第5話 休日に用事はいらない
ミルカは俺より先に玄関で待っていた。いつもの灰色の上着を腕へかけ、髪を耳の上で少しまとめている。昨夜は早く起きなくていいと言っていたのに、俺が階段を下りていくと、時計を見る前に靴を履き直した。
「遅かった?」
「遅くない。私がちょっと早かっただけ」
朝食の片づけを俺が引き受け、彼女が出かける準備をすることになっていた。流しの皿を戻してから二階で顔を洗っていたので、少し待たせたのかもしれない。ミルカは待ち時間を説明せず、入口の鐘へ手を伸ばした。
「何か忘れてない?」
俺が言うと、彼女は鐘を鳴らす前に振り向いた。
「戸締まりした。水も止めた。風晶も休ませてる」
「自分の荷物」
「あ」
食卓の椅子に、小さな布の鞄が掛かっていた。ミルカはそれを持ってきて、俺を横目で見る。
「今のは、ハルトが何か話すかと思って、そっちを見てたから」
「俺、喋る前から忘れさせた?」
彼女は答える代わりに、鞄の中の財布を確かめた。俺も自分の財布へ触れる。昨日の四枚はそのまま入っている。今日は服の借りを返すため全部使わないつもりだったが、買いたい物があれば一つくらい選べる。
港を出る道は、川と反対の方向へ緩く上っていた。朝の市場とは違い、露店の少ない道で、通り沿いには家が並ぶ。窓から布が干され、小さな子が戸口で靴を履いている。ミルカはすれ違う何人かに挨拶した。彼女が旅をする人でも、この町で暮らしてきた時間はあった。
途中で、誰かが後ろから彼女を呼んだ。軽い足音が近づく。首の焼けた若い男が、肩に大きな鞄をかけて追いついてきた。俺より少し年上で、背も高い。細い体に、肘のところだけ布を重ねた青い上着を着ていた。肩の鞄は大きいのに、それを重そうに見せない歩き方をする。片手の操縦手袋を歯で引き、空いた手で栗色の髪を後ろへ流して俺を見た。
「ミルカ。今日の便、入れなかったの?」
「休み。テオは?」
「これから。宛先を変えた人がいて、出る前にもう一回聞いてきた。返事が遅いと、届ける方まで遅いって思われるから困る」
彼は肩の鞄を軽く叩いた。紐の端に、羽の形の札がついている。ミルカが俺へ向き直り、この人は郵便を運ぶ人だと紹介した。俺も名前を伝える。
「へえ。ラウラさんが言ってたの、あんたか。空から来たって」
「どう説明すればいいか、まだ自分でも分からなくて」
「いいよ。俺だって、なんで宛先が引っ越した後なのか分からないまま郵便を運ぶ」
「それは、前の住所へ届けようとするからでしょ」
ミルカが口を挟む。テオは分かってるって、と片手を振った。
「弟子の時も、こうだったよね。ラウラさんに出発の報告した後で、また戻ってくるの」
「その頃は、お前が俺の荷札を持ってたからだろ」
「それは一回」
二人とも、笑いながら言った。テオは彼女と同じ師匠に学び、先に郵便の仕事へ出た人なのだ。ミルカの側も、先輩を前に遠慮する気はなさそうだった。
テオは俺の手に何もないのを見て、今日は仕事ではないのかと聞いた。丘の上へ行くとミルカが答える。彼は彼女の服を見て、靴を見て、すぐに頷いた。
「そっか。じゃあ邪魔しない。上の方、今日は乾いてると思うけど、北側の道はまだ泥あるからね」
「分かった。そっちへは行かない」
テオは歩き出しかけて、鞄の紐を直した。それから俺へも言った。
「帰る相談、うまく進むといいな。待ってる間に何か知りたかったら、俺にも聞いて。遠くの町なら、こいつより行ってる」
「私、これから行くんだけど」
「なら、あとで追い越してくれ。今日は俺が先」
彼は笑い、今度こそ去っていった。忙しい人の歩幅だった。ミルカはその背中を見送り、こちらへ戻る。先ほどより少しだけ、口元が緩んでいた。
「テオ、ラウラさんのところにいた時も、出発前にずっと喋ってたの」
「仕事に遅れたり?」
「喋りながら準備するから遅れない。私が聞いてると、私の方が遅れる」
それはよく分かる気がした。ミルカは聞きたい話があると手を止める。棚へ瓶を戻していた時も、俺が父の店の話をすると、同じ瓶を持ったまま聞いていた。
道が石畳から土へ変わった。両側の家は減り、木の影が肩へ落ちる。登りはきつくないが、昨日の荷物を持った仕事とは違う場所の筋肉を使った。ミルカは少し前を歩き、俺がどれくらい遅れるか時々振り返る。
「もっとゆっくりでいいよ」
「このくらいなら大丈夫」
「大丈夫って言って、急に座り込む人もいるから」
「何人か連れてきたことある?」
「祖母。それで、私が急かしてたみたいに言うの。先に行ったのは祖母なのに」
彼女は道端の木を指した。枝の低いところに、鳥の巣があった。祖母と来た時は、巣を見るため何度も足を止めたらしい。今は鳥がいない。ミルカも立ち止まらず、次の曲がり角へ進んだ。
丘の上には木の柵と、長いベンチが二つあった。川が見える。町の屋根は下から見た時ほど高くなく、飛行船の柱も、一本ずつの位置が分かる。上空を通る貨物船の帆が、雲の影と重なった。
ミルカは柵の前まで行き、片手を上へかざした。
「今日は、あの橋まで見える」
彼女が指した先に、細い橋があった。対岸の丘の裾を結んでいる。昨日の農場へ行く時には、川ばかり見ていて気づかなかった。
「昨日はあっちを飛んだ?」
「うん。家だと、この木の向こうへ出てたから、ここからは少し違うね」
同じ町なのに、窓の中から見るのと、地面に立って眺めるのは違った。ミルカがこの場所へ連れてきたかった理由が分かる。俺は柵から離れ、二歩ほど後ろへ下がった。景色と彼女を一緒に見られる位置だった。
「写真、撮っていい?」
ミルカが振り向いた。
「あの、鏡に入れるやつ?」
「うん。昨日見せた家族の写真みたいに」
「私も?」
「嫌なら景色だけで。こっちの景色を、家に見せたくて」
彼女は少し考え、鞄を肩から外した。ベンチへ置き、柵のそばに立ち直す。
「どう立つ?」
「今のままでいい」
「今のままって、こう?」
両手が妙にまっすぐ下へ伸びた。俺はスマートフォンを出しながら笑いそうになり、ちゃんと画面の説明をした。撮る時には、そこに立っていてくれればいい。絵を描くわけではないので、長くじっとしなくていい。
「絵より早いの?」
「一瞬」
「瞬きをしちゃったら?」
「その顔が残る」
ミルカの目が大きく開いた。その顔で撮るのも違う気がした。俺がいつも通りでいいと伝えると、彼女はやっと笑った。その一瞬を撮る。画面の中に、青い空と、町の屋根と、銀色の髪が収まった。
彼女がすぐに寄ってきた。俺の横で、画面へ顔を近づける。川が遠くに写り、髪の端が少し風で浮いている。左のえくぼも見えた。
「本当に、こんなに早いんだ」
「うん」
「私、ちゃんとこの顔してた?」
「してたよ」
ミルカは画面をしばらく見た。俺には今まさに隣にいる彼女と同じだが、本人は普段こうして自分が笑う顔を見ないのかもしれない。やがて俺の方へ目を向けた。
「ハルトも、入れられる?」
俺は前のカメラへ切り替えた。画面に自分が映る。ミルカが思わず一歩引き、もう一度覗き込んだ。俺は彼女へ見せたまま腕を伸ばし、二人が入る位置を探した。肩と肩が触れた。
「あ、近すぎる?」
「ううん。入る方でいい」
彼女は動かずにいた。俺は少しだけ腕を上げ、画面の中の自分が固い顔をしていることに気づいた。ミルカも画面を見ている。二人で同じことを考えたのか、同時に笑った。
撮った写真には、彼女が俺の方へ顔を向けかけたところが写っていた。背景の川は少し傾いている。撮り直すか尋ねたが、彼女はこのままでいいと言った。俺も、それを消すつもりはなかった。
電池は十八パーセントだった。画面を消すと、空の方が明るく見えた。ミルカはスマートフォンをしまう俺の手を見て、もう使えなくなるのかと尋ねた。電気を入れ直す必要があると説明する。しかし、こっちに同じ仕組みのものがあるかは分からない。
「じゃあ、あんまり見すぎない方がいい?」
「今の写真なら大丈夫。なくなるわけじゃないから。動かす力がなくなるだけ」
「家の風晶が空になるのと、少し似てるね」
「たぶん。少なくとも、ずっと使えるわけじゃないところは」
ミルカは鞄を持ってベンチへ座った。俺も隣へ腰を下ろす。触れた肩はもう離れている。少し前なら彼女の隣に座ることを意識しなかっただろう、と考えかけてやめた。俺が知っているのは、ここへ来た四日間のことだけだ。まだ、隣に座る理由を一つずつ覚えている途中だった。
ミルカが鞄から小さな包みを出した。中には朝食のパンの残りがある。俺が十分食べたのを見ていたのに、持ってきてくれたらしい。
「上り切ると、お腹すくかなと思って」
「ミルカは?」
「私も食べる。だから二つ」
同じ大きさの欠片を二つ並べる。今日は分ける時に困らない。俺は一つ受け取り、彼女と同じ景色を見ながら食べた。
港で新しい旗が上がる。ミルカが、あれは午後の便のための旗だと教えた。テオはもう飛び立ったかもしれない。彼女は自分が休んでいることを心配するようには見えなかった。
「今日、誘ってくれてありがとう」
俺が言うと、彼女は口に入れたパンを飲み込むまで返事を待った。
「港と家だけだと、退屈になるでしょ」
「退屈してたわけじゃないよ。帰ることを考えたり、覚えることも多かったし」
「あ、そうだね」
ミルカが包み紙を折りかけて止めた。俺が誘いを否定しているわけではないと伝えたかったので、言葉を足す。
「用事がなくても、一緒に出かけられるのが嬉しかった」
彼女は俺を見た。それから、手の中の紙を折った。四角にできる紙を、なぜか細長くしている。
「私も、そう」
聞き間違いではなかった。風の音は静かだったし、彼女はこちらを向いていた。
「丘を見せるとか、町を案内するとか、そういうのもあるけど。今日は、ハルトと出かけたいなって思った」
彼女は言い終えてから、少し恥ずかしそうに笑った。俺も急にベンチの座る位置が気になった。しかし、ここで距離を詰めればいいのか、何か気の利いたことを返すべきなのか、判断できない。
「じゃあ、また誘って。俺も、何か見つけたら誘うから」
「うん」
ミルカは頷き、今度は紙をちゃんと四角に折り直した。俺は受け取ったパンの残りを食べた。言う前と同じ味なのに、飲み込むまで少し時間がかかった。
帰りは南側の道を通った。テオが教えてくれたとおり、北側の細い道は泥が残っていた。ミルカはそちらを一度眺めるだけで、迷わず乾いた方へ向かった。
道の途中で、小さな花の畑があった。低い柵の中に白と黄色の花が咲き、その向こうで女性が籠を持っている。売っているのか聞くと、ミルカは市場へ持っていく花だと教えてくれた。今日は灯り市の前なので、家を飾る花を多く作っているという。
「灯り市って、工具箱の花を買った祭り?」
「そう。まだ少し先だけど、町の灯りを全部変えるの。川にも小さな灯りを浮かべる」
俺は日程を聞いた。ミルカが答えた日付は、俺にはまだ馴染みがない。家へ戻ったら暦を見せてもらうことにした。彼女は窓口の返事次第ではその前に研究所へ行くかもしれないと言い、俺も頷いた。
予定があることと、必ず一緒に行けることは違う。その違いを、彼女は誤魔化さなかった。だからこそ、行けたらいいと思えた。
市場へ戻ると、セナさんの店は忙しかった。二人で焼き菓子を見たが、声をかけるためだけに仕事を止めてもらうのはやめた。隣の店で小さな果物を二つ買い、川沿いの階段へ座って食べる。俺は昨日もらった硬貨で自分の分とミルカの分を払った。
「服のお金、大丈夫?」
「全部使ったわけじゃない。これくらいなら」
「じゃあ、ありがとう。今日、初めてハルトに買ってもらった」
彼女の言い方に、俺は自分が買った物を見直した。小さな果物二つ。高い物でも、何かの記念に選んだ物でもない。それでも彼女は、俺が払ったことを嬉しそうに覚えてくれた。
ミルカは果物の種を紙へ出し、俺へ一つ見せた。小さくて、平らな種だった。
「これ、植えると木になるの」
「家の中に?」
「庭がないから難しい。鉢だと大きくなる前に窮屈になっちゃう」
飛行住宅にも、不便なところはあるらしい。俺がそう言うと、彼女は頷いた。庭を持った友達が羨ましくなることはある。でも、家ごと知らない町へ行ける方を選んだ。
「どっちも全部は、なかなか難しいね」
彼女は種を包んだ。植えないなら捨てるのかと思ったが、港の花壇の世話をする人へ渡すと言った。そこなら大きくなっても邪魔にならないか、聞いてみるらしい。
帰り道、俺はミルカがいつか北へ行きたいという話を聞いた。祖母が見た光の輪。夜の空に、雲とも星とも違う明るい線が丸く重なることがある。季節と風の条件が合わないと見えないらしい。
「家をもらった時から、行くつもりで?」
「うん。仕事をしながら、少しずつ。いきなり遠くまで行くと、途中で困ることも多いから」
「半年前に独立したって言ってたもんな」
「だから、最初の半年は港の近くで。師匠に聞けるうちに、聞いておきたいこともあったし」
彼女は歩く速度を少し落とした。自分の旅の話をしている時、明日の夕食より遠くを見ている顔になる。だが俺の隣を歩くのを忘れているわけではなく、港の荷車が前を横切れば、足を止めて待った。
「ハルトが帰るのを待ってから、出るつもり?」
自分で聞いてから、ずいぶん踏み込んだ質問だと気づいた。彼女の旅は俺より先に始まっている。俺が来たせいで、それを止めてしまうのは嫌だった。
ミルカは一瞬だけ考えた。
「今のところ、研究所へ行くなら東へ飛ぼうと思ってる。それが終わってから、次を決めたい。帰る話が何も分からないうちに、勝手に置いていきたくないから」
「でも、ミルカの旅まで、全部俺の都合で」
「全部じゃないよ」
彼女は歩いたまま言った。責める声ではなく、俺が取り違えているところを直す声だった。
「今日は、私がハルトと出かけたかった。明日の行き先も、私が自分で決める。だから、何もしてくれなくていいとか、待ってくれなくていいとか、全部先に言わないで」
荷車がまた一台、俺たちの前を横切った。ミルカは車輪が通り過ぎても歩き出さなかった。俺は言いかけた「でも」を飲み込む。
「……今日の分まで、返そうとしてた?」
「ちょっと。そんなに大変な休日だったかなって」
「違うよ。楽しかった」
「それはさっき聞いた」
彼女の声が少し硬くなった。俺は袋も工具も持っていない両手を見た。礼を返せない時間を、知らずに短くしようとしていたのかもしれない。
「明日どうしたいかは、まだ分からない。でも、今日誘ってくれたことは、そのまま嬉しい。そこから先の話まで先回りした。ごめん」
ミルカは鞄の紐を直した。すぐには笑わなかったが、今度は足を動かした。
「帰ってから決めよう。歩きながら考えると、私も言い方がきつくなる」
「うん」
彼女は先ほど包んだ種を、鞄の外側の小さなポケットへ入れた。そのあとで、俺に少しだけ近づいた。港の狭い道を通るためかもしれない。俺には分からないが、肩が触れても、今度は歩幅を変えなかった。
家へ戻ると、玄関の小さな鐘が鳴った。ミルカが鍵を開け、俺は後ろで靴を脱ぐ順番を待つ。彼女が入ってから、扉を押さえる役は俺がした。
「ただいま」
ミルカが言った。家の中には誰もいない。自分へ知らせるような挨拶だった。俺はその後から入り、同じ言葉を口にしていいか、一瞬迷った。
彼女がこちらを見た。
「ハルトも、帰ってきたんだから」
「……ただいま」
言ってみると、昨日より家の床が足に馴染んだ気がした。俺の家族が待っている家は別にある。それでも今日歩いた丘から戻る場所は、ここだった。
夕方、ラウラさんから使いの人が来た。研究所の返事が届いたという。ミルカが扉のところで紙を受け取り、食卓へ持ってきた。俺には読めない文字を、彼女がゆっくり読んでくれる。
帰還について詳しく相談できる。来た時に持っていた道具を、できるだけ全部持参してほしい。四日後の午前に時間を取れる。もっと早く家族への連絡だけを希望する場合は、その方法も検討する。
俺は腕時計へ指を当てた。言葉だけではなく、日時のある返事が来た。ミルカも紙を机へ置き、地図を出した。
「ここ。サイラ。穏やかなら、一日で飛べるけど」
彼女の指が川の線をたどった。途中の町に一泊しても十分間に合う。俺がそう尋ねると、ミルカは頷いた。今の風なら、明日出発するのがよさそうだという。
今日、帰る方法を少し忘れて景色を見た。その日の終わりに、帰るための道が近づいた。どちらも嬉しいはずなのに、俺は今日撮った写真をもう一度見たくなった。彼女は紙を畳み、俺の服を乾かした紐の方へ目を向ける。
「じゃあ、明日は旅の荷物も準備しよう。町を離れるの、私も久しぶり」
ミルカは少し楽しそうだった。その声に、俺も頷くことができた。




