第11話 用事がないと呼べませんか
ラウラさんの修理場で、俺は椅子の底から釘を抜いていた。布を外す前に釘の頭を起こし、木を傷つけない角度で引く。父の店でもやった作業だったが、道具の重さが少し違う。三つ目を抜く時に力を入れすぎ、釘が勢いよく外れた。
「そこの器へ。床に落ちると、あとで踏む」
ラウラさんが隣の台から声をかけた。俺は器へ入れ、手の置き方を変える。彼女は俺が一つずつ確かめるのを待ち、古い布が外れた時点で木の状態を見た。
「慣れてるね。布を張る仕事もした?」
「手伝ったことはあります。でも、全部一人では」
「なら今日はここまで。続きも見るなら、午後に来てもいい。無理に残らなくていいよ」
俺は時計を見た。まだ昼には少し早い。だが家で昼食を待ってくれる人がいる。
「今日は一度帰ります。午後は、そのあとで相談してもいいですか」
「もちろん。あんたが住み込んだのは、うちの店じゃないからね」
ラウラさんは器の釘を別の箱へ移した。作業時間に応じて報酬を渡してくれる。俺は硬貨を確かめ、受け取った額を紙へ書いた。数字だけなら、自分でも記せるようになっている。
店を出る前に手を洗った。指の横に細い擦り傷ができている。血が少し滲んでいたので、布を巻いてもらった。深い傷ではない。ミルカの魔法で治るようなものでもなく、父の店でも同じように手当てをした。
家へ向かう途中、市場で小さな茶の包みを買った。ミルカが昨日、家の茶が残り少ないと言っていたからだ。何でも先に聞けばいいと思ったが、同じ物を補充する買い物くらいは自分でできるか試したかった。店の人に家の茶の匂いを説明し、見せてもらった葉から似たものを選ぶ。
玄関の鐘を鳴らすと、中からミルカの声がした。俺が鍵を開ける前に扉が動く。彼女は灰色の上着を着ていた。髪は結ばず、銀の髪留めだけを耳の後ろに挿している。
「おかえり。もう終わった?」
「午前の分は。午後、布を張るところも見せてもらえるって」
「あ、そうなんだ」
ミルカは俺を中へ入れ、扉を閉めた。台所には昼食の皿が用意されている。二人分。俺は靴を脱ぎ、茶の包みを机へ載せた。
「残りが少ないって言ってたから。これで合ってるかな」
彼女が包みを開け、匂いを確かめた。俺も横で見る。ミルカは首を少し傾げた。
「近い。いつものと、葉が少し違うけど。これも好き」
「じゃあ、失敗ではない?」
「今日は、これを飲んでみよう」
彼女は台所へ持っていった。茶を入れる間、俺は手当ての布が水で濡れていないか確かめた。ミルカが戻ってきて、その手を見つける。
「怪我したの?」
「少し擦った。手当てはしてもらったから大丈夫」
「見ていい?」
俺は布の端を少し上げた。彼女は傷を見て、次に俺の顔を見る。大騒ぎはしないが、自分でも状態を知っておきたい目だった。
「釘?」
「うん。抜いた時に、木の角で」
「今日は、お皿を洗う時、濡らさない方がいいね。私がする」
俺は承知した。洗う物を全部彼女へ頼むことにはまだ抵抗があるが、今日は手を濡らさない理由がある。代わりに、食卓の片づけと水差しの補充はできる。
昼食を食べながら、俺は午前の仕事を話した。ラウラさんの道具棚は使った物を戻す場所が決まっている。古い釘でも、使えるものと使えないものを分ける。ミルカは懐かしそうに聞き、自分が弟子だった頃、戻す棚を一段間違えたことを話した。
「全部まとめて、同じ段へ入れたの。種類は分けてたんだけど。師匠がいつも手を伸ばすところと違ったから、毎回私を呼ぶことになっちゃって」
「取りやすい場所って、持ち主には決まってるもんな」
「うん。家の瓶もそうでしょ」
俺は台所を見た。塩の瓶は今も右側にある。勝手に自分が使いやすい場所へ移したりはしていない。その家に暮らしているからといって、前からあった生活を全部作り替えるわけではなかった。
食事が終わると、ミルカが皿を重ねた。上着をまだ着ているので、外へ出る用事があるのか尋ねる。彼女は皿を持ったまま少し止まった。
「うん。ちょっと、届ける物があって」
「どこへ?」
「師匠のところ。でも、午後にハルトが行くなら、持ってってもらってもいいかな」
彼女が食卓の奥の紙袋を指した。小さな袋で、昨日家へ持ってきたものではなさそうだった。俺が中身を聞くと、木の留め具だという。二階奥の物置の箱を片づけた時、借りたままの物が見つかったらしい。
「いいよ。行くなら持ってく」
「うん。じゃあお願い」
ミルカは台所へ向かった。声の調子が少し変わった。はっきり困ったと言われたわけではない。俺も皿を運ぶのを手伝い、茶の包みを棚へ寄せた。
午後の約束はまだしていない。何時に行くかラウラさんへ伝える必要がある。俺が紙袋を持って立つと、ミルカも玄関へ来た。彼女は俺の手を見る。
「重くない?」
「このくらいなら。ミルカ、ほかの用事は?」
「今日は、ない」
俺は靴へ足を入れかけ、止めた。届け物があるから外へ出るつもりで、俺が代わりに持つなら、その用事はなくなる。説明としては、それで何もおかしくない。しかし、彼女が上着を着たまま待っていたことが気になった。
「一緒に行く?」
ミルカが顔を上げた。すぐに頷きかけたように見えたが、途中で口を閉じる。
「ハルトの仕事を、邪魔したくないし」
「まだ仕事っていうほどじゃない。今日は見せてもらうだけだし、ミルカが来たら、ラウラさんも話せるんじゃないかな」
彼女は玄関の鍵を取り、鞄を肩へかけた。それでも、いつもの出発より一つ動作が遅い。
外へ出て、係留場の道を歩いた。ミルカは家の戸締まりを振り返って確かめ、俺の横へ並ぶ。市場の角まで来た時、彼女が口を開いた。
「今日、帰ってきたら、何時まで家にいる?」
「夜は出る予定ないよ」
「そっか」
それで終わった。俺は先ほどから、同じ質問を別の形で聞かれている気がした。予定が空いていることを確かめたいのか、それとも俺が何かを忘れているのか。
「ミルカ、今日はどこか行きたかった?」
彼女の靴が、石畳の継ぎ目で少し止まった。
「……うん」
「届け物のあと?」
「届け物は、ついで」
ミルカは俺の持っている紙袋を見た。中の留め具は小さく、俺が片手で持っても邪魔にならない。俺はその袋を見て、ようやく彼女がなぜ上着を着て待っていたか分かった。
「一緒に出かけたかった?」
「そう。昼に帰ってくるって言ってたから。ご飯のあと、少し歩けたらいいなと思って」
「それ、言ってくれれば」
俺が言いかけると、彼女も少し眉を寄せた。
「言おうと思った。でも、午後も見せてもらえるって、楽しそうに話してたから。じゃあ今日はそっちかなって」
俺は紙袋を反対の手へ持ち替えた。確かに、家へ戻って最初に午後の話をした。その場で決めたつもりはなかったが、彼女にはもう予定を立てたように聞こえたのだろう。
「俺も、行けたら見たいっていうだけで、午後ずっと使うと決めてなかった。昼のあと何するか、ちゃんと聞けばよかったな」
「でも、仕事を覚えるのは大事でしょ」
「大事。でも、ミルカと歩くのも、俺がしたいことだから」
彼女は少し目を細めた。聞き返す代わりに、今度は自分の方から具体的に話す。
「南の通りに、本を貸してくれるお店があるの。字を覚える本もあるし、私が前に読んだ旅の話もある。そこに行きたかった。ハルトと」
俺は頷いた。紙袋を持っていない手を、本の店のある方へ向けた。
「じゃあ、今日はそっちへ行きたい。ラウラさんには、届け物を渡して、見学は別の日にしてもらおう」
ミルカはすぐには笑わなかった。
「私のために、やめる感じにはしたくない」
「俺が行きたいって言っただろ」
少し強く返してしまい、俺も声を落とした。ミルカの眉が上がった。
「怒らなくても聞こえるよ」
「ごめん。俺も行きたいのに、うまく言えなくて」
彼女は歩き出さず、俺が袋の持ち手を握り直すまで待った。
「仕事も知りたい。本の店も見たい。今日はどっちを先にするか、決めるだけ。ラウラさんは、無理に残らなくていいって言ってくれたし」
ミルカは息を吐き、それからようやく少し笑った。
「分かった。じゃあ今日は、本の店」
二人で修理場へ寄った。ラウラさんは椅子の上へ新しい布を置いていた。俺が紙袋を渡し、午後は見学をお願いしないことを伝える。彼女は頷き、ミルカへ返してきた留め具の数を確かめた。
「三つ借りて、三つ返した。上出来」
「当たり前だよ」
「昔は二つ返して、一つどこだって話をしてたからね」
「今日は三つ」
ミルカは袋の口を大きく開いた。ラウラさんは笑いながら全部受け取り、棚へ戻す。俺へは明日の午後なら続きがあると教えてくれた。ミルカと予定を確かめ、明日はその時間に行くと決めた。
修理場から出ると、彼女は今日最初に出た時より、少し早く歩いた。俺の腕を引くほどではないが、本の店のある方へ迷わず向かっている。道を一つ曲がり、緑の看板の店へ入った。
中は狭く、背の高い棚が三列並ぶ。窓のそばに机、奥に店主の座る椅子。棚の端へ、薄い本を表向きに並べた一角があった。ミルカはそちらを指した。
「これなら、絵もあるから読みやすいと思う」
表紙に犬の絵がある。俺は開き、見たことのある数字を探した。頁の隅なら読める。本文の文字はまだ分からない。ミルカは隣から覗き込み、最初の一行を読んでくれた。
犬がパンをくわえて走る話だった。前の犬は自分のパンを持っているのに、後ろの犬が羨ましいと思って追いかける。絵では後ろの犬の方が大きい。俺が、これだと追いつかれるだろうと言うと、ミルカが声を押さえて笑った。
「追いつかれるけど、盗んだわけじゃないの。もともと自分のパン」
「じゃあ、追いかけた方は何をしてるんだ」
「最後まで読むと分かる」
彼女は続きをめくった。犬二匹と、パンを落とした店の人が出てくる。俺の知らない文字でできた物語を、彼女の声で少しずつ受け取る。質問は内容のためで、彼女が何を思っているかを確かめるためではない。こんな時間も一緒に過ごせるのだと分かった。
本は一冊だけ借りることにした。期限と料金を店主へ聞き、身分札を見せる。旅に出る可能性があるので、返せる日を先に確かめた。ミルカは自分の旅の本をもう一冊選び、俺のものと同じ袋へ入れた。
帰り道、彼女が袋を持ちたがった。俺が手当てをしているので気にしているのだと思ったが、渡すと嬉しそうに底を支えた。
「二冊とも、今夜読む?」
「俺のは一頁で止まるかもしれない」
「じゃあ、一頁だけ。一頁読んだら、あとは私の方を話してもいい?」
「聞きたい」
ミルカは頷いた。食事のあとに何をするかが、自然に決まった。帰還や仕事とは別の予定だった。
家へ着き、俺が扉を開けた。ミルカは本の袋を食卓へ置く。それから上着を脱ぐ前に、こちらを向いた。
「次からは、届け物じゃなくても誘うね」
「うん。俺も午後を決める前に聞く」
「毎回、私に合わせなくていいよ。今日は行ける、今日は行けないって、言ってくれれば」
俺は分かったと答えた。彼女は上着を椅子へ掛け、袖の折れていたところを伸ばした。
ただ、夕飯を作る前に彼女が呼んだ声は、昨日より近かった。
「ハルト。用事はないんだけど」
俺が振り向くと、ミルカが台所の戸口へ立っていた。
「今の、本の店、楽しかったね」
「うん」
「それだけ。言いたかった」
彼女は台所へ戻った。俺は食卓に置いた本の袋を開き、二冊を並べた。仕事なら何を手伝うか考え、困りごとなら直せるところを探す。今日は何も直していない。それでも、同じ午後を過ごせたことは、家へ帰ってからもう一度話したくなる出来事だった。




