第12話 隣の席で旅の相談
翌朝、俺が台所へ下りると、食卓の上に地図が広がっていた。端を押さえているのは茶の缶と、昨日借りた犬の本だった。パンをくわえて走る犬が、今度は地図の重しとして働いている。
ミルカは床へ片膝をつき、食卓の脚をのぞいていた。
「どうしたの?」
「この脚、少しだけ浮いてる気がして」
立ち上がろうとした彼女の銀髪が、椅子の背へ引っかかった。慌てて起きず、手で髪を戻してから振り返る。
「昨日、ここで地図を見てたら、茶が揺れたの」
「飛んでたわけじゃないよね」
「うん。私も風は使ってない。ついでに言うと、膝もぶつけてない」
「誰も疑ってないのに」
「前に師匠の机を揺らした時は、膝だったから」
俺は卓の縁を両手で押した。右奥の脚だけが、板張りの床を小さく打った。脚が縮んだというより、床の板の継ぎ目にかかっている。
「少し動かしてみよう」
「地図、どける?」
「茶だけ頼む。犬は働いててもらおう」
彼女が缶を持ち上げ、二人で卓を指二本分ずらした。揺れなくなった。
「直った」
「壊れてなかった」
「よかった。今日も家具が増えずに済んだ」
古い家具の修理には、物が増える場合と、何も買わずに済む場合がある。後者は説明すると地味で、目の前で揺れなくなると結構嬉しい。
俺は椅子へ座り、ミルカは缶を地図へ戻さず台所へ運んだ。
「朝ご飯の前に、見てほしい所があるんだけど」
「地図?」
「うん。用事がある方のお願い」
昨日のことを思い出したらしい。俺の返事を待つ顔がちょっと得意そうだった。
地図には、アルトから南東へ伸びる道に、鉛筆で小さな印が三つついている。最後の町はフェルネだった。名前をまだ読めず、海岸線と彼女の指で分かった。
「ここ、ミルカの家のある町だよね」
「実家ね。家はこれ」
足元の床をつま先で二回叩く。
「この前、お母さんの手紙に返事を出したの。晴人を拾った話は、もう書いてあるんだけど」
「拾った」
「救った、の方がいい?」
「そっちでお願いします」
「救った青年がまだ暮らしてます、って書いた」
それなら、どちらにしてもご両親は驚いただろう。俺は地図から顔を上げた。
「行く予定だったの?」
「染め布を運ぶ仕事を頼まれてた。荷主はフェルネのお店。行ける時に連絡して、アルトの倉庫で受け取る約束だったの。晴人の研究所の予定が決まるまでは、日を決めないでおいた」
ミルカは地図の中ほどを指した。
「それと、途中のエノ港まで、お客さんを一人運べる。さっき組合の掲示を見に行ってきたの」
「もう外に行ったんだ」
「起こそうかと思ったけど、まだ早かったから。ハルト、上で変な声出してたし」
「どんな?」
「んん、って」
「それだけで変な声扱いか」
「寝てる人の声って、だいたい変じゃない?」
彼女は笑いながら鍋の蓋を取った。昨夜の豆のスープが温まっていた。地図を片づける前に、旅の話をもう少し聞いた。
エノまでの客は染め布の見本を持った商人で、陸の便を逃したらしい。乗るのは一人、荷物は鞄二つ。そこまでの飛行は四時間弱。港で一泊し、翌日は途中の係留場へ、三日目にフェルネへ着く。風が荒れたら遅れると、仕事の条件にも書く。
「三日で行って、その後は?」
「お母さんの店へ布を渡して、実家に顔を出す。一泊か二泊。灯り市までにアルトへ戻れたらいいなって」
「戻らなきゃいけない仕事がある?」
「ない。見たいだけ」
言ってからミルカは俺を見た。何かを付け足しかけ、やめたように口が閉じる。
「俺も見たい」
「灯り市?」
「うん。この前聞いた時から」
「じゃあ、無理のない予定で戻ろう。海の町も案内したいけど」
その言葉はすぐに出た。俺が帰る研究のことも、彼女が仕事を続けることも、その間に行きたい町があることも、一枚の地図の上に載っていた。
俺は見本の旅程を手元へ寄せた。
「研究所の返事、アルトに来ることになってたよね。留守にして大丈夫かな」
「そこは師匠に相談したい。フェルネへ送ってもらうか、急ぎなら港で止めてもらうか」
「今日の午後、椅子の張り替えを見に行くから、その時聞こう」
「うん。私も倉庫に寄る」
話が決まると、食卓に朝食が並んだ。パンを切る俺の隣で、ミルカがスープをよそった。
「実家に行くなら、俺、何か持っていった方がいいかな」
「お土産?」
「うん。ずっと娘さんに世話になってるし」
「川桃のお菓子なら、お母さんが好き。でも、そんな立派なの買わなくていいよ」
「分かった」
「あと、お父さんに『俺が床を全部直します』とか言わないでね」
「そこまで言うつもりはなかった」
「床の話をすると、お父さん止まらないから」
娘の家の床がどうなっているか、ずっと気にしている父親だという。俺はこの家へ来た初日のことを思い出し、椅子の背に手を置いた。
「俺が直したの、最初の椅子と、扉と、ちょっとした所だけだって言うよ」
「それで助かってるの。でも、お父さんは床を見る」
どうやら床には別の説得力があるらしい。
昼を少し過ぎて、俺たちはラウラさんの修理場へ行った。昨日の椅子は、座面の古い詰め物を抜かれ、骨組みだけになっていた。ラウラさんは細い帯を椅子の裏で引き、膝を使って張りを確かめている。
「見てるだけだと、こっちの腕が楽にはならないぞ」
俺が挨拶をすると、革の前掛けから釘抜きを出した。
「これ。先に余った釘を拾え。踏むなよ」
「はい」
観察の席は、床の掃除から始まった。ミルカは事務室で旅の予定を話し、俺は拾った釘を短いものと長いものに分ける。
ラウラさんは帯の留め方を一度だけ見せた。俺が真似をすると、端は留まったが、真ん中がたるんだ。やり直そうとして手が止まる。
「最初に押さえる位置が近すぎる。ほら」
彼女の指が、俺の手のすぐ横を示した。
「力で引く前に、引ける場所を残せ」
やり直すと、今度は帯が平らになった。調子に乗って次へ手を出す前に、椅子をひっくり返していいか確認する。できる作業が増えることと、一人で全部をできることは違う。
戻ってきたミルカは、張られた座面の底をのぞき込んだ。
「これ、上からは見えないんだ」
「座れば分かる。見えないからって抜くと、客が床に落ちる」
「うちの椅子は抜けてないよね?」
「それは見せなきゃ分からん」
ミルカは俺を見た。俺も、最初の椅子のねじ以外を全部点検したわけではない。帰ってから見よう、と頷いた。
旅の連絡は、ラウラさんが研究所へ一筆添えてくれることになった。研究所にはフェルネの港と染料店を届け、こちらに手紙が先に来たら中継する。緊急の連絡であっても、郵便飛行士が天候を無視して飛ぶことはない。
「何も聞こえてない時に、悪い方へ想像して仕事まで止めるなよ。向こうも、できることができてから書いてくる」
「はい」
「分からんことは分からんまま、連絡先だけは分かるようにしとけ」
その方が、俺にはありがたかった。毎日待合室に座っていても、石が早く働くわけじゃない。
倉庫で預かる布は、巻いた状態で六本あった。倉庫係と数を確認し、ミルカが契約書へ名前を書いた。俺はまだ、その名前の最初の文字と、自分の名前しか読めない。数字と印を彼女に説明してもらい、包みの破れがないことを見た。
商人との顔合わせは翌朝だった。今日は家の荷室を整えて、飲み水を満たし、風晶を充填してもらう。俺は本屋へ寄って、借りた本の返却日を短くしてもらえないか相談した。
店主は俺の名前を台帳で見つけると、本を返す予定だった日を指していた。ミルカが横から事情を伝える。
「二冊とも、今日返しますか」
落ち着いた声の女性だった。棚を整える手を止めて、俺が手にした犬の本を待っている。
「できれば、明日の朝まで読ませてもらえますか」
「お出かけ前に持ってきてくだされば。それなら今日までの貸し賃で構いません」
知らない旅先に勝手に持ち出す前に聞けてよかった。ミルカも自分の本をいったん戻すことにした。
家へ帰る道で、俺は彼女に尋ねた。
「初めて実家からこの家で出た時、どんな気分だった?」
「隣の荷車に当てないようにしよう、って」
「もっとこう、大きな感想は?」
「あったけど、荷車が近かったの」
港の人が見に来て、ご両親もいて、窓から祖母が手を振っていたらしい。初めて持つ自分の家をぶつければ、全員に見られる。
「上がってから、少し泣いた」
ミルカは川の方を見て、さらっと続けた。
「怖かったのと、嬉しかったのと。あと、おばあちゃんの家が遠くなるのが、思ったより早くて」
「今度は、帰ってくる所を見てもらえるね」
「うん。今度は荷車がない所に下りたい」
彼女は笑った。それから俺の袖をつまみ、人が多い市場の入口で足を止めた。
「あ、川桃のお菓子、忘れる所だった」
セナの店は忙しかった。俺たちは列に並び、ミルカの母へ持っていく包みを一つ買った。途中で食べないように、紐の色を自分たち用と変えてもらう。
「あんた、自分の分も買ったの?」
「旅が三日あるから」
「お母さんに会うまで三日、ね。分かった。紐だけで信用するのやめとく」
セナは実家向けの包みに大きな札を付けた。俺がまだ読めない字で、ミルカは見て声を上げて笑う。
「何て書いてある?」
「エダさんへ。ミルカは食べない」
「見張りが付いた」
「最初から私が疑われてる」
セナは包みを渡しながら、ミルカへ家の話も少しした。店があるので見送りには来られないけれど、母親によろしく、灯り市の仕込みが始まる前には帰れたら寄って、と言う。彼女にも、いつも通り続く仕事がある。
夜、食卓の椅子を一脚ずつ逆さにして調べた。帯はこの家の椅子にはなく、板の座面だった。ミルカが灯りを持ち、俺が緩んだ留め具を探す。最初の椅子は、直した所がまだしっかりしていた。
「よかった」
「自分の椅子だから?」
「ハルトが直した最初のだから」
俺は椅子を持つ手を少し強めた。そのまま置くと、音を立てそうで、いったん持ち直した。
「まだ使えるよ」
「うん。次もこれに座る」
椅子を四脚戻したあと、犬の本の最後まで読んだ。逃げた犬はパンを落とさず、飼い主の所へ帰っていた。ミルカの指で追う文字を、俺は音にして真似する。
「最後、これ、犬の名前?」
「違う。お帰り」
同じ音を、彼女がもう一度ゆっくり言った。
俺は余白の紙へ書き写した。まだ似た線の区別がつかず、横の棒が一本多くなった。ミルカが鉛筆の先を指さし、ここは短い、と教える。
「帰ってきてるのに、名前を間違えられる犬」
「名前はどこにあるんだろうな」
「最初の頁。ほら、あるよ。ハルトが昨日読んだ所」
読み返すと、確かに一度見た文字だった。
ミルカは本を閉じ、明朝返す二冊の上に、手を重ねて置いた。
「明日のお客さん、ここの椅子に座るから」
「うん」
「ハルトは、いつもの所でいい?」
「俺の席、決まってたんだ」
「毎回、そこに座るから」
俺の椅子は、ミルカの右隣だった。窓から景色が見えて、台所にも近い。彼女の手が届くほどの距離を、自分で何度も選んでいたことに、今さら気づく。
「そこでいいよ」
「じゃあ、取っておく」
荷物の紐を確かめ、明日の朝食の豆を水へ浸す。旅客を迎える前の家は、いつもより少しきちんとしていた。
けれど席を取ってもらったせいか、よそ行きの場所になった気はしなかった。明日もこの隣で起きた後の茶を飲み、ここから三日かけて彼女の町へ行く。それが楽しみで、寝る前にもう一度、地図を見た。




