第1話 空から落ちた同居人
空から落ちている時、人は人生を振り返るらしい。俺が思ったのは、店の鍵を父に返していない、ということだった。布袋を腕にかけたまま、反対の手でポケットを探した。ちゃんとある。それでほっとしている場合ではなかった。
足の下に川が見える。岸辺には赤い屋根が集まり、その先に、俺がさっきまで歩いていたはずの観測塔は見当たらなかった。代わりに空を船が横切った。帆を張った船だ。俺はその船より高い場所から落ちている。
「ちょっと、足! 足をばたばたさせないで!」
横から声がした。大きな凧に乗った女の子が、風を切って近づいてくる。灰色の短い上着が膨らみ、銀色の髪がその向こうへ流れていた。夢なら、もう少し穏やかなところから始めてほしかった。
「止め方が分からない!」
「私が止めるから! 袋、離しちゃ駄目!」
言われた瞬間、布袋の中で工具がぶつかった。握り直すと、腹の下へ柔らかな力が入った。水に飛び込んで浮き上がる時に似ている。ただし下に水はなく、体は落下をやめたまま空中に取り残されていた。
女の子が大きく息を吐く。青紫の目が俺の足元を見て、袋を見て、最後に顔へ戻った。
「よかった。靴、二つある」
「そこから確認するの?」
「前に片方なくした人がいたの。落とした靴って、下の人にはけっこう危ないんだから」
俺より下の人の心配をしている。それだけ状況に余裕があるということだと思いたかったが、彼女は額に汗を浮かべていた。凧だと思ったものは、細い木枠に布を張った足場だった。そこへ両足を揃え、右手を俺へ向けたまま、左手で何かを引くように動かしている。
「ゆっくり下ろすね。立とうとしなくていい。お尻からで」
赤い屋根が遠ざかり、川とは反対の草原へ流されていく。風を耳で聞いているうちに、遠くにあった草の一本ずつが見えるようになった。俺は腰を落として着地し、勢いで仰向けに転がった。草の匂いがした。もう誰かの靴を気にする必要はなさそうだった。
すぐそばへ足場が降りた。銀髪の女の子は膝を曲げて飛び降り、両手を腰に当てた。見たところ俺と同じくらいの年だ。目の前に実物がいるせいで、いよいよ夢とは言いづらくなった。長い髪の間に小さな葉がついている。彼女は俺の膝がちゃんと曲がることを確かめてから、それをつまんで捨てた。
「痛いところ、ある?」
「今のところは。……助かった。ありがとう」
「どういたしまして。次からは、もう少し低いところに現れてくれると嬉しい」
「俺にも選べるなら、地面を選ぶんだけど」
彼女は初めて、少し困った顔になった。
「飛んでいたわけじゃないの?」
「川沿いの階段を上ってた。古い塔の。二階まで行ったところで、急に足場がなくなって」
自分で話してみると、ひどく間抜けな事故に聞こえた。けれど、塔の壁が一瞬青く透けたことも、手すりをつかんだはずの手が空を切ったことも覚えている。寝不足で階段を踏み外した、で済ませるには、目の前の空飛ぶ船の説明がつかなかった。
女の子は川の方を振り返った。空にはもう船の姿がない。代わりに鳥の列が、薄い雲の下を斜めに渡っていた。
「階段……。その塔って、どこにある?」
「高瀬川の、北の堤防。東橋を渡った先」
「聞いたことない。遠くの町?」
「日本」
彼女の眉が寄った。その反応を見て、俺はスマートフォンを取り出した。画面はつく。圏外だった。地図の青い丸は、観測塔のそばで止まったまま動かない。位置を見せようとして彼女へ差し出すと、彼女は驚いて手を引っ込めた。
「薄い鏡に、人がいる」
「待ち受け。妹が勝手に変えたんだ。……鏡じゃなくて、電話なんだけど」
「でんわ」
彼女は丁寧に繰り返した。大きな声で「異世界ですか」と尋ねるには、自分の正気にまだ未練があった。画面の中で、妹が父の頭の後ろに指を立てている。先月の家族写真だ。それを、知らない国の人どころか、電話を知らない女の子が覗き込んでいる。
彼女は俺の顔を見直した。急にからかわなくなったせいで、俺の方が落ち着かなかった。
「もしかしたら、漂着かもしれない」
「ひょうちゃくって、船の?」
「別の世界から来ることがあるんだって。私は初めて見るけど。港に、そういう人のための窓口がある」
空飛ぶ船より、その窓口の方に驚いた。俺の知らないとんでもない事態が、こっちでは窓口のある出来事なのだ。
異世界。アニメや漫画で何度も見た言葉が、頭に浮かんだ。目の前の女の子の銀髪だって、今までならSNSで流れてくるコスプレの写真くらいでしか見たことがない。髪の色だけなら、染めているで済む。けれど船が空を飛び、俺は何もないところで落下を止められた。階段を踏み外した先が、知らない世界だったと言われても、もう笑って否定する材料がなかった。
こんなことが本当に起きたら、もっと浮かれるか、取り乱すかと思っていた。案外、声は普通に出る。草についた手を離すと、掌に細かい跡が残っていた。そこを指でこすりながら、異世界、と思い直す。言葉は出てくるのに、自分のことだという感じがしなかった。
「帰れる?」
考えるより先に口へ出た。
女の子はすぐに頷かなかった。飛行の道具を折り畳み、草の上へ置く。答える間を作るためではなく、俺が膝を抱えたまま動かないので、ここで話すつもりなのだと分かった。
「帰った人はいるって聞いた。詳しいことは、私には分からない。でも、その窓口なら相談できると思う」
「そうか」
「今、適当に帰れるって言うと、あとで困るでしょ」
「うん。ありがとう」
また礼を言うと、彼女は居心地が悪そうに片足をずらした。
「お礼はもう大丈夫。立てそう?」
俺は袋を持って立った。膝が少し震えたが、体のどこも痛まなかった。草原の向こうに家がある。赤い屋根、白い壁、青い玄関。細長い鳥の形をした風見が屋根の上で回っていた。彼女がその家へ歩き出したので、俺も二歩ついていき、それから止まった。
「あの、俺、どっちに行けば」
「まずうち。港までは歩くと遠いし、あなた、水を飲んだ方がいい顔してる」
「どんな顔?」
「空から落ちた顔」
それは確かに、自分では見たことのない顔だった。
玄関の前まで来ると、家の足が見えた。石の台の上に、太い金属の脚が四本載っている。地面と床の間には、俺が屈んで通れそうな隙間があった。家の後ろへ伸びた影の下で草が静かに揺れている。
彼女は扉脇の小さな鐘を一度鳴らした。誰かが出てくるのかと待ったが、彼女自身が鍵を開けた。
「誰かいる?」
「いない。自分が帰ってきた時も鳴らすの。祖母がそうしてたから」
靴を脱ぐよう言われたのは、少し嬉しかった。どこへ来てしまったにしても、靴を脱いでいい家はあった。入口の左には小さな台所、右に四人掛けの食卓が見える。奥では階段が折れて二階へ上がっていた。窓の桟に青いガラス瓶が並び、午後の光を机の上へ散らしている。
テーブルに案内され、俺は背もたれに手をかけた。椅子の脚がぐらついた。
「あ、それ、こっち!」
彼女に椅子を取り上げられた。代わりに別の椅子が押し出される。俺が座ってから、彼女はさっきの椅子を壁へ寄せた。失敗したことを隠す子どものような速さだった。
「ちょっとだけ壊れてる。そっちは座れるから」
「ちょっとで済むぐらつきかな」
「座らなければ大丈夫」
「それは椅子として、だいぶ困る」
彼女は台所へ逃げ、水差しと二つのコップを持ってきた。俺の方へ多めに注いで、自分も向かいに座る。コップの縁は少し欠けていたが、唇が当たらない場所へ向けて置いてくれた。
水を飲むと、喉がひどく乾いていたのだと気づいた。二杯目を頼む前に彼女が足してくれた。それから自分の分を飲み、長い息を吐く。救助した方も楽な仕事ではなかったらしい。
「私、ミルカ。ミルカ・レーヴェ。あなたは?」
「三枝晴人。晴人でいい」
「ハルト」
彼女は一度確かめるように言い、それから顔をほころばせた。左の頬に小さなえくぼができる。空中で指示を飛ばしていた時より、ずいぶん幼く見えた。
「うん、呼べる」
「そんなに難しい名前じゃないよ」
「漂着した人って、もっと長い名前かと思った。昔の本に、すごく長い人がいたから」
「長いのは苗字の方。年は二十一」
「私、二十歳。同じくらいだね。ハルトも、仕事をしてるの?」
「大学生だけど、今は休学して父の店を手伝ってる。今日は、頼まれた椅子の寸法を測りに行く途中だった」
「椅子」
ミルカは壁の方を見た。俺も同じ所を見て、さっき取り上げられた椅子の脚へ目が止まった。
こっちにはこっちの先入観がある。俺も、魔法を使う銀髪の女の子は、もう少し謎めいたことを言うものだと思っていた。今のところ一番謎めいているのは、壊れた椅子を壁に寄せる対処法だった。
「ミルカは、ここに一人で住んでる?」
「うん。家は祖母にもらったの。私、半年前に独立したばっかりだから」
「さっきみたいに空を飛ぶのが仕事?」
「人を拾うのは初めて。普段は荷物を運んだり、風道を見たり。魔女だから」
彼女は何気なく言った。そういう職業があって、そう呼ばれているらしい。俺は水の中へ視線を落とし、聞きたいことを選んだ。質問を全部口にすると、今日が終わってしまいそうだった。
「港の窓口って、今から行けるかな」
ミルカが窓を見る。川の向こうから、低い鐘の音が三つ聞こえた。彼女は少し唇を尖らせた。
「今日は閉まった。三つの鐘で終わり。明日の朝なら、私も港へ行くから一緒に行けるけど」
今夜の宿がない。現金は日本円しかなく、ここで通じるかも分からない。考えていると、ミルカが俺の袋へ目を向けた。
「お金とか、泊まるところとか、全部ない?」
「お金はある。でもたぶん使えない。泊まるところはない」
「じゃあ、上の部屋を使っていいよ。空いてるし」
言ってから、彼女は自分の返事を吟味するように俺を見た。親切な話であるほど、俺には頷きにくかった。知らない男を一人暮らしの家へ入れるのは、彼女の方にも負担がある。
「助かるけど、いいの? 今日会ったばっかりなのに」
「心配なのは私の方?」
「両方」
「部屋に鍵はあるよ。台所のものは、勝手に食べないでくれれば。あと、操縦盤は触らないで。あそこ」
玄関の壁に、三つの金属の輪が取り付けられていた。飾りかと思っていた。真ん中の輪だけ青い光を帯びている。そんなものを自分から触るほど、俺の冒険心は強くない。
「分かった。食べるのも、ちゃんと聞く」
「それならいい。嫌だったら港に宿を探してもいいけど、今から歩くと夕方だし。せっかく助けた人が途中で倒れたら、ちょっとがっかりする」
面倒を見たいというより、ここで放り出すのは自分が嫌なのだろう。その言い方なら受け取りやすかった。俺は今夜だけ泊めてほしいと頼み直した。ミルカは満足そうに頷き、二階の部屋を見せようと立った。
壁に寄せた椅子へ、彼女の裾が触れた。椅子が傾き、脚の一本が音を立てる。俺は反射で手を出して押さえた。ぐらついているのは、後ろ脚と座面の接合部分だった。
「これ、直せそう」
「え?」
「袋に道具があるから。無理だったらやめるけど、見るだけなら」
ミルカは椅子の前へ屈んだ俺を覗き込んだ。落下してきたばかりの男が、なぜ椅子の脚に熱心なのか分からない顔をしている。俺も自分の行動に少し呆れた。困っている物が目の前にあると、手が先に動いてしまう。
「仕事がそういうのなんだ。家具の修理」
「あ、さっきの袋、それ?」
「うん。落とさなくてよかった」
「私も、あんなに大事に握ってるから、お金かと思った」
布袋からドライバーを出すと、彼女が目を丸くした。形は珍しくないらしいが、柄の青い樹脂を指先で確かめている。俺は椅子を横に倒した。木組みに金具で補強が入っていた。緩んだねじを締めるだけでは駄目で、いったん合わせ直さないと脚に無理がかかる。
「これ、前に誰か直した?」
「私」
「なるほど」
「悪いなるほど?」
「力がありすぎるなるほど」
ねじ山の周りに、押し潰した跡があった。俺が指で示すと、ミルカは床へ座り込み、膝を抱えた。
「風で押したら、ちゃんとはまると思ったの。空から人を下ろす方が、ずっと大変なのに」
「人は、自分で少し動けるからな。椅子は手伝ってくれない」
「椅子のためにも、もう少し器用になった方がいい?」
「この脚に関しては、俺がやる方が早いと思う」
俺はねじを外し、ずれた金具を直した。木に割れはない。ミルカに座面を押さえてもらい、脚を元の位置へ合わせる。ねじを回せば金具が寄る。緩めれば、脚の角度を変えられる。ここまで来て初めて、手を動かした先に何が起こるか分かった。俺は一度ねじを緩め、座面との隙間を覗き込んだ。
ミルカの髪が工具の上へ落ちそうになった。彼女は片手でまとめ、そのせいで座面を押さえる力が弱くなる。俺が手を止めると、彼女も気づいた。
「ちょっと待って。結ぶ」
髪留めを外し、銀色の束を首の後ろでまとめる。その間、俺はねじを掌に置いて待った。すぐ横にいる女の子の首筋を見ない方がいいと思ったのだが、見ないと決めたこと自体が妙に気になった。
「はい。もう大丈夫」
ねじを締め、椅子を起こす。床へ載せて押すと、さっきのぐらつきはなくなっていた。ミルカはそろそろと腰を下ろし、両手を膝へ置いた。俺を見て、座面を見て、そのまま体を左右に揺らす。
「動かない」
「動かない方がいいんだよ」
「分かってる。すごいなって思って」
彼女が笑った。今度は空中の緊張も、知らない男を泊める戸惑いもない笑いだった。俺は工具を袋へ戻しながら、こんなことなら最初から壊れた椅子を貸してくれればよかったと思った。恩を返すと言うには小さいが、水を飲み、座る場所をもらった俺にも、ここでできることがあった。
「夕飯も食べてって」
「いや、それは」
「椅子の分。もう少しで、来る人みんなに床へ座ってもらう家になるところだったの」
「今のところ壊れてたの一脚だけだろ」
「だから、そうなる前に」
ミルカは台所へ向かった。棚から鍋を出す音がし、水の流れる音が続く。俺はスマートフォンを取り出した。圏外の表示は変わっていない。それでも母とのやり取りを開き、「変なところへ来た。怪我はない」と打った。送信を押す。少し待って、もう一度押した。届かなかった。
最後に届いているのは、今朝の「帰りに牛乳買ってきて」。夕方までには戻るつもりで、了解、と返していた。画面の時刻を見た。母が次のメッセージを送っていても、俺には見えない。電話の印へ指を伸ばしかけて、止めた。
「ハルト、水、もう少し飲む?」
顔を上げると、ミルカが水差しを持っていた。頷いて、スマートフォンを伏せる。注いでもらった水を飲んでいる間も、もう一度画面を見たくなった。
コップを置いてから、野菜を切るぐらいならできると声をかけた。彼女は包丁を一本しか持っていないと言い、それなら皮をむく係で、と丸い根菜を渡してきた。
窓の外では、草原の影が長くなっていた。薄くむいた皮を皿へ置く。明日、窓口へ行けば連絡の方法も聞けるだろうか。根菜を持ち直して、俺はもう一度、今夜泊めてくれることへの礼を言った。
ミルカは鍋をかき混ぜたまま、振り返らずに返事をした。
「明日、ちゃんと相談しよう。帰ることも、泊まることも」
その時、床がふわりと持ち上がった。俺は野菜を握ったまま、食卓の方へ振り向いた。コップの水が揺れている。窓の外で、草の穂が下へ遠ざかっていった。
「待って。この家も飛ぶの?」
「あ、言ってなかった?」
台所に立つ銀髪の魔女が、ようやくこちらを向いた。まるで夕飯の味つけを一つ伝え忘れたような顔だった。
「明日は、このまま港へ行くから」




