第4話 家ごと出かける初仕事
ラウラさんから渡された配達袋は、持った瞬間に鳴った。金属が布の中で触れ合う音だった。俺が中身を気にして見下ろすと、ミルカは袋の口を広げてくれた。細い環が三つ、紐で束ねられている。
「風見の部品。川向こうの農場へ持っていくの」
「昨日持って帰ったの、これか」
「うん。今日届けるって言ってある」
俺は袋を受け取り直した。ミルカは食卓の上に短い紙を広げ、今日の風を確かめている。絵は分かった。雲と矢印、川の線。その隣の文字だけが読めない。
最初の仕事に連れていってほしいと頼んだのは、昨日の夕食のあとだった。帰還担当からはまだ返事がない。待っている間、家で掃除をしていてもいいが、彼女の仕事を知らないまま同居の負担を計算するのもおかしい気がした。
ミルカはすぐには頷かず、乗り物で気分が悪くならないかと聞いた。昨日の飛行ではそこまで余裕がなかったので、今朝、食べる量をいつもより少し減らした。初仕事へ行くのに、朝食を少なくすることから考えるとは思わなかった。
「袋、食卓の下へ入れてもらっていい? 紐で結べるところがあるから」
「ここ?」
「そう。座面じゃなくて、床の金具」
俺は腰をかがめ、袋の紐を結んだ。重い物は低い場所へ固定する。昨日の買い物袋は歩く間だけ気にしていればよかったが、家ごと飛ぶとなると、置く場所にも理由がある。
ミルカは水槽の目盛りを見て、風晶を確かめた。玄関脇の小さな箱に、青白く光る石が入っていた。俺がそちらへ寄ると、彼女はふたを押さえたまま説明してくれた。
「これで家を浮かせるの。今日は近いから余裕があるけど、念のため」
「魔法って、ミルカがずっと力を使ってるわけじゃないんだな」
「全部自分でやったら、ご飯の時に寝ちゃう。石にもためておけるの。風を細かく変えるところは、私がやる」
俺は箱の光を見た。何時間使えるか聞くと、穏やかな天気で六時間くらい、安全のために全部は使わないという答えが返ってきた。今日の農場は片道一時間ほど。係留場を出て川を渡り、対岸の丘を一つ越える。
港の旗が上がるのを待ち、ミルカが家を浮かせた。俺は昨日決めた窓際の席へ座っていた。テーブルの縁をつかむが、手すりほどきつくは握らない。彼女が一瞬こちらを見て、首を伸ばさなくても景色が見えるでしょ、と笑った。
今朝の川は白い光を散らしていた。漁の小舟が三つ、水面で行き違う。空にも船の道がある。右手の柱の間を、大きな貨物船がゆっくり動いていた。ミルカはその進路を避け、住宅の道を低く進む。
俺が船の名前を聞くと、彼女は知らないと答えた。港でよく見かけるが、全部の名前を覚えているわけではないらしい。そういう当たり前の返事がある方が、この世界は広く感じられた。
家が川の上へ出た。足元の床からは見えないが、窓の外を流れる水のきらめきで分かる。対岸へ近づくと、丘の上に草を刈った広場があった。そこに丸い白い目印。周りには低い建物と、長い布を張った棚がある。
「ここで降りる?」
「もう一つ先。ここは染めた布を干してるところだから、風を当てすぎると怒られる」
ミルカは速度を落とし、少し右へ回り込んだ。空を飛べるから、下の人に関係なく進めるわけではない。干した布がひらりと揺れたが、彼女はそれ以上近づかなかった。
農場は麦畑の端にあった。赤い瓦の母屋と、灰色の大きな倉庫。倉庫の上で風見が斜めに傾いている。俺の目にも、輪の一つが曲がっているのが分かった。
ミルカが家を下ろすと、母屋から年配の男性が出てきた。色の抜けた麦わら帽子に、土で白くなった膝。作業着の袖を肘までまくり、手に布を持っている。背は少し丸いが、畑から広場へ歩く足取りは速い。彼は家の脚が石へ載るまで待ち、ミルカへ手を振った。
「来たね。ありがとう。昼までには着くだろうって、女房と話してた」
「風が穏やかで、早く来られました。直すところも見ていい?」
「頼むよ。梯子、出しておく」
俺が袋を持って出ると、男性はミルカの同業者かと聞いた。家具の修理をしていて、今日は荷物を運ぶ係だと答える。名前を聞かれたので晴人と名乗ると、彼も自分の名前を教えてくれた。ダンさん。この農場で麦と豆を育てているという。
初めて会う人に仕事を尋ねられて、俺は何となく背中が伸びた。漂着した人だという説明がなくても、荷物を持ってここへ来た理由は話せる。それをミルカが言い直さず聞いていてくれた。
ダンさんが梯子を運び、倉庫の側面へかけた。ミルカはそれへ足を載せる前に、下の土を踏み固めた。飛んで上がらないのかと俺が聞くと、今日は部品を外すので両手を使いたいという。
「浮いてると、自分も少し動くでしょ。こういう時は梯子の方がいい」
「なるほど。何でも飛ぶわけじゃないんだ」
「飛ぶ方が楽な時に飛ぶの。ハルトも、椅子を直す時には座ってたし」
俺は納得して梯子を押さえた。銀色の髪が上がっていく。彼女は中段で一度止まり、裾を留める細いベルトを調整した。俺が視線を横へそらすと、上から声が降ってきた。
「そっち、ちゃんと見て。下がずれたら教えてほしい」
梯子を見ていればいいだけだった。俺は自分の余計な気遣いを少し恥じ、足元へ集中した。ミルカは上で風見の輪を手に取り、どこが曲がったかダンさんへ伝えている。聞きながら、俺も壊れたところを見た。
交換する輪を袋から出した。三つのうち、一つは薄い。俺は同じ大きさに見えた輪を選び、上へ差し出した。ミルカが受け取りかけて、止まる。
「あ、待って。そっちは外側の。真ん中が、少し厚い方」
「同じじゃないのか」
「似てるけど違う。袋の札に書いてあるんだけど」
読めない。俺は袋を見た。ミルカがこちらの文字を読めないことを忘れていたのと同時に、俺も形だけで分かったつもりになっていた。彼女は上から具体的に厚い部分を示した。今度は確かめて渡す。
「ごめん。勝手に同じだと思った」
「こっちも、札が読めるつもりで頼んだ。次は言うね」
彼女は輪を受け取り、工具を持ち替えた。俺は残った二つを袋へ戻さず、厚さを指で比べた。父の店のねじなら、似ていても長さを確かめる。ここでも同じだった。
輪の交換が終わり、ミルカが下りてきた。ダンさんは倉庫へ入るよう促した。屋根の風見は、倉庫の風通しを助ける仕組みらしい。中には麦の袋が積まれ、奥に低い棚が並ぶ。戸口から入った光が、袋の上の細かい粉を照らしていた。
風見の向きを確かめるため、ダンさんが奥の窓を開けた。ミルカは戸口で両手を動かし、流れを調整する。俺は作業の邪魔にならないよう袋の横へ立った。だが彼女はすぐに俺を呼んだ。
「そこの紙、持ってくれる?」
机に薄い紙があった。俺が手に取ると、どの高さへ上げるか示される。紙が小さく揺れた。彼女は奥へ少し進むよう頼み、俺は言われた場所まで歩いた。窓の前では紙の揺れ方が変わる。
ミルカが左の手を少し下げた。紙の端が静かに落ちた。俺にも、風が一箇所へ強く当たりすぎていたことが分かった。
「今ぐらいでどうですか」
「いいね。袋が湿らなければ、粉にする時も助かる」
ダンさんが満足そうに頷く。ミルカの仕事は、空飛ぶ家を動かすことだけではなかった。麦の袋に風を通す。食卓へ届くパンにも、彼女みたいな人の仕事が入っている。
外へ出ると、風見が静かに回っていた。俺が屋根を見上げている間、ミルカはダンさんへ、しばらく様子を見てほしい箇所を伝えた。今日は無風ではないから、この状態で困ることは少ない。けれど強い風の日には、輪が動きすぎないか確認する必要があるらしい。
話が終わると、母屋の扉から女性が出てきた。手に丸い籠を持っている。焼いた豆の匂いがした。ダンさんの奥さんだと紹介され、俺は挨拶した。彼女はミルカのそばへ来て、籠を腕へ載せた。
「お昼、食べていく? ちょうど焼けたところなの」
「ありがとうございます。でも、今日はまだ帰ってから荷物を下ろすので」
「じゃあ持ってって。そっちの人も、食べるでしょ」
俺にも小さな包みを渡してくれた。紙越しに温かい。ミルカが受け取る時、嬉しそうに目を細める。さっきまでの仕事の顔が、半分の焼き菓子を見ていた顔へ戻った。
報酬を受け取り、二人で家へ戻った。ミルカは台所の隅に籠を固定し、荷物袋を確認する。外した輪はラウラさんへ持ち帰る。壊れた部品を交換して終わりにしないところは、父の店と似ていた。
離陸して間もなく、窓の外へ影が動いた。小さな鳥が群れている。三十羽、もっといるかもしれない。家の前を横切り、丘の陰から一斉に上がってきた。
ミルカが輪へ置いた指を止めた。前の窓を見て、次に左の窓を見る。
「少し、回るね。ハルト、荷物のところ見て」
家がゆっくり左へ傾くように動いた。床そのものはほぼ水平だが、窓の中で丘の線が動く。俺は食卓の下へかがみ、袋の紐を確かめた。
「大丈夫。結んだまま」
「分かった。じゃあ、立たないで」
俺は床へ座った。直後、台所で紙の擦れる音がした。俺が振り向くと、昼食の包みが籠から少しずれている。つい手を伸ばして押さえかけ、ミルカの指示を思い出した。立たずに届く位置ではない。
「台所の包み、動いてる」
「落ちても割れないから、そのままでいい。今、止める」
彼女は前を見たまま答えた。俺は動かなかった。さっき自分がいれば荷物を押さえられると思っていたが、彼女が困るのは、無理に動く同乗者なのかもしれない。
床の揺れが収まった。窓の外へ鳥の群れが遠ざかる。ミルカが大きく息を吐き、こちらを向いた。
「もう大丈夫。びっくりした?」
「少し。鳥を避けたの?」
「鳥もだけど、あの鳥が一斉に上がる時は、丘の下から風が出るの。今日は弱いと思ってたけど、急に変わったから」
鳥は飾りではなかった。彼女は自分の目で、風の変化を見つけていた。俺には紙を持っている時の風ぐらいしか分からない。
「仕事を見に来てよかった。さっきの、俺なら何も分からず進んでたと思う」
「進む前に、家を浮かせられないけどね」
「確かに」
ミルカが笑った。俺は床から立ち、座面についた草を払って椅子へ戻った。
港へ帰る途中、小さな川原の係留場へ降りた。風が変わったので少し待とうと言われた。俺は時計を見た。早めに戻る予定だったが、昼にはまだ余裕がある。予定を守るために急いで飛ぶ理由もない。
ミルカは風晶の光を確かめ、扉を開けた。外の空気が台所へ流れ込む。俺は届かずにいた昼食の包みを取り、崩れていないか見た。丸いパンに豆が詰められている。幸い、形は少し潰れただけだった。
「ごめん。あそこまで動かす予定じゃなかったから、籠の方を軽く留めちゃった」
「昼飯がこうなるくらいなら、俺は困らない。立つなって止めてくれてよかった」
「うん。手を伸ばした時、ちょっとひやっとした」
俺は謝った。彼女は、次は一緒に飛ぶ前に話しておこうと言った。飛行中に動いていい時と、座っていてほしい時。今朝説明したつもりで、足りていなかったことがいくつかあったらしい。
扉の内側で座って昼食を食べた。外へ出ると、風が少し強い。ミルカは裾を膝の下へ挟み、パンを両手で持っていた。飛ぶ時に結んだ髪の端が、肩の向こうで揺れている。
「ハルト、今日、疲れた?」
「思ったよりは。袋運んで、梯子を押さえてただけなのに」
「知らない場所で、知らない仕事だもん。ずっと気にしてると疲れるよ」
「ミルカも最初、そうだった?」
彼女はパンを一口食べ、飲み込んでから答えた。
「師匠と初めて飛んだ時、降りてから全部忘れた。見ておきなさいって言われたところも、何を見たか分からなくて。家へ帰って、もう一回聞いた」
「怒られた?」
「全部飛ぶ前に説明した、とは言われた。でも、本当に全部覚えてたら、私、弟子にならなくてよかったでしょ」
ミルカは当時の自分を笑った。ラウラさんも同じように笑っていたのかもしれないが、それは俺の想像だ。俺は厚い輪と薄い輪を間違えたことをもう一度思い出した。明日は同じ間違いをしない。それ以上のことを、今日全部できる必要はない。
昼食が終わると、ミルカは小さな財布から硬貨を四枚出した。俺の手へ渡そうとする。
「今日の分。荷物を運んでくれたから」
「俺、見せてもらうつもりで来たんだけど」
「うん。でも、手伝ってくれた。これは受け取って。服のお金にするなら、そこから返してくれればいい」
最初から服の借りを少なくしてくれるのとは違う。俺が今日したことを、彼女が仕事として数えてくれた。金額が適切かはまだ分からない。だが、働いたのか、泊めてもらう礼なのかを曖昧にしない方が、この先も暮らしやすい気がした。
「ありがとう。次は、札の字も覚えておく」
「次も同じ部品とは限らないよ」
「じゃあ、渡す前に聞く」
彼女はそれなら安心、と頷いた。俺は硬貨を財布へ入れた。日本の小銭の隣へ、こちらの硬貨が四枚。どちらの暮らしも、今は同じポケットの中にあった。
風が穏やかになり、二人で港へ戻った。ラウラさんの修理場で部品を下ろすと、彼女は交換した輪を見て、ミルカへ仕事の結果を聞いた。俺の方には、初めての荷扱いはどうだったかと尋ねる。間違えた部品の話を自分から伝えると、彼女は俺の服の札を見た。
「字も覚えていくといい。全部じゃなくて、触る物から。数字はどうだい」
「まだです」
「じゃあ明日、店の値札を見て。文字が読めなくても買えるけど、読めると、自分で選べる」
彼女は俺を叱る代わりに、次にできることを一つ増やした。ミルカは工具棚へ返す物を分け、その横で帰還担当の返事を確かめてくれた。まだ届いていない。ラウラさんは、届けば係留場へ知らせると約束した。
家へ戻った時、夕方の光が食卓へ入っていた。紙に挟んだ花の上には、重しが載っている。俺はそれを奥へ寄せ、今日も二人分の椅子を引いた。ミルカは台所の籠から昼食の残りを取り出し、夕食をどうするか考えていた。
「疲れたから、今日はこれとスープでいい?」
「十分。皿、俺が出す」
食事の途中で、彼女が思い出したように窓を見た。
「明日は仕事を入れてないの。風もよさそうだし」
「家の手入れ、もう少しする?」
「それもいいけど。ずっとここにいると、ハルト、港と農場だけしか見ないままになるでしょ」
ミルカはスプーンを鍋へ入れ、俺の皿に少し足した。それから自分の分も足す。
「丘の上に、川が全部見える場所があるの。明日、行かない?」
道具も荷物もいらない誘いだった。俺は、そこの値札を読む勉強はできないな、などと余計な返事を考えかけたが、やめた。
「行きたい。ミルカは、よく行く?」
「一人ではたまに。でも、二人なら、帰りに市場で何か買って半分にできる」
彼女がそう言うので、俺は川桃の焼き菓子を思い出した。今度は二つ買うのもいい。一つを半分にするのとは、また違う楽しみ方があるかもしれない。
俺が承知すると、ミルカは食卓の上を見回し、明日は早く起きすぎなくていいと言った。仕事の朝と同じように、俺が食べる量まで減らさないか心配しているらしい。
「明日は、歩くから。パン、ちゃんと食べてね」




