第10話 好きなものを一つずつ
アルトへ戻る日の朝、ミルカはパンを買いに行く前に、窓から空を見た。雨の雲はもうない。係留場の旗が西へ揺れている。彼女はそれを確かめてから、玄関に並べた靴へ足を入れた。
「今日は、途中で一回休んで帰ろう。ずっと飛ぶと、着いてから眠くなるから」
「分かった。買い物の袋、俺が持つ」
俺が渡された袋を開くと、底に小さな紙が残っていた。前に服を買った時の札だった。こちらの文字で書かれた数字を見て、三十を読めることに気づく。読めたからといって、借りが返せたわけではない。それでも、誰かに全部読み上げてもらわなくても分かる物が増えた。
パン屋までの道で、ミルカが今日の午後にやりたいことを話した。ラウラさんへ連絡を頼み、家の風晶を補充し、係留場所を決める。俺はその後で、同居のことも相談したいと伝えた。
彼女が歩く速度を落とした。
「一週間の話?」
「うん。最初に相談した期間だから」
「そうだね。帰ったら、ちゃんと話そう」
それだけを決め、パン屋へ入った。ミルカの顔が曇った気がしたが、俺がこの家を出たいと思っている、と断定するわけにはいかなかった。こちらも続けたいと伝える前に、彼女の返事を想像して遠慮する癖がある。話す時間を作ったのだから、そこで言えばいい。
サイラの町を離れる時、研究所の白い塔が窓の右側に見えた。昨日あそこで母の声を聞いた。俺は時計へ触れ、行ってきますと言うつもりで、塔をしばらく見ていた。元の世界へ帰るために来た場所から、今はミルカの暮らす港へ戻る。
彼女がゆっくり高度を上げた。昼までに一度地上へ下り、水を飲んで休む。俺も操縦中の彼女へ質問を増やさず、食卓で文字の練習をした。少し揺れるので字は曲がる。ミルカが横目で見て、これは家が曲げたのかと笑った。
「半分くらいは、俺の実力」
「じゃあ、止まってる時にもう一回見せて。残りの半分も曲がってるか、確かめたい」
言われて俺も笑った。彼女が操縦し、俺がその近くで別のことをする。港へ来た時のように、ずっと手すりを握ってはいない。どこまで動いていいかは、出発前に話したとおりだった。
川を見下ろす小さな係留場で休憩した。パンを食べ、水を飲み、彼女が風晶の余力を確かめる。俺は外へ出て、家の脚のそばに絡んだ草を取った。持っていた布で濡れた金具を拭いていると、ミルカが扉から声をかけた。
「ハルト、あとで少しだけ、自分のこと教えて」
「どの辺?」
「家具の仕事のことは知ってる。家族のことも聞いた。でも、好きなことって、あんまり聞いてないなと思って」
俺は布を畳んだ。自分がここで何をできるかを説明してばかりいた。どんな食べ物が好きかは少し話したが、仕事をしない時間に何をするのかは、彼女にほとんど伝えていない。
「本を読む。あと、知らない道を歩くのも好き。店の休みの日に、隣の町まで行ったり」
「じゃあ、丘に行ったのは、好きなことだった?」
「うん。ミルカと行ったのも、よかった」
彼女は扉の枠へ片手をかけた。その手が一度離れ、また同じところへ戻った。
「そこは、聞いてないけど」
「言いたかったから」
「……じゃあ、それも覚えておく」
ミルカは家の中へ戻った。俺もあとを追い、玄関で靴を脱いだ。彼女は操縦盤を見るふりをしていたが、まだ出発の合図はない。耳の上の髪を一度撫で、窓の外を確かめてから、何事もなかったように飛行の準備へ戻った。
午後の早い時間、アルトの係留場へ降りた。脚が石台へ載ると、ミルカは俺の方を向き、帰ってきたねと言った。俺も頷く。数日前には、ここも知らない町だった。それでも見覚えのある旗と屋根を見ると、少し安心できた。
ラウラさんの修理場では、テオが大きな鞄の紐を直していた。青い上着を作業台へ放り、日に焼けた首を曲げて金具に顔を近づけている。地面へ広げた布の上に、外した金具が二つあった。彼は俺たちへ手を振り、ミルカに研究所はどうだったか尋ねた。
「ハルトのお母さんと、少し話せた」
ミルカが答えると、テオは作業の手を止めた。今度は俺を見る。
「よかったじゃないか。心配してただろうな」
「うん。まだ、帰る日は決まってないけど」
「そりゃ次の話だろ。まず声が届いたなら、向こうも飯を食える」
彼は自分の鞄の紐を指した。妹へ仕事の予定を知らせる手紙を、忙しい時ほど出すようにしているらしい。短くても、自分が生きていると分かれば、待つ人は余計な想像をしなくて済む。
ラウラさんが奥から出てきた。俺が母へ伝えたことを話すと、彼女はしっかり頷いた。研究所から次の連絡を受け取る件も引き受けてくれる。ミルカはその間に風晶を補充する場所を借り、台所へ持ち帰る水のことを相談した。
「晴人、明日の午前、少し手伝える?」
ラウラさんが工具棚の前で聞いた。三脚の椅子の座面を外し、古い布を取る作業がある。木の割れを直すのは彼女の仕事で、その前の準備を任せたいという。
「できます。布を戻すところまでは、教えてもらった方がいいですけど」
「戻すのは私がやる。あんたがやった分は、その場で見て払うよ」
俺は明日の時刻を聞いた。仕事の相談が、自分へ直接来た。ミルカを見ると、彼女もいいと思うと頷いてくれた。
帰りに市場へ寄った。ミルカは野菜の前で足を止め、俺へどれを食べたいか尋ねる。いつもなら、家にある鍋で作りやすいものを答えただろう。今日は彼女が、俺の好きなことを聞きたいと言った朝を思い出した。
「こっちの、薄く切って焼けるやつ。少し焦げるくらいが好き」
「煮るより?」
「今日は焼く方。ミルカは?」
「私もそれ。最後に果物の皮を少し削ると、おいしいんだよ」
彼女は二つ選んだ。俺は袋を開ける。どちらか一方の好きな味へ寄せるだけでなく、二人の好みを一つの皿で試せる。買い物が短い質問と返事だけで終わらなかったことも、少し嬉しかった。
セナの店の前でミルカが止まった。売り台の端に小さな焼き菓子が並び、今日の川桃の分はほとんどなくなっている。セナが俺たちを見て、二人とも戻ったのだねと笑った。
「旅先の菓子、食べた?」
「薄いパンを作った。粉屋の人に教わって」
「あ、食べるより先に作ったんだ。ミルカが?」
「私とハルト」
ミルカはそこを少し強く言った。セナは二人の顔を交互に見て、出来はどうだったか聞く。俺が最初の端を焦がしたと答えると、彼女はそれを食べたなら失敗の全部ではない、と自分の初めての焼き菓子の話をした。砂糖を入れ忘れたので、母に甘くないパンとして売れないか聞いたらしい。
「売れたの?」
「家で食べた。値札を変えても、売れる味にはならなかった」
ミルカが吹き出した。俺も笑った。セナは自分の失敗を気軽に話しながら、天板の上にある今日の菓子を一つひっくり返した。焦げていないか確かめたあと、元へ戻す。その仕事は冗談の間も続いていた。
ミルカが川桃の菓子を見た。俺は財布に残った硬貨を確かめた。自分の分を買うなら足りるが、彼女への借りを返す前に、二人分の菓子へ使うのは少し迷った。
「今日は、俺の分を一つ買ってもいい?」
「もちろん。好きな方を選んで」
俺は蜂蜜の方を選んだ。ミルカが一瞬目を上げた。初めて二人で分けた時、彼女は川桃が好きだと言っていた。俺も気に入っていたが、蜂蜜のものをもう一度食べたかった。
彼女は自分の分に川桃を買った。セナが別々の紙へ包みながら、帰ってから間違えないよう印をつけようかと聞く。
「それは分かる」
ミルカが返したが、セナは俺に二つとも渡した。
「ハルトさんには、こっちの字を覚えてもらわなきゃね。蜂蜜と、川桃」
俺は紙の札を見た。数字とは違う新しい文字だ。ミルカが口で読み、俺はそれを確かめた。いつか彼女がいない日に店へ来ても、自分の食べたい方を選べるようになりたかった。
家へ帰り、食卓へ二つの包みを置いた。ミルカは自分の方を開け、俺が蜂蜜のものを口へ運ぶのを見ていた。少しして、川桃を小さく割る。
「交換しない?」
「うん。少しずつ?」
「そのくらいで」
彼女が示した大きさに合わせて、俺も欠片を割った。同じ物を半分にするのではなく、違う物を選んで少しずつ交換する。机の上には、二つの味が残った。ミルカは蜂蜜の方を食べ、やっぱり川桃の方が好きだと言った。俺は今日は蜂蜜の方が好きだった。
「じゃあ、次は迷わず二つ買えるね」
「ミルカが別の味を選ぶかもしれないだろ」
「その時は、また聞いて」
彼女は残りを口へ入れた。俺は手の粉を紙へ払った。二枚の紙を重ねようとすると、川桃の欠片が一つ残っていた。ミルカの方へ寄せる。
菓子を食べ終えると、ミルカが椅子を少し引いた。昼寝をする前に同居の話を済ませたい、と彼女の方から言った。俺は自分のコップを持ち、机の端へ寄せる。
「最初に一週間って相談したから。帰る日がまだ決まらないなら、どのくらい延ばすか決めようと思って」
ミルカは頷いた。彼女が黙っているので、俺は自分の希望を先に言った。
「俺は、ここにいたい。研究所の返事を待つ間も、仕事を覚えたいし、暮らしの分担も続けたい。ただ、ミルカが先へ旅に出たいなら、それは別に相談したい」
彼女は俺の顔を見た。朝に少し曇ったように見えた表情が、今ははっきり動く。
「……私、昼まで、少し怒ってた」
予想しなかった言葉で、俺の手が止まった。
「朝、同居の相談って言って、そのままパンを買いに行ったから。家を出る話なら、先に言ってくれればいいのにって」
「続けたいって、そこで言えばよかった」
「うん。飛んでる間に考え始めると、どう聞けばいいか、かえって分からなくなって」
ミルカは机へ指を置いたまま、自分の椅子を少し引いた。
「話を聞く前に決めたのは、私だけど。昼にここでお菓子食べてる時も、これで最後だったらって思ってた。変だよね」
「変じゃない。俺は、この先の分担ばっかり考えてた」
俺はそれを考えなかったわけではないと答えた。帰還窓口で宿の支援を申し出てもらったこともある。自分の収入ができたら、彼女の家に頼らなくても暮らせるかもしれない。
「でも、出たいわけじゃない。ミルカと暮らすのが嫌だから、宿の話をしたかったんじゃないんだ」
彼女がコップへ手を伸ばし、飲まずに置き直した。
「私も、いてほしい」
俺は返事を待った。彼女は自分の言葉を説明するように、少し続ける。
「椅子を直してもらいたいからだけじゃなくて。買い物から帰った時とか、ご飯を食べる時に、ハルトがいるのが好き。今日も、港へ戻るなら一緒がいいと思った」
俺は視線を机へ落とした。菓子の紙が二枚ある。何かを返すために、何かをしてもらうために座っているだけなら、その言葉は必要なかった。
「俺も、それが好き」
顔を上げて言うと、ミルカは少し肩をすくめた。言ったのは自分なのに、受け取る方になると照れるらしい。俺も、同居の継続を相談するだけのつもりだったが、予想していたより喉が乾いた。
彼女は旅行帳を机へ出した。祖母の昔の記録と、サイラのことを書いた新しいページがある。北へ行く予定は今も変わらない。研究所の返事次第で大きく動けない日が続くなら、その間、港に留まることもできる。だが、その先ずっと港だけで働くつもりではないという。
「ハルトも、ずっと待ってるだけにしないで。帰りたいって思ったら、その話をしてほしい。私が楽しい顔をしてるから言いづらい、とかは嫌」
「分かった。ミルカも、行きたい場所は言って。俺が困るだろうって、先に消さないで」
「うん」
二週間後を、次に暮らしの話を見直す目安にした。その前に帰還の日程が決まれば、そこで相談する。仕事で得た収入から、食費を出すことも決める。俺個人の服の借りは別に残した。
話がまとまると、ミルカは椅子にもたれた。飛行で疲れた体を、ようやく休める顔だった。俺は彼女に少し寝てきていいと言い、夕飯の野菜を洗うため立ち上がった。
その前に、携帯に残していた研究のメモを紙へ写した。画面を消すだけでなく、電源も切っておく。次に写真を見せたい時まで、残りの電池を取っておきたかった。
「今日、焼く方でいいんだよね」
「うん。皮を削るのは、あとで私がする」
彼女は階段へ向かい、途中で足を止めた。手すりへ掌を載せ、振り返る。
「ハルト、明日、仕事が終わったら、何時に帰ってくる?」
「午前だけだから、昼までには」
「じゃあ、お昼は待ってる。先に食べるつもりなら、朝、言ってね」
俺は待っていてほしいと答えた。ミルカが頷き、二階へ上がった。向こうで扉の閉まる音がする。俺は台所へ戻り、二つの根菜を取り出した。
研究所の返事はまだ先になる。それでも、明日の昼に帰ってくる時間は決まった。窓の外の係留場を誰かが歩いている。俺は野菜を洗いながら、この家へ戻る予定を、自分の予定として覚えた。




