第3話 朝食は二人分
ミルカの家にある工具箱は、持ち上げた時に中身が全部右へ寄った。ふたを開けると、金槌と細い釘、短い鋸、糸巻きが入っている。糸巻きの下に、乾いた花が押し潰されていた。
「これ、道具と一緒でいいの?」
花を拾い上げると、ミルカが目を丸くした。物置の扉に肩を当てて立っていた彼女が、俺の隣へ屈み込む。
「あ、あった。去年の灯り市で買ったやつ」
「工具箱で探してた?」
「ここには入れた覚えがない」
きっぱり言われても、現に入っていた。ミルカは花を受け取り、折れた茎のところへ指を添えた。淡い黄色の花弁が一枚、床へ落ちる。俺が拾おうとすると、彼女も手を伸ばした。
「あ、いい。私が」
二人の指がぶつかった。彼女は先に花弁を拾って工具箱のふたへ置き、俺の方を見た。
「これ、壊したくないの。もう壊れてるけど」
「押し花にしたら、残せるかもしれない。紙と、平らな重いものがあれば」
「じゃあ、あとでそれも見て」
棚の扉を直すだけの予定が、もう一つ増えた。昨日は困り物を見ると自分から手を出してしまった。今日は彼女が頼んでくれたので、その違いだけで少し気が楽だった。
物置から下りる前に、俺は客室の棚へ袋を置いた。帰還窓口から戻る途中、ミルカと今夜の話をした。彼女は部屋を使い続けてもいいと言ってくれた。俺は最低でも食費を払えるように働きたいと伝えたが、無理に初日から仕事を探すより、まず帰還担当の返事を待った方がいい、と言われた。
結局、一週間を目安に泊めてもらい、その間は家の手入れと日々の片づけを分担することになった。彼女が払った食費や係留費を全額あとから借金にする話ではない。一緒に暮らすことで増える負担を俺も引き受けたい、という相談だった。研究所へ行く必要ができた時は、改めて移動と費用を決める。
俺が工具箱を持って一階へ下りると、ミルカはもう台所の棚を空にしていた。瓶と皿が食卓へ移り、普段の倍くらいの物があるように見える。昨日から触っていないパン袋も隅へ寄せられていた。
「直す時、中に物がない方がいいかなと思って」
「助かる。棚ごと動かすかもしれないから」
扉は右下が少し擦っている。蝶番のねじが緩み、下へずれていた。俺が説明すると、ミルカは昨日の椅子と同じ失敗を想像したのか、指先を棚から離した。
「ここも風で押さない方がいい?」
「今日は、押さえてもらわなくて大丈夫」
「じゃあ、何したらいい?」
「食卓の方を使えるように戻してほしい。全部じゃなくて、今朝使う分だけでも」
昨日は帰ることしか考えられなかったのに、もう今朝の食卓を使うつもりで話している。ねじを締め直し、扉の位置を合わせてみると、木の擦れる音がなくなった。ミルカは横から見ていたが、終わったと伝えるまで触らずに待っていた。
「開けていい?」
「どうぞ」
彼女は取っ手をつかみ、扉を開け、閉め、また開けた。三回目でこちらを向く。
「片手で閉まる」
「昨日まで、両手?」
「右手で持ち上げて、左手で押してた。慣れると、そんなに困らないんだけど」
「それに慣れなくていいんだよ」
ミルカは取っ手を握ったまま笑った。俺は道具を片づけ、瓶を戻す位置を聞いた。塩は右、油は左、香草は奥。俺には札が読めないので、場所を覚えることにする。彼女は字も覚えておけば間違いにくいと言い、紙の切れ端へ塩の文字を書いた。
「昨日、名前は三つ覚えたでしょ。これも覚えられるよ」
「字が瓶の曲面で伸びて見えるんだけど」
「じゃあ、こっちの札を正面にして。ほら」
彼女は瓶を回してくれた。母も、図書館で初めて来た子へ同じように本を開くことがある。俺は指で札の角を押さえ、教わった文字をもう一度読んだ。
朝食を食べ終えてから、二人で皿を洗った。ミルカが洗い、俺が拭いて棚へ戻す。勝手に触るなと言われていた台所を、相談しながら使うことになった。彼女が何をどこへ置くのか、昨日より多く知っている。棚の扉は閉めるたび、気持ちよく小さな音を立てた。
外へ出る時、ミルカが買い物袋を俺へ一つ渡した。昨日借りた袋とは違い、底が厚く縫われている。俺は身分札と、日本円の入った財布を確認した。ここでは札の方が役に立つ。
「何を買う予定?」
「パンと卵と、お昼の魚。あと、洗う布。ハルトの服、ずっとそのままだと困るでしょ」
「それも気になってた。乾くまでの服をどうしようか」
「港に古着のお店がある。そこで見てみよう。お金は、あとで働いた時に返してくれればいいから」
昨日、生活費全体を借金にはしないと決めたが、俺個人の服まで全部彼女に頼むのは違う。俺は頷き、いくらぐらいするのか聞いた。シャツが十五リル前後だという。値段の感覚をつかむため、パンや宿の値段も聞くと、彼女は歩きながら答えてくれた。
空の家が並ぶ係留場を抜け、市場へ入る。石畳の上に布の屋根が重なり、焼いた麦の匂いが風に混じっていた。八百屋が客と話し、その奥で車輪の小さな台車が魚の箱を運んでいる。目に入るものは珍しくても、毎日の買い物をしている人たちは珍しいことをしている顔ではなかった。
ミルカは卵を買う前に、箱の中を見せてほしいと店の人に頼んだ。昨日一つ割ったので殻を心配しているのかと思ったら、小さい卵と大きい卵の値段を比較していた。四つを選び、袋の一番上へ置く。
「今日は二つずつ?」
「明日の分も。毎朝落とすわけじゃないからね」
「俺、まだ昨日の一回しか知らない」
「そこから判断しないで。月に一回あるかどうかだから」
「月に一回はあるんだ」
彼女は返事をせず、次のパン屋へ向かった。無視というより、俺が笑ったのでこれ以上弁明しても駄目だと思ったらしい。俺は卵の袋を自分の手へ移した。ミルカが抗議しかけたので、別の袋を持ちたいわけじゃなく、厚い方に入れたいだけだと見せる。
「卵のため?」
「うん」
「じゃあ、そういうことにしよう」
彼女は空になった薄い袋を畳んだ。
パン屋の隣に、焼き菓子を並べた小さな店があった。蜂蜜の香りがする。ミルカが足を止め、台の向こうの女性へ手を振った。赤茶の髪を顎のあたりで切り揃えた人が、天板を持ったままこちらを向いた。
「ミルカ。今朝はずいぶん早いね。まだ温かいの、こっち」
焼き菓子の店の女性は天板を台の奥へ置き、布で手を拭いた。ミルカより二つ三つ年上に見える、頬のふっくらした人だった。淡い緑の服に白い前掛けを重ね、短い赤茶の髪を片側だけ耳へ掛けている。店の奥にいる誰かへ焼け具合を尋ねるのではなく、自分で天板を傾け、菓子の底を見てから台へ並べた。指の先に粉が残っている。顔を上げて俺を見た時、眉が大きく動いた。
「え、誰」
「ハルト。昨日、空から落ちてきて」
「拾ったの?」
「救助したの」
「じゃあ、その人はお礼をしに来たの?」
ミルカの返事を待つ前に、俺は名乗った。彼女がどんな説明をするか気にして黙っているのも変だった。
「今、ミルカの家に泊めてもらってます。こっちの世界へ来たばかりで、まだ行くところがなくて」
「そう。私はセナ。そこの魔女が、子どもの頃から焼き菓子を買いに来る店の人」
「今は、セナのお母さんじゃなくてセナのお店でしょ」
「そうだね。昔はミルカが小さかった。今は私が店を持った。二人とも、ずいぶん大きくなった」
セナさんは言いながら、ミルカの頭の上へ掌をかざした。彼女はその下から逃げ、店の端の丸い焼き菓子を指す。
「二つ上だからって、いつまでも小さい扱いしないで」
「小さい頃から知ってるんだから、そこは無理。私が店を継いだ時、あんたも大人になったと思ってたのに、熱いのをすぐ食べるところは変わらないし」
ミルカが言い返すより先に、セナさんは次の天板を取りに身をひるがえした。親の代からこの店を知る二人の間へ、俺は買い物袋を抱えて立っている。ミルカには、この家の外にも遠慮なく言い合える相手がいた。
「今日の、何味?」
「川桃と、いつもの蜂蜜。どっちにする?」
ミルカは川桃を見た後、卵の袋を見た。つられて俺も袋を見る。卵は無事だ。何の確認か分からず顔を戻すと、セナさんが笑った。
「今日は二人分の買い物?」
「うん。だから、ちょっと考えてる」
「お菓子は一つでも分けられるよ」
「最初から分けるつもりで買うと、小さい方になる気がする」
ミルカが妙に真剣だった。セナさんは俺を見る。意見を求められたようなので、俺は大きい方を彼女へ渡せば問題ないと答えた。ミルカは少しだけ口を尖らせた。
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「分かってる。俺も味を知れればいい」
「半分ずつにする。ちゃんと」
彼女は川桃の焼き菓子を一つ買った。セナさんは紙へ包みながら、別の小さな欠片を俺へ差し出した。
「これは試しに食べて。蜂蜜の方。甘いの、苦手じゃなければ」
俺は受け取って口へ入れた。表面は軽く固く、内側にやわらかい甘さがある。噛むと麦の香りが立つ。食べる前は地球の何に似ているか考えていたが、食べてしまうと、それでなくても十分おいしかった。
「おいしいです。こっちのは、まだ温かいんですね」
「今、出したからね。ミルカは冷ましてから食べた方がいいよ。前に急いで食べて、熱いって私に怒ったから」
「怒ってない。教えただけ」
「私が知らないはずないでしょ」
ミルカが俺の袋を軽く押し、もう行こうと促した。セナさんは笑ったまま手を振る。それから少し声を落とした。
「ハルトさん、分からないことがあったら、ここでも聞いてね。帰る話も、もう始めてる?」
「昨日、窓口へ行きました。研究所から返事を待ってます」
「そっか。じゃあ、待つ間に、ここの味も覚えていって」
彼女は店の中へ戻った。次の客が来ていた。俺は蜂蜜の残る指を舐めかけ、客の前だったので、包み紙で拭いた。
古着屋では、ミルカの方が俺より慣れていた。棚の中から薄いシャツを出し、縫い目を見て、俺の肩へ当てる。買う前に着てみたいと言うと、奥に小さな仕切りがあると教えてくれた。俺が入ろうとすると、彼女も付いてきた。
「ミルカは、外で待ってて」
「え、あ。そうだね。うん」
彼女は服を全部俺へ渡し、勢いよく引き返した。仕切りの向こうで店主へ何か説明している。裾の長さを見たかったのだと思うが、そこまで本人が一緒に着替える必要はない。
新しいシャツは肩が少し広かった。ズボンも試したが、どれも丈が合わない。俺が元の服へ着替えて出ると、ミルカが真面目な顔で待っていた。
「どうだった?」
「これなら使える。ズボンは裾を直せば」
「直せるよ。裁縫はできるから」
できることがあって嬉しそうだった。俺が頼むと、ミルカは候補のズボンを広げ、膝と尻の布を確認する。工具で椅子を直す俺を見ていた時とは違い、どこを見ればいいか分かっている目だった。
俺はシャツとズボンを買った。値段は合わせて三十リル。ミルカが払うところを見て、あとで返す金額をしっかり覚えた。服を抱えて店を出ると、彼女が今日は晴れるから洗濯物が早く乾くだろうと言った。ようやく、ずっと同じシャツを着ていることから解放される。
家へ帰り、荷物を分けて置いた。魚は台所へ、卵は棚の下の涼しいところへ。ミルカは買ったズボンを食卓に置き、俺の腰から足までを眺めた。
「測っていい?」
「うん」
「動かないで。ここに立って」
彼女が細い紐を脚の横へ当てた。膝をつき、裾の位置へ指を置く。俺は食卓の端を見た。測っているだけだ。そう分かっていても、銀色の髪がすぐそばにあると、足の置き場が気になった。
「もう少し、右の足を」
彼女に言われて動かすと、膝が肩へ当たりかけた。ミルカが顔を上げる。
「緊張してる?」
「じっと立ってるのが苦手なんだ」
「飛ぶ時は、ずっと手すりにつかまってたのに」
「それは離す方が怖かったから」
ミルカが笑った。彼女の方は仕事に集中している。俺だけが足の置き場に困っているのが、少し悔しかった。
測り終えると、彼女は俺を別の場所へ追いやった。縫う間に洗濯を始めていいという。俺は客室で買ったシャツへ着替え、今までの服を持って下りた。石鹸の使い方を教わり、桶で水を使う。ミルカは縫い物をしながら、飛ぶ家では水を無駄にしすぎないよう教えてくれた。
家の後ろに洗濯紐を張った。俺のシャツの隣で、ミルカの薄い上着が揺れている。彼女の分まで干すかと聞いたら、今日は外へ出せる物だけお願いと渡された。袖が重ならないよう、間を少し空けた。
昼前、ズボンが仕上がった。履いてみると、裾は靴の上へちょうど落ちた。ミルカは俺の足元を見て、自分の縫ったところを確かめていた。
「長すぎない?」
「ちょうどいい。ありがとう」
「じゃあ、棚の分」
昨日俺へ夕飯を勧めた時と同じように言われた。俺が何かして彼女から受け取ることばかり気にしている間に、彼女も同じことを考えていたらしい。
「これで、一つずつ直したな」
「ハルトは椅子もだから、二つ」
「卵を分けたのも数える?」
「それは二人でやったから、半分ずつ」
その数え方だと、やがて分からなくなる。俺は余った糸を巻き、工具箱へ戻した。
午後の早い時間に、セナさんの焼き菓子を食べた。ミルカは包み紙を広げ、真ん中へ刃を当てた。川桃の入った部分だけ偏らないよう切ったせいで、どちらも少し崩れた形になった。
「ほら、半分」
「ありがとう」
俺が一つ取ると、彼女は残った方を少し見た。どうしたのか聞く前に、一口食べてこちらを向いた。
「おいしい?」
「うん。蜂蜜のより、少し酸っぱいな」
「私、こっちの方が好き。夏の前だけ売ってるの」
俺も自分の方を食べた。彼女が好きだと言うと、そこにもう一つ味が増えたような気がした。今日覚えたのは、自分の名前の文字、塩の置き場、三十リルの借り、それからミルカの好きな焼き菓子だった。
俺が包み紙の隅に残った欠片を拾っていると、ミルカがその紙を引き寄せた。まだ食べるつもりかと思ったら、乾いた花を持ってきて、間へ入れる。
「この紙でもいい?」
「油がついてないところなら。新しい紙、ないの?」
「ある。でも、これ、川桃の匂いがする」
花の保存に匂いが必要かは分からない。だが彼女が今日の紙を使いたいなら、その都合を否定するほどの理由もなかった。俺は油のついていない端を選び、折れた花をそっと置いた。別の紙で上下を挟み、重い板の下へ収める。
ミルカは板の上へ小さな瓶を一つ載せた。それだけでは軽いと言うと、もう一本。俺は笑いかけて、ちゃんとほかの重しを探した。強い風を操れる魔女の家で、二人とも食卓の上に置ける重さを探している。
「これ、どのくらいかかる?」
「何日か。湿らないか見ながら待とう」
「じゃあ、帰る前に、開けて見てね」
さらりと言われた言葉に、俺は手を止めた。まだ、帰る日が決まったわけではない。でも彼女は、俺が帰ると思っているし、帰れるように相談へ連れていってくれた。そのうえで、紙を開く時には俺もいてほしいと言っている。
「うん。一緒に見よう」
ミルカはそれで満足したようだった。板の端を食卓の奥へ寄せ、昼食を作るため立ち上がる。俺は椅子を戻し、魚を包んだ紙を持って彼女の後を追った。
台所には、読めない札のついた塩の瓶がある。今は文字を読めなくても、どの瓶かは分かった。俺がそれを差し出すと、ミルカは礼を言う前に魚へ目を向けた。
「今日は、塩を入れる前に味見して。昨日のスープ、少ししょっぱかったでしょ」
「実は、ちょっと」
「やっぱり。おいしいって言ったから、大丈夫かと思った」
俺はしまったと思った。善意に礼を言いたくて、味の話をそのままにしていた。ミルカは怒っていない。ただ今日の昼食をどうするか考えている。
「おいしかったのは本当。塩はもう少し少ない方が好き」
「じゃあ、今日はそうしよう。私も、もう一口食べた時に気づいたから」
彼女は油の瓶を取った。朝は二人分の卵を買った。服の裾を直してもらい、お菓子を半分にした。そして今は、好みを言っても夕飯の席を失わないと、ようやく分かり始めていた。




