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異世界で空から落ちた俺、銀髪の魔女に拾われました。――彼女は家を飛ばせるのに、椅子ひとつ直せません  作者: 芦名 雅


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第2話 あなたの帰りを待つ人



 知らない天井で目が覚めた時、最初に確認したのは床だった。昨日の夕方、この家は本当に飛んだ。食卓をつかんだ俺の横で、ミルカは平然と根菜を鍋へ入れていた。飛んでいるのは家であって鍋ではないから大丈夫、と言われても、鍋はその家の中にある。


 ベッドから片足を下ろしてみる。床は固かった。窓の向こうに草原がある。家は地面へ戻っていた。昨日は場所を少しずらしただけで、港への移動は朝にするという説明を、俺は夕飯の途中でようやく理解した。水を補充できる場所に寄せたらしい。


 二階の客室には、ベッドと低い棚、小さな机がある。俺の服を掛けるため、ミルカが自分の部屋から持ってきてくれた木のハンガーが二本、棚の上に置かれていた。一泊するだけのつもりだったから、シャツはまだ着たままだ。スマートフォンを見ると、電池は二十七パーセントになっていた。


 母へ昨日打ったメッセージは送信されていない。「変なところへ来た。怪我はない」。信じてもらえるか分からない文章でも、届くなら送りたかった。新たに「あとで連絡する」を足しかけ、やめた。いつか分からない約束を増やすより、電池を残しておいた方がよかった。


 下から何かが跳ねる音がした。次に、短い悲鳴。俺はスマートフォンを置いて階段へ出た。


「大丈夫?」


「大丈夫。卵が一つ減っただけ!」


 台所でミルカが濡れ布巾を持っていた。床に広がった卵を片づけながら、足の甲を浮かせている。昨日は首の後ろでまとめていた髪が、今朝は片方の肩へ流れていた。寝起きなのか、横に細いはねがある。


「踏んだの?」


「割れた時、避けたら、避けた先に落ちた」


「それは避けたとは言いづらいな」


「上から落ちてきた人に言われたくない」


 俺は布巾を受け取った。彼女には足を洗ってもらい、自分は床を拭く。濡れた床に二人でしゃがむより、その方が早かった。ミルカは台所の隅の水栓で足を洗いながら、朝食が一人分ずつ減るかもしれない、と心配していた。


「卵、一つなのに?」


「二人で食べる予定の二つが、一つになったの」


「じゃあ、半分ずつでいい」


「切ると、黄身が片方へ寄っちゃう」


「炒めてから分けたら?」


 ミルカがこちらを見た。そんな手があったのか、という顔をしている。俺が鍋へ油を落とし、残った卵を溶くと、彼女は昨日のスープを温め直した。卵一つを二つの皿へ分け、パンの端を添える。食卓に並べれば、十分に朝食らしく見えた。


 彼女は俺が直した椅子へ座った。昨日は別の椅子を使っていたのに、今朝は迷わずそこを選んだ。そのことが少し嬉しくて、俺は向かいの椅子を引いた。


「よく眠れた?」


「うん。途中で一回、窓を見たけど」


「飛んでるか確かめた?」


「分かるのか」


「初めて泊まる人、だいたいそうするから。祖母の友達なんて、寝る時も靴を履いてたって」


「飛んだらどうするつもりだったんだろう」


「分からない。でも、靴って安心するんじゃない?」


 俺のスニーカーは玄関に揃っていた。靴を脱いだまま知らない世界で眠れたのは、ミルカが上の部屋の鍵を渡してくれたからでもある。彼女自身も隣の部屋へ入ってから鍵をかけた。そういう距離をきちんと置いてくれた方が、俺にはありがたかった。


 スープの根菜は昨日より柔らかかった。何という名前なのか聞くと、ミルカが答えてくれた。俺の知らない音の名前だったが、意味を尋ねる前に頭へ入ってくる。声の方は分かるのに、台所の瓶についた札は一文字も読めない。


「ここ、何て書いてある?」


 俺が塩の瓶を指すと、ミルカは食べていたパンを飲み込んだ。


「塩」


「やっぱり文字は分からないんだな」


「話が通じるだけでも、すごいと思う。私はハルトの家の言葉を習ってないし」


 彼女に言われるまで、自分がどんな音で話しているか気にしていなかった。俺には日本語に聞こえる。しかしミルカが日本語を知っているとは思えない。昨日の空からの救助からずっと、言葉に困らず話していたこと自体が、おかしなことだった。


 パンを食べ終える頃、ミルカがコップを両手で包んだ。


「ハルトの家って、どんな家?」


「一階が店で、二階に住んでる。父が家具を直す仕事をしてて、俺も手伝ってる」


「昨日の椅子みたいなのが、いっぱい来るんだ」


「もっと面倒なのも。脚が一本ないとか、引き出しが開かないとか。あとは、捨てたくないけど置く場所がない家具を小さくすることもある」


「小さく」


 ミルカは自分が座っている椅子を見た。


「これを小さくしたら、私は座れなくならない?」


「椅子はあんまり縮めないな。棚とか、机とか」


 彼女はなるほどと頷いた。少し考えてから、うちの棚も一つ、下の扉が閉まらないと言った。見てみようか、と答えかけて、今日の用事を思い出す。


「港から帰ってきたら、見ていい?」


「あ、うん。帰ってきたら」


 ミルカの返事は少しだけゆっくりだった。俺が帰れるとしたら、この家には戻らないかもしれない。そのことに二人とも同時に気づいたらしい。彼女はコップを置き、俺の皿に残ったパンの欠片を見た。


「家で、誰か待ってる?」


「父と母と、妹。昨日、夕方までに店へ戻るって言ってたから、心配してると思う」


「連絡は、あの薄い鏡?」


「電話。こっちへ来てからは、つながらない」


 俺は机の上へスマートフォンを置いた。ミルカが家族写真を覗き込む。昨日よりしっかり見るつもりらしく、コップを離した両手を膝に置いて、顔だけを近づけてきた。


「この人がお父さん?」


「うん。後ろで変な手をしてるのが妹。こっちは母。俺は撮る役だから写ってない」


「お母さん、こっちを見て笑ってる」


「撮る直前に父がくしゃみしたんだ。もう一回くると思って」


 ミルカが小さく笑った。それから写真を見る顔が静かになった。家族という言葉だけでなく、母の笑った顔を見たからかもしれない。彼女は画面へ指を触れず、俺の方へ向き直った。


「早く、無事だって伝えたいね」


 帰りたいね、と言われるより、喉の奥へ引っかかった。今すぐ帰れなくても、連絡がつけば、父に鍵が俺のポケットにあることを知らせられる。母が病院や警察へ問い合わせているかもしれない。それをやめてもらえる。


「それだけでも、できるといいんだけど」


「窓口で、最初に聞こう」


 ミルカは立ち、食器を台所へ重ねた。俺が洗おうとすると、今日は港で水を補充するから後にしよう、と止められた。飛行前には片づけがあるらしい。瓶は棚の縁の紐へ収め、コップは流しの中へ。食卓の椅子を押し込み、窓を閉める。彼女は小さな家を一周し、最後に玄関脇の金属の輪へ手を置いた。


「飛ぶ時、ここにいてもいい?」


「うん。でも最初はつかまってて。昨日より高く上がるから」


 言われたとおり、階段脇の手すりを握った。ミルカが真ん中の輪を回すと、家の下で風が鳴った。寝起きの巨大な獣のように、床が低く震える。彼女の手が横へ動いた。輪は触れている指の下で、ゆっくり角度を変える。


 窓の外の地面が遠ざかった。昨日は夕飯の野菜を持っていて見る余裕がなかった。今朝は、手すりさえ離さなければ見ていられる。草原を横切る道、その向こうに川。川沿いの町に、空へ伸びた何本もの柱があった。柱と柱の間で、船がゆっくり向きを変えている。


「港って、あそこ?」


「そう。家を置くところは左。船は右。ぶつかるから、道が違うの」


 ミルカの声は普段と同じだったが、目は前の窓に向いていた。俺の質問を聞いている間も、指が輪の縁を小刻みに動く。見知らぬ空へ出ていくのが怖い気持ちは残っている。それでも彼女の手元を見ていると、さっきまでただ浮く家だと思っていたものに、きちんと操縦する人がいることが分かった。


 家は川と平行に進んだ。水面に影がついてくる。早足より速いが、風景を目で追える程度の速度だった。遠くの船へ視線をやると、ミルカが「ハルト」と呼んだ。


「そこ、首を伸ばすと窓の枠にぶつかる」


 俺は慌てて引っ込めた。彼女は前を見たまま笑っていた。


「昨日助けたばっかりだから、今日も怪我をすると、さすがに私の腕を疑われるよ」


「窓枠は俺のせいでいい」


「じゃあ、自分で説明してね」


 港が近づくと、家の前方で黄色い旗が振られた。ミルカは速度を落とし、低い石台の並ぶ一角へ降りる。風がやみ、脚が石へ載った音が四回した。手すりを離すと、指に握った跡がついていた。ミルカは輪の光が消えるのを待ち、こちらへ振り返った。


「着いた。初めての飛行、どうだった?」


「もう少し慣れたら、窓の外をゆっくり見たい」


「それなら、また飛ぶ時はそっちの席にしよう」


 彼女が食卓の窓際を指した。帰れるか相談しに来たのに、次の飛行の席を決めている。それを不謹慎だとは思えなかった。家族へ帰りたいのと、この景色をもう一度見たいのは、別々にある気持ちだった。


 港の道をミルカと歩く。見上げれば帆の底があり、目の高さには野菜を載せた荷車がある。青い制服の人が一人、小さな家の持ち主へ何かを説明していた。俺の服を見ても、皆が振り向くわけではない。珍しい旅人の一人くらいに見えるらしかった。


 窓口へ向かう途中、ミルカが修理場の門で立ち止まった。


「先に、ちょっと寄っていい? 師匠なら、窓口の人の名前を知ってると思う」


 門の奥で金槌が鳴った。ミルカが呼びかけると、その音が止まった。革の前掛けをつけた女性が、中庭の奥から出てくる。三十代くらいだろうか。俺とさほど変わらない背丈で、袖から出た腕には、重い道具を扱ってきた厚みがあった。黒い三つ編みを肩の後ろへ払い、両足をしっかり開いて立つ。ミルカはその人の前へ来ると、背負っていた鞄を下ろした。さっきまで俺に港の歩き方を教えていた彼女が、ここでは何かを見てもらう側になっている。


 女性は手袋を外しながらこちらを見た。片眉が少し上がった。


「ミルカ。荷物を拾いに行くとは聞いたけど、人を持って帰る仕事は頼んでないよ」


「仕事じゃない。落ちてきたの」


「どこから」


「空」


「それは見れば大体分かる。うちの弟子が地面から掘り出した男を連れてくるとは思ってない」


 女性の視線が俺へ移った。からかってはいるが、脚と腕を手早く確かめているようだった。


「ラウラだ。ここで小型船の修理をしてる。あんた、歩いてきたなら怪我はないね?」


「三枝晴人です。昨日、ミルカに助けてもらいました」


「ミルカに」


 ラウラさんが弟子を見る。ミルカは、言いたいことがあるなら言って、という顔で立っていた。


「椅子は壊すのに、人は壊さなかったんだ」


「人は壊さないよ! あと、椅子も直ったから」


「誰が」


 ミルカが俺を指した。俺は何となく、工具袋を背中へ回した。ラウラさんはそれを見て、修理場の中へ招いた。門から見えていた工具棚も、奥の船台も、彼女が歩けば自然に道が空くように配置されている。机で帳簿をつけるだけの店主ではなさそうだった。


 中庭の端に椅子が三つある。うち一つには布がかかっていたが、彼女はそれを取り、ミルカへ座るよう促した。


「説明は座って。仕事の邪魔に来た顔じゃない」


 ミルカが昨日のことを伝えた。俺は塔と日本の話を補い、スマートフォンを見せた。ラウラさんは画面を長く見なかった。代わりに、俺が電話と呼んだ道具を、どんなふうに使うのか聞いた。離れた人と話せると答えると、彼女は少し頷いた。


「家族と、まだ話せてないんだね」


「はい」


「なら帰還窓口へ。研究所との連絡もそこで取れる。担当が暇なら今日中に話せるよ」


 彼女は紙へ短い文字を書いた。俺には読めなかったが、ミルカが受け取って折る。ラウラさんは立ち上がり、工具棚の前で足を止めた。


「それと、晴人。今すぐ帰れるかは、そっちに聞いて。私が見た漂着者は二人だけ。どっちも帰ったけど、数日でとはいかなかった」


 俺は頷いた。二人帰った。その具体的な人数だけでも、昨日より道が近づいた気がした。


「その間、仕事はできる。椅子を直せるなら、工具も少しは使えるだろ。身分の話と一緒に聞いておくといい」


「分かりました。ありがとうございます」


「うん。ミルカ、帰りに配達袋を持ってって。今度は本物の荷物」


「分かった。帰りに寄る」


 ラウラさんはそれで仕事へ戻った。特別な客としてずっと囲われるより、今度は本物の荷物と言われる方が、俺には安心できた。ミルカも、師匠が帰った二人を見たと聞いて、少し肩が下がっている。


 窓口の建物は市場の向こうにあった。白い壁に青い小さな旗、前にはベンチと水桶。ミルカが扉を押さえてくれ、俺は中へ入った。昼の光が横長の机へ落ちている。受付の女性にミルカが紙を渡すと、すぐに椅子を勧められた。


 名前、来た日時、怪我の有無。聞かれたことは簡単だったが、日本の住所を説明する時に困った。俺の言った言葉を受付の女性が紙へ書き留める。その文字も、自分の住所だと知らなければ分からない。


「家族へ無事を伝える方法はありますか」


 俺が聞くと、受付の女性は途中まで書いた紙を横へ置いた。今までより少し時間をかけて、机の引き出しから別の用紙を取り出した。


「その希望は、帰還の担当へ優先して伝えます。こちらだけでは判断できませんが、今いる場所と、こちらへ来た時に持っていた物が手がかりになります」


「これも?」


 俺はスマートフォンを置いた。女性は頷き、腕時計へも目を向けた。どれも預けて帰る必要はないと言われ、俺は掌を時計へかぶせていたことに気づいた。


 担当者がいる研究所は東の町だという。こちらから問い合わせて、返事は修理場へ届けてもらえることになった。ミルカが自分の家を指で示そうとしたが、飛ぶ家だと係留場所が変わるので、ラウラさんのところの方が確実らしかった。


 手続きが終わる頃、俺は小さな身分札を渡された。名前を知らない文字で記した木の札だ。食事と数日の宿の支援も申し出てもらえた。俺がミルカを見ると、彼女は俺の選択を待つように黙っていた。


 今朝の食卓には、自分が直した椅子があった。卵を二つの皿へ分けた。もう少しあの家にいたかった。俺はミルカへ向き直った。


「今日の夜のこと、あとで相談してもいい?」


 ミルカが目を上げた。


「うん。もちろん」


 受付の女性には、今日中に泊まる場所を決めると伝えた。夕方までは窓口が開いている。


 建物から出ると、ミルカは眩しそうに目を細めた。俺の身分札を覗き込み、指で一文字ずつたどる。


「ハ、ル、ト。こう書いてある」


 自分の名前の文字から覚えてみようと思った。俺が同じ音を繰り返すと、彼女は満足そうに手を引っ込めた。その手を見て、俺は食卓で話した棚のことを思い出した。


「帰りに、工具を買える店へ寄ってもいい?」


「何か足りない?」


「買うとは限らない。どんなのがあるか見たい。直すなら、使える道具を知っときたくて」


 ミルカは市場の方へ顔を向け、少し考えた。それから、家にある工具を先に見た方がいいと言った。祖母の残したものが物置にあるらしい。


「足りなかったら、明日、一緒に買いに行こう」


 俺はその明日という言葉を、さっきほど迷わず受け取れた。帰還のために動き始めた。家族へ連絡する希望も伝えた。その返事を待ちながら明日の用事を決めることは、帰るのをやめることではなかった。


 ミルカは歩き出しかけて、すぐに戻った。


「でも、夕飯までには決めて。食べる人が一人か二人かは、買い物の前に知りたい」


「卵が足りなくなるから?」


「明日は落とさない予定だから、二つあれば足りるよ」


 その予定が守られるかはまだ分からない。ただ、二人分買うのなら、今度は俺も一緒に袋を持とうと思った。


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