼女は窓の方を見た。灯りが片方の頬へ当たり、髪の細い線が明るくなる。俺は彼女の顔をじっと見すぎないよう、同じ窓へ目を移した。


「じゃあ、あんまり変な顔じゃなくてよかった」


「変じゃなかったよ」


「ハルトも、入ってる方?」


「どっちも。家の写真も、あとで撮りたい」


 ミルカは頷いた。自分が写真の中にいることだけでなく、俺が帰ったあと、その写真が見られることを考えているようだった。少なくとも、俺もその時のことを想像していた。父へ銀髪の魔女を紹介する。母へ、同じ家の二階に泊めてもらったと説明する。


 そこまで考えて、急に気恥ずかしくなった。ミルカが何か察したのか、俺の方を見る。


「何?」


「いや。同じ家に泊めてもらってるって言ったら、母がいろいろ聞きそうで」


「部屋は別だって言って。あと、鍵もある」


「それ、最初に言うと、逆に気にする気がする」


「じゃあ、椅子を直してくれたことから」


 彼女が真面目に順番を考えているので、俺も笑って流せなくなった。親へどんな説明をするかは、彼女の名前を借りる話でもある。迷惑がかからないようにというより、ちゃんと伝えたいと思った。


「助けてくれて、最初に水をくれたことから話すよ」


 ミルカは少し驚き、それから顔を緩めた。


「あれは、喉が乾いてそうだったから」


「うん。そのことを話したい」


 彼女は何も言わず、コップを持った。俺も水を飲んだ。夜の川が流れている。会話が止まっても、質問を増やさなくていい時間だった。


 しばらくすると、屋根を小さな音が叩いた。一つ、二つ。ミルカが窓の外へ手を伸ばしかけ、ガラスが閉まっていることに気づいて止める。外の係留灯の周りに、細い雨の筋が見えた。


「予報より早いね」


「明日、飛べるかな」


「朝に見て決めよう。約束の日まで、まだ余裕がある」


 彼女は俺へそう言ったが、自分でも確かめるように地図を引き寄せた。俺は時計を腕へ戻し、コップを台所へ運ぶ。夜のうちに片づければ、明日の朝少し楽になる。


 ミルカは地図を畳み、灯りを消す前に俺を呼んだ。


「明日、もし出られなかったら、ここで一日待つことになるけど」


「うん。無理して飛ぶより、その方がいい」


「待つ間、文字の続き、やろう」


 俺は承知した。研究所へ近づきたい気持ちはある。それでも今夜、水を飲みながら家族の話を聞いてもらえた。待つ一日にも、何もないわけではない。


 二階へ戻る前に、食卓を見た。彼女の旅行帳と、二人で書いた名前がある。ミルカはそれを濡れない場所へ寄せ、窓の留め金を確かめた。俺は玄関の鍵を見る。同じ家の別々の場所を確認してから、二人で階段を上った。


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